カチカチ山に出てくるウサギは、本当に殺されたお婆さんの無念を晴らそうとしていたのか?

戯 一樹

第1話



 皆さんは「カチカチ山」という日本昔話をご存知だろうか。


 などと訊くのも野暮に思えるほど、日本人ならば知らない人はほとんどおられないと思うが、皆さんが今日まで見聞きした「カチカチ山」は、お婆さんがタヌキに殺されないソフトタッチな物語を連想される方が多いと思う。

 前文でも触れたが、室町時代の頃に発表された「カチカチ山」では、お婆さんがタヌキに殺される。殺されるどころか婆汁としてお爺さんに食わせるくらい残虐的なシーンが描かれている。

 ここで残虐描写ありの原作を知らない方のために、自分が昔読んだ事がある「カチカチ山」の概要を箇条書きで説明したいと思う。

 当然ながら残虐なシーンも書かれているので、苦手な方は事前に注意してほしい。



・昔々、タヌキに畑を荒らされて困っていたお爺さんは、ある日、畑に罠を仕掛けてたぬきを捕まえる。


・捕まえたタヌキを料理しようと準備するお婆さんに対し、タヌキが泣きながら助けてくれと懇願。哀れに思ったお婆さんがタヌキを助けると、自由になった途端に、タヌキによってお婆さんが殺されてしまう。


・何も知らずに帰ってきたお爺さんは、お婆さんに出された鍋に舌鼓を打っていると、実は目の前にいたお婆さんはタヌキが化けたもので、それどころかお爺さんが食べた鍋は殺されたお婆さんを煮込んだものだと暴露され、お爺さんは泣き崩れる。


・その後、たまたま立ち寄ったお爺さんの家で事情を聞いたウサギは、お婆さんの仇討ちを決意。


・ある日、ウサギの策でタヌキを山まで誘う。上手い事を言ってタヌキに薪を背負わせたウサギは、その背中に火を付けて火傷を負わせる。


・別の日、火傷で苦しむタヌキに薬を塗ろうとするウサギ。しかしその薬は辛子で、タヌキはよりいっそうもがき苦しむ。


・また別の日、今度はタヌキを海へと誘うウサギ。タヌキを泥舟に乗るよう誘導し、沖合で溺死させてお婆さんの仇を討つ。


・お婆さんの仇を討ったウサギは、死んだタヌキを鍋にして、お爺さんと一緒に美味しく食す。



 とまあ、こんな感じの物語だ。

 エグい。とにかくひたすらエグい。自分も昔に「本当は怖い日本昔話」という書籍を読んでこの話を知った時は、あまりのグロテクスな内容に仰天したものだ。

 しかし。

 しかし、である。

 この「カチカチ山」の原作を読んだ時、私はこんな疑問を抱いたのだ。


 果たしてこのウサギは、本当に殺されたお婆さんの無念を晴らそうとしていたのか、と。


 よくよく考えてもみてほしい。

 いくらお婆さんの殺され方が惨たらしいものだったとはいえ、身の危険を冒してまで見ず知らずの他人のためにそこまでするだろうか。


 いわんや武士にも用心棒にも見えないウサギにおいてをや、である。


 もちろん当時の時代背景を考えたら、見ず知らずの他人でも無償で仇討ちをするのは不思議ではなかったのかもしれない。

 だが、相手はタヌキだ。雑食性で爪や牙もあるタヌキに、草食性で基本捕食される側のウサギがどうやって勝てるというのだろうか。

 まあそこはあくまでも童話として、少々の疑問点は目を瞑る事にしよう。


 続いて、ウサギがタヌキを山へ誘う話。


 この童話のタイトルにもなっている「カチカチ山」でのやり取りではあるが、これもよくよく考えたらおかしい。

 原作では薪に火が付いて背中が焼けるまで山を歩いていたタヌキだが、一度は「カチカチ」と背後で鳴る火打ち石には気付いておきながら、その後の煙にはまるで気が付いていないのである。

