9.2 リセットのシュール

 どれほど時間が経っただろうか。有栖と夏屋はただ黙って、寄せては返すエメラルドグリーンの波を眺めていた。太陽は高さを変えることもなく、天球の真上で輝き、海鳥はずっと同じ場所を旋回し続けていた。

「ねえ、もう私のこと、騙そうとしない?」

 有栖は白い砂を指先で触りながら言った。

「もう二度としないよ。僕は最低なことをした。君を殺すことを考えたことを後悔してる」

 有栖は立ち上がる。

「一つ思いついたんだけど、協力して」

「何を思いついたんだ?」

 有栖は足元の白い砂を指さす。

「これを固めて砂の椅子を作るの。椅子があれば目覚めることができるかもしれない。いつまでもここにいるわけにはいかないでしょ。今まさに寝ている私たちの身体をどこかに運んでひどいことをしようとしている現実の人がいるかも」

「砂、か。いいアイデアだ。よし、作ろう」

 夏屋は手を打った。

「作って」

「はい」

 有栖が無表情で言うと、夏屋は素直に従った。

 夏屋に砂の椅子を作らせている間、有栖は波打ち際を歩く。水平線には何もない。

「夏屋と関根の行動のすべての原動力は、この国をよくすること、で間違いないんだよね」

「ああ、そうだよ」

 さらさらと上手く固まらない砂と格闘しながら夏屋が答える。海水ときめ細かい砂で体中が砂だらけになっている。

「計画の中には総理大臣を狂わせることは入っていたけれど、総理大臣を殺すことは入っていなかった。そうだよね?」

「そうだ」

「夏屋、八雲さんのことはどうするの?」

「僕たちは将来の日本のために計画を立てた。僕も八雲さんほどではないが首相をよく思っていない。でも、殺すことで個人的な感情を発散させようとは思っていない。僕は関根が総理になればそれでいいんだ。八雲さんの気持ちはわかるけれど、総理の殺人未遂、いや、今はもうもしかしたら殺人を犯したことは変わらない。八雲さんにはしかるべき方法でそれを埋め合わせなくちゃいけないと思う」

 少し黙ってから夏屋は続ける。

「僕も償う。君の殺人未遂を」

「その言葉が聞けてよかった」

 有栖は夏屋の方へ振り返る。

「……なにそれ」

 夏屋の前にあったのは、とても椅子とは思えない、奇妙な砂の塊だった。なぜかトンネルや空中回廊のようなものや、無駄にアーティスティックな装飾が目に付く。

「何って、椅子だけど」

「夏屋、ここにきて。で、四つん這いになって」

 夏屋は奇妙なオブジェを作る手を止めてやって来る。

「ちょっと待て。君は僕を人間椅子にして目覚めようとしてないか?」

「もうこうなったらしょうがないでしょ」

「いや、駄目だ。僕の上で君が死ぬなんてグロすぎる。というか、人間椅子は椅子としての判定なのか?それに、君はそうしたら目覚められるかもしれないけれど僕はどうなる?残った君の死体の上に座って死ねと?」

「それは嫌。あの椅子に座って死ねばいいでしょ」

「無理だろ、あんなの椅子に見えない」

「あんたが作ったんでしょうが!」

 二人が互いにつかみかからん勢いで言い争い始めたとき、水平線に何かがきらりと光った。二人はいっせいに海の方へ眼を凝らす。

「船?」

 やがてそれはだんだんと大きくなって近づいてきた。船だ。誰かが甲板から大きく手を振っている。

「有栖!助けに来たぞ!あ、……あと、とりあえず、夏屋、お前もな」

「吉原さん?!」

 船に乗ってやってきたのは吉原だった。派手な柄のサーフパンツを履いて、オレンジ色のライフジャケットを着ている。

「撃たれて死んだはずじゃ?」

 有栖は自分が眠る前の研究室の様子を思い出す。そういえば、あの部屋には誰もいなかった。調月を探してイスの間をよく確認したが、死体もなかった。

「当たり所が良かったんだ。何時間も気絶していたけれど、三途の川を渡らずに済んだみたいだ。この腹の厚い脂肪のせいかな」

 吉原は自分の腹をさする。なにはともあれ、今はその幸運に感謝しなくてはならない。

「誰に撃たれたんですか?」

 吉原はその時のことを思い出してか苦々しい顔をした。

「八雲だよ。僕は君をイスに座らせた後、羽柴といっしょに夢を操作して、君にパスワードを迫った。僕は森の中での芋虫で、僕にパスワードを教えなかった場合に羽柴が猫となって聞き出すようにしていた。しかし、その夢にどこか遠隔にいた夏屋からハッキングがあり、夢の操り主の権利を奪われた。調月は別の機械でハッキングし返すために自宅へと戻った。その間に踊り場で伸びていた八雲が起きてきて僕を撃った」

「私が起きたとき、けっこう血は冷たくなっていたような気がするんですけど」

「八雲の工作だろう。アリバイで君をごまかすためだと思う。人殺しの言う言葉なんか信じられないだろ」

「確かにそうですね。八雲さんは吉原さんが倒れているのに気付いた私に総理大臣の夢のログをくれました」

「それは本物だ」

 夏屋が会話に割り込んだ。

「首相の夢のログは数日前から盗まれていた」

「八雲さんは夏屋と関根の計画を知って、チャンスだととらえたんですね。どさくさに紛れて憎い首相を殺そうと決意を固めた、と」

 だからあの時私にピストルを持たせたのだろうか、と有栖は思う。

「首相はまだ死んでない」

 吉原が言った。

「二人がイスに座るのを見届けて調月と僕は研究室に入った。その時点で、首相とつながりのある裏社会っぽい人間がたくさん屋上に向かっていった」

「首相はヤクザと絡んでたんですか?」

「臓器売買市場を合法化させた張本人だ。全く不自然じゃない」

 夏屋は忌々しそうに言った。

「今、屋上は大乱闘中だ。早く起きてこのビルから避難した方がいい」

「あっ、そうだ。新しいパスワード。調月くんが変えたのなら吉原さんは知ってるんですよね」

「もちろんだ。ちゃんと船の中には椅子も三脚ある」

「どうしてもっと早くパスワードを持って助けに来てくれなかったんですか?それに、有栖がパスワードを思い出したのにわざわざ変えたのはどうしてですか?」

 夏屋は吉原に聞く。

「夏屋、お前が真実を話すのを観測するためだ。今は夢の世界から助けるのに協力するけれど、目覚めたらちゃんと責任を取れよ」

 吉原は船の中から三脚の会議室によくあるパイプ椅子と三丁のピストルを出した。

 三人は海に向かって椅子を並べ、それぞれピストルを自分のこめかみに当てた状態で椅子に座った。

「僕がパスワードを言い終わったらすぐに引き金を引いてくれ」

 二人は頷く。吉原は大きく息を吸い込む。

「ヘリウムネオンアルゴンクリプトンキセノンラドンオガネソン!!」

 ビーチに銃声が響く。

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