21 無垢
海斗はなかなか僕の手に堕ちてくれませんでした。何回かキスをして誘ってみたのですが、一線は越えたくないと頑なでした。
それでも、呼べば来てくれました。僕は彼の長い黒髪を撫でて褒め、好きだよと囁きました。じっくりとものにしよう。そう決めました。
兄の誕生日がきました。また彼の部屋で過ごすことになりました。兄の祖母から聞いたレシピを頼りにハンバーグを作りました。兄は喜んでくれました。
プレゼントには香水を渡しました。エルメスです。爽やかで大人っぽくて、兄にぴったりだと思ったのです。兄は自分と僕に香水をかけました。同じ匂いに包まれて、とても幸福でした。
「瞬、俺も年取ったよなぁ……」
兄は三十四歳になっていました。結婚して、子供が居てもおかしくない年頃です。しかし、兄の時は少年のまま止まっているように僕には見えました。ただ、狡猾さは年相応。厄介な人です。敵に回したくはありません。
兄がお酒を飲むのを見ながら、僕は悪い予感がしていました。去年の惨状を思い出したのです。そして、それは当たりました。
「死ね! 死ね!」
壁際に追い詰められ、頭を捕まれ、何度も壁に打ち付けられました。ぐわん、と世界が揺れました。
このまま殺されるのだろうか。それならそれでいいや。半ば諦めながら、兄の暴力を受けていました。
とうとう僕は気絶していたみたいで、目覚めるとベッドの上にいました。酷い頭痛がしました。兄は床の上に座って僕を見ていました。
「ごめんな、ごめんな、瞬……」
そう言って口づけてきました。僕は舌を絡ませました。兄のこの癖は一生直らないでしょう。終わって謝ってくれるのならそれでいいんです。
「兄さんは可哀想。だから、僕が受け止めてあげるね」
「ありがとうな、瞬」
「いつか兄さんに殺されてもいい。今日はそう思ったよ」
「俺は瞬に本当に死んでほしいと思ったわけじゃない。それだけはわかってくれよな」
歪んだ兄弟の形。その原因になったのは父です。彼はまだ、何も知らないまま、社会生活を営んでいる。
息子たちは罪を重ねていました。しかも、贖罪をする気すらありません。離れて暮らすルリちゃんの親は、まだ彼女が生きているとばかり思っているようです。兄が巧みに連絡を取っていました。
「二人目の女も俺が殺したことにする。瞬は無垢なままでいるんだぞ。いいな?」
無垢、と言われて笑ってしまいました。汚してきたのは兄だというのに。その時の僕はもう、淫らに身体を差し出し、誘うようになっていたというのに。
去年の時と同じように、兄は自らの生について考え始めました。
「俺はどうなったっていいんだよ、瞬。価値のない人間だからな。生まれてきた意味なんてないんだ」
僕は僕の論理を通しました。
「僕が兄さんの意味を見いだした。兄さんは僕に愛されるために生まれてきたんだよ。だから、そんな悲しいこと言わないで。兄さんのおかげで僕、幸せなんだよ」
また、キスを交わして、服を脱がせて。肌と肌を合わせることで、幸福を噛み締めていました。兄が僕の中に入り、僕も兄の中に入り。どこまでも快感を追い求めました。
ぐったりと疲れてベッドの上に寝転んで、手を繋ぎました。兄の大きな手は僕をすっぽりと包み込んでくれました。
兄が話し始めたのは、昔話でした。父との思い出でした。
「毎年、夏に行ってた川があってよ。父さんが俺のこと投げるんだ。荒波に揉まれて強くなれってな。まあ、父さんもそうして会社で生きてきた人だから。わかる気がする」
「その川……行かない? 二人で」
「ああ、いいぞ」
冬ではありましたが、僕たちはそこを訪れました。水をすくってみると、キリッと冷たく、僕はすぐに手を拭きました。
「ああ、あそこの深みの辺りだ……」
兄はざぶざぶと川に入っていきました。僕は慌てました。ためらった後、追いかけました。
「兄さん、兄さん!」
「ここで父さんと過ごした」
膝辺りまで、水につかっていました。兄は遠い目をしていました。
「あの頃、父さんは本当に俺のこと愛してた? あの頃からすでに、愛してなかった?」
「兄さんってば、しっかりして。ここ、危ないよ」
兄は僕の肩を掴みました。
「なあ、ここで二人で死ぬか、瞬……」
僕は兄の頬を両手で包みました。
「僕は兄さんと生きていたい。どんなことがあったとしても。僕たちは幸せにならなくちゃ。エンドロールはまだ早いよ」
そう。この物語はもう少し続くのです。兄は僕を抱き締めました。
「俺、生きててもいい? 生きててもいいのか、瞬」
「そうだよ。例え兄さん自身が自分の生を肯定できなくても、僕がしてあげる」
兄は頼りなくうっすらと笑いました。これで兄も生きる気力を取り戻してくれたかな、とその時は思ったのですが、違いました。兄は少しずつ、壊れていきました。
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