 嗅覚にとても優れていると言われ、エサも視覚ではなく嗅覚で探すと言われているあのタヌキが、だ。

 普通、煙臭かったから人間でも気付く。その人間よりも嗅覚が良いはずのタヌキが火傷を負うまで気付かないなんて事がありえるだろうか。甚だ謎である。

 まあそこは、逆風が吹いていたせいで煙の匂いに気付かなかったとでも解釈しておくとしよう。


 続いて、タヌキが泥舟に乗る話。


 さあ、もうおかしい。泥舟という時点ですでに色々とおかしい。

 こんなもの、あからさまに沈めと言っているようなものではないか。

 なぜタヌキは、こんな明らかに罠とわかる船に乗ってしまったのか。いくらなんでも頭が悪過ぎではないか、タヌキよ。

 しかしまあ、計算高いウサギの事だ。見た目は泥舟とわからない程度にあれこれ手が加えてあったのかもしれない。

 だが、所詮は泥なのだ。普通なら水に触れた途端に崩れていくはずである。そんなものがタヌキが溺れる沖合まで果たして形を保ってくれるものだろうか。

 まあここも、策士であるウサギの手によって何かしら直ぐには沈まない細工でもしてあったのだろう(実際藁の上に泥を塗った舟ならば、数分程度は浮くらしい)。


 最後は、お爺さんとウサギが一緒にタヌキ汁を食べるラストシーン。


 繰り返すようで悪いが、ウサギがタヌキを食べているのである。ウサギが、だ。いつからウサギは草食から肉食に目覚めたというのか。実はレタスや牧草を食べるのに飽き飽きしていたとでも言うのだろうか。

 いや、ウサギも肉を食うケースはある事にはある。だがそれはあくまでも共食いで、しかも大抵の場合は邪魔者を排除するための防衛行動と言われている。

 中には母体が弱っている時やストレスを感じた際に子ウサギを食べる母ウサギもいるようだが、どちらにせよ他の動物を襲って食べるような真似は一切しないはすである。

 ただ特殊な例で、カナダにいるカンジキウサギという野ウサギは、冬の飢えを凌ぐために鳥の死骸を食べる事もあるらしいが、重ね重ね言うが、これも特殊なケースである。


 翻って、「カチカチ山」に出てくるウサギはどうだろうか。


 この童話を読む限り、冬のような寒い時期のようには思えない。現に、タヌキが畑の作物を狙う描写がなされている。

 つまり畑の作物が実る程度には温暖な気候だったと思われる。

 ゆえに、ウサギが飢えていたあまりタヌキを鍋にして食べたとは考えにくい。

 次にストレスによる過食の線だが、元々はウサギ自ら引き受けた仇討ちなのだ。そんなウサギが果たしてタヌキを殺した事によるストレスなど感じるものだろうか。

 いや、絶対にないとは言い切れないが、いくらストレスを感じたからといって口に合わないはずの肉なんて食べるだろうか。

 そもそも報酬として殺したタヌキを食うくらいなら畑の作物をご馳走してもらった方がよほど良いように思える。

 まあこれも、童話ならではの擬人化の表現のひとつと解釈できなくもないが、それでもやはりウサギがタヌキを食べるというのがさすがに無理がある。

 ここまで考えて、ふと疑問に思った点がある。


 この仇討ち話、現実にあった事なのだろうか?

 もしやすべて、ウサギの作り話だったのではないだろうか?


 よく思い出してみてほしい。

 ウサギがタヌキを懲らしめる間、他に登場人物が出てきたであろうか? 

 原作は神の視点で語られてこそいるが、タヌキをこらしめていた間、他に目撃者はおらず、真実を知るのはウサギしかいない状態だった。

 つまり、ウサギがタヌキに大火傷を負わせたり、傷口に辛子を塗ったり、泥舟で溺れさせたりという一連の下りは、すべてウサギの虚偽妄言だったとしてもおかしくないはないのである。


 ではなぜ、ウサギはわざわざそんな虚言を吐いたのであろうか?


