9.1 謎解きのビーチ
有栖透子は目を覚ました。熱い陽射しが全身を焼いているのを感じる。波の音がしている。上体を起こす。手には熱い砂の感触。
有栖の目の前には、青く、どこまでも広がる海と空が広がっていた。Tシャツにショートパンツ、ビーチサンダル、おまけにハイビスカスのレイを首からかけている。白砂が太陽の光を反射して眩しく光り輝いている。
「うう、ん」
急に背後で呻き声がして有栖は飛び上がり、その勢いのまま素早く立ち上がった。
有栖の2メートルほどの近くに、アロハシャツを着て麦わら帽をかぶった男が倒れていた。男は目をこすりながら起き上がる。夏屋だった。
有栖はここに来た目的を思い出す。誰にも邪魔されないような場所で、パスワードを唱えてみること。夏屋がここにいる理由が分からないが、とにかくパスワードを言ってみなくてはならない。有栖は息を吸い込み、海に向かって叫ぶ。
「グランデノンホイップ――っ」
視界がぐるりと回って、有栖は口を塞がれ、組み伏せられたのだと気付く。夏屋がものすごい力で有栖を押さえつけている。
「言わせないよ。パスワードの実行条件は夢の中で大きな声で叫ぶことだ。夢リセットはさせない」
有栖は夏屋の手に噛みつき、砂を掴んで顔に投げつけると、夏屋の下から逃げ出す。
「グランデノンホイップチョコチップバニラ、」
夏屋が有栖の足を掴んで転ばせ、言葉を最後まで言わせない。
「クリーム、」
足を掴まれた有栖は夢中でもがいて逃げようとするが、夏屋のほうもしっかりつかんで離さない。頭を足で思い切り蹴ることで何とか逃れる。途切れてしまったので、有栖は再び最初から砂浜を走りながら唱える。
「グランデノンホイップチョコチップ、」
砂は熱く、走りづらいので波打ち際へ走る。夏屋も追う。
「バニラクリーム、」
「やめろ、やめてくれ!」
「フラペチーノ!!」
夏屋に押されて有栖は倒れ込む。波が折り重なって倒れ込んだ二人に海水をかけ、そして引いていった。
「……」
もう一度波が来て、二人をずぶぬれにし、また引いていった。
「……」
何も起こらない。
「あれ?おかしいな。パスワードは間違いなくこれなはずなのに」
二人は立ち上がった。お互いの顔を見合わせる。ぽかんとした顔がなんとも間抜けだった。
やがて、夏屋は肺の空気をすべて出し切るんじゃないかと心配になるほど大きく長い溜息をついて、空気が抜けるように頭を抱えてへなへなとしゃがみ込んだ。絶望した声でつぶやく。
「終わった……」
「何が終わったの?」
夏屋は髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「僕は君がイスに座って夢の世界に行くのを見届けてから装置をいじり、パスワードを変更する予定だった。そうすれば君たちは僕が教えない限り、たぶん一生夢と現実の区別がつかないまま生きて行かなくちゃならなくなるはずだった」
「ひどい話だね」
「でも、その計画は狂った。調月だ。調月は僕が出てくるのを待ってから飛び出し、僕を突き飛ばしてイスに座らせた。今頃、装置をいじっているのは調月だ。調月はおそらくパスワードを変更するだろう。そして、パスワードとともに、夢のリセット範囲の選択も変更するだろう。さっきのパスワードの場合は、装置を通して見た夢に関する記憶を誰のにも関わらず、最新の夢の情報を覗いてすべて消すという範囲選択だった。でも、それはパスワードを知っている人間には任意に変えることができる。調月は僕たちを狂わせることができる。今の会話だっておそらく観測されている」
「調月くんはそんなことしない。夢をちゃんとリセットしてくれるはず。そうじゃなくちゃ首相の混乱も収まらない」
「調月は首相のいろいろについて把握しているのか?」
「夏屋が説明してあげなかったのなら知らなくてもしょうがないと思うけど」
「いや待て。調月がいじったならまだいいかもしれないが、もし八雲がいじっていたなら?」
夏屋はぶつぶつとつぶやく。
「今すぐ現実に戻る。今はパスワードを知らない者同士ということで君と争う理由はない。いっしょに目を覚ますよ」
夏屋は立ち上がった。
「どうやって?」
有栖は腕を広げた。夏屋は辺りを見渡す。そこは、椅子どころか、岩も木も無い、漂流物やゴミさえも一つもない、砂浜だけがある小さな島だった。
「なんでこんな島を夢の舞台にしたんだよ」
「パスワードを言うのに、誰にも邪魔されないところはどこだろうって考えたとき、無人島くらいしか思いつかなかったんだよ。でも、結果的に夏屋に邪魔された」
「どうやって目覚める予定だったんだ?」
「パスワードを言ったらすべて解決すると思ったから、いらないものは極力排除したのがこの島。黒服たちに追われて動転していたんだよ」
夏屋はまたため息をついた。砂浜に座り込む。なんとなく有栖もその横に座った。空の高い所を海鳥が飛んでいる。
「ねえ、このまますることもないし、答え合わせでもしようよ。もう隠すことなんかないでしょ?」
夏屋は黙っている。有栖は話し始める。
「夏屋は関根を総理大臣にするために今の総理を狂わせ、研究の内容を知っている私たちが邪魔だったから私たちも狂わせようとした。でも、私だけが知っているパスワードだけが懸念の種だった。何度も私の夢に現れてパスワードを言うなと言っていたよね。ずっと思い出さなければ問題ないが、なにかの弾みで思い出し、すべてをリセットされてしまうかもしれない。夏屋はそれが怖かったんでしょ。だからその不安の種を失くすために、私を殺そうと考えた」
夏屋は小さく音のない拍手をした。
「その通りだよ」
「羽柴さんや調月くん、吉原さんは狂うだけで十分だが、私は殺して口を永久に封じておかなくちゃならなかった。だから夏屋は私を出張に出かけさせ、私以外の三人をまず狂わせた。そして、出張から帰ってきた私の夢も操った。高校の屋上でコーヒーの缶を回す夢。あの時夏屋は死ぬことが夢から醒めるトリガーだと強調した。それは、現実と夢の区別がつかなくなった私が、その手段を選ぶように仕向けていたんじゃない?同じようにトリガーを勘違いした首相も混乱の果てにビルから飛び降りようとした」
夏屋は下を向いている。
「最低だよ、ほんと。高校の時から長い付き合いがある私のことを、簡単に殺そうなんて思えるなんて」
「ごめん」
「何か言い訳があるなら言ってよ。私の命よりも優先した、関根の価値を教えてよ」
有栖は夏屋を掴んでゆすぶる。声が震える。感情が溢れだしそうになる。夏屋は歯を食いしばるように顔をゆがめる。
「関根の公約は、『真に実力のあるものが実力を発揮できる国作り』だ。君から見た関根はたぶんそんなに印象が良くはないだろうけれど、彼には実力があるんだ。君はあまり新聞やテレビを見ないからピンとこないかもしれないけれど、この国は相当腐っている。政治の腐敗だ。白間が総理になって何年になる?10年だ。その間白間は何をした?表向きはまじめな顔をしているが、実際はくだらない政策ばかりをやって時間を潰し、今の地位を守ることにばかり金を使う。僕はそれを変えたいという関根をどうしても応援したかったんだ。一度でいい、白間を総理の座から引きずり下ろすことができたらそれでよかった。最初は、君を自殺に追い込もうなんてことは思っていなかったんだ。なんなら君に協力をもちかけることすら視野に入れていた。でも、計画はエスカレートした」
有栖は目の前で話している男が、何年もいっしょに時を過ごし、同じ研究をしていた人だとは思えなかった。嫌悪が胸を占める。
「計画が緻密になり、大きくなっていくほど、僕の中でパスワードという穴がどんどん大きくなっていくように思えた。不安感に耐え切れなくなった。それで、……君なら夢の中で僕のことを信じてくれると思った」
「それで、騙した」
有栖は夏屋から手を離した。
「おかしくなっていたんだ。今は、後悔しか浮かばない」
「関根に協力したことは後悔していないんでしょ?」
「それは、ああ、そうだ。関根は総理大臣になってこの国を変えるべきだと信じてる。もう二度と、八雲さんのような不幸な人を出さないように」
「八雲さん?」
八雲の名前が唐突に出てきて有栖は戸惑う。
「君が研究室に入ってくる前に銃声が聞こえた。八雲さんが白間を撃ち殺した音じゃないのか?」
「死んだかどうかは私は見てないけど。でも、八雲さんが発砲したのは本当。八雲さんはなぜ白間首相をあんなに殺したいほど憎んでいるの?やっぱり政治の腐敗のせい?」
夏屋は頷いた。
「八雲さんの家族は全員心臓に疾患を持っていた。それも、臓器移植をしなければ完治は見込めないような疾患だった」
「あ、臓器移植法……」
「そう。白間は表向きは臓器提供の機会を増やすという名目で、一言で言うならば、臓器を一定の価格以上なら売り買いしてもいいという法律を通した。すると案の定、高額な金を積んだ患者の元に集中して臓器が流れることになる。順当にいけば順番が来たはずだった八雲さんの母親は亡くなった。八雲さんと残された父親は、今度は同じく心臓の悪い八雲さんの弟のために臓器を買おうとした。しかし、その時には早くも臓器がビジネスになると気付いた裏社会の人間が臓器の市場の価格を握るようになっていた。金を稼ごうと、あまり心臓の強くない父親は無理をして亡くなった。追いかけるように弟も亡くなったそうだ」
一時期話題になったが、しばらくして静かになった話題だったので、有栖はニュースで概要を知るのみで終わっていたが、当事者として巻き込まれた人間がこんなにも身近にいたとは知らなかった。
「夏屋が関根を応援しようと踏み切ったきっかけは八雲さんなの?」
「いや。それを知ったのは関根に協力し始めてしばらく経ってからだ。白間は報道を札束で殴って情報を操作し、全国民を操った。じゃあ、僕も同じ方法で対抗してやるだけだ。夢と現実、嘘と真実、それをごちゃごちゃにする点で、僕は白間のやり方をなぞっている。僕にはそれができる技術があった」
夏屋は両手で頭を抱える。
「でもこうなったらもうそれは叶わない。僕は失敗した。八雲さんが白間を殺せば、関根が次期総理になるような発言を引き出すことができなくなる。八雲さんの存在にもっと早くから気付いておくべきだったんだ」
「夢の中じゃなんにもできないね」
目の前にはただ空と海が広がっているばかりだった。
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