 そこで、荒唐無稽と思われるかもしれないが、それでも敢えてとある説を提唱したい。



 ずばりこのウサギは、タヌキが化けたものだったのではないか、と。



 いやいやそんな化けるなんて、などと言うなかれ。

 箇条書きでも触れたが、このタヌキ、殺害したお婆さんにしっかり化けているのである。

 人間の老婆にですら化けれるのだ。同じ獣であるウサギになんてもっと簡単に化けられるはずである。

 しかしそうなると、なにゆえタヌキはウサギの振りまでして仇討ち話をでっち上げたのかという疑問が当然ながら出てくる。

 その疑問にお答えするならば、おそらくお爺さんの復讐を恐れたからではないかと推察している。

 詳細はこうだ。


『お爺さんの罠にかかって危うく鍋にされかけるタヌキ。

 その仕返しとしてお婆さんを殺し、その肉を煮込んでお爺さんに食わせるという鬼畜の所業で溜飲を下げるも、あとになってお爺さんに復讐されるのではないかと襲われたタヌキは、ここで一計を案じる。

 それはウサギに化ける事によって、代わりにお爺さんの復讐を遂げるというものだった』


 とどのつまり、タヌキは別人ウサギになりすましてまんまと復讐劇をでっち上げ、その話をさも本当にあった事のようにお爺さんに語ってみせたのだ。

 これならば通りすがりであるウサギが見ず知らずの他人であるお爺さんのために危険を買って出たのも、急遽計画した案だったからか、ところどころ仇討ち話におかしな部分があるのも、最後にあろう事かウサギがタネキ汁を食べるシーンも、すべて説明がつく。


 そのかわり、同族であるタヌキの死体を用意する必要があるのだが、毎度畑で悪さするわ、しまいにはお婆さんを殺すくらいの悪逆をするほどのタヌキなら、今さら同族殺しくらいで躊躇いはしないだろう。

 また、お爺さんが話の矛盾に気が付く可能性もなきにしもあらずだが、お婆さんが殺されたショックで判断能力が落ちている状態と見て間違いないし、気付かれる前に隙を見てお爺さんを殺せば何も問題はない。

 これでお爺さんに復讐される心配はなく、それどころかお爺さんを殺しさえすれば、雨風を防げる家も飢えにも困らない畑もゲットできる。これを一挙両得と言わずしてなんと言おうか。

 もちろん、客人がお爺さん宅に訪れる可能性もなきにしもあらずだが、その時はお爺さんかお婆さんにでも化けたらいいだけ。まさに完全犯罪の成立というわけだ。


 ただし。

 ただし、である。


 この「カチカチ山」が発表された室町時代に、このような叙述トリックがあったとは少し考えにくい。

 なにせ世界最初の推理小説とされるエドガー・アラン・ポーの「モルグ街の殺人」でさえ1841年に発表されたものだ。それよりも五百年近く前の日本に推理小説的な作法があったとは到底思えない。



 ただ、少しご都合主義的な事を言わせてもらうと。

 室町時代に発表された作品とはいえ、絶対に叙述トリックなんて技術があるわけないとも言い切れない。というのもこの「カチカチ山」だが、作者不詳なのである。

 つまり、当時作者が何を思って「カチカチ山」を執筆したかなんて、だれにもわからないのだ。

 ゆえに、一見は勧善懲悪の教訓じみた作品と思わせておいて、その実、作者がこっそり読者を騙そうと叙述トリックを仕掛けていた線も決して絶無というわけではないのである。


 無論、こんなものはこじ付けの推理でしかないという自覚はある。だが、こういう考察が好きな自分にとって、実は「カチカチ山」はミステリー作品だったのではないかと考えるとワクワクが止まらないのだ。


 言うまでもなく、この説を信じる信じないかは、あなたの自由ではあるが。


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