8 夜の銃声
有栖透子は目を覚ました。強い風で髪がなびいて顔に当たっているのを感じる。
「目が覚めた?」
顎を強引に持ち上げられ、目の前に関根の顔がある。やけに白い歯が目に付く。有栖の両腕は屈強な黒服の男二人によってしっかりとホールドされ、動けなかった。腕を掴まれ、前かがみで立たされた状態で眠っていたらしい。有栖は辺りを見回す。ヘリポートとして使えるような線が引いてあるコンクリートの地面、それを照らす強烈な白いライト。研究室があるビルの屋上だった。東京には夜が来ていた。
「うえ、血が出てる」
関根は有栖の顎から手を離してスラックスに擦り付けた。目覚めるとき、現実で唇を強く噛んでいたようで、切れていた。
「ずいぶんうなされていたみたいだけれど。まあ、目覚めてくれてよかったよ。聞きたいことがあるんだ」
「あなたもパスワードが欲しいの?」
「話が早くて助かるよ」
「夏屋は私にパスワードを言ってほしくなさそうだったけれど、あなたは夏屋のぐるじゃないの?」
「そうだよ。夏屋は俺の頼れる相棒だ。夏屋だってパスワードは欲しい。でも、他のやつらに先にパスワードを知られるわけにはいかなかった。だからあんたに言うなって言ったのさ。でも今はもう大丈夫。俺は夏屋の仲間だ。安心して言っていいんだよ」
「私利私欲のために調月くんや羽柴さん、吉原さんを狂わせたあなたになんか教えない」
「そう言うと思ったから、言いたくなるような工夫をさせてもらったよ」
黒服に引っ張られて無理やり後ろを向かされる。フェンスの向こうに人影があるのが見えた。
「まさか、白間首相?」
フェンスの向こう側に立つ人が振り返る。ライトに照らされたその顔は、白間で間違いなかった。
「パスワードを言え。さもなくば首相がダイブしちゃうよ」
白間と目が合う。白間の秘書は縛り上げられてフェンスの手前に転がされていた。
「なあ君、これは夢だよな?」
白間は震えた声で言う。
「夢じゃないです!首相!これは現実です!」
「そのパスワードってものがどれだけ重要かわかったよ。君の言ったとおりだった。私を狂わせたのはそこにいる関根と、その仲間の夏屋だった。夢はリセットしなくてはならない。もうずいぶんごちゃごちゃになってしまった。大丈夫だ。これは夢だから、私が飛び降りれば私は目覚める。君はその大事なパスワードを決して言ってはいけない」
「だからこれは現実なんですってば!白間首相!飛んじゃだめです!」
白間は力なく笑って有栖に背を向ける。
「止めて!止めてください!あのままじゃ飛び降りちゃいますよ!」
有栖は関根に叫ぶ。
「パスワードを教えてくれたら、あそこにいる部下にフェンスを越えさせ、首相を止めてあげよう」
「わかりました。わかりましたから」
関根の顔は笑顔になる。選挙ポスターのような満面の笑みだった。
「パスワードは、『グランデノンホイップチョコチップバニラクリームフラペチーノ』です」
有栖はがっくりとうなだれた。
「よし、記録したな」
関根は黒服が頷くのを見て満足気に笑った。黒服の一人がフェンスを軽やかによじ登り、白間の腰をがっちりと掴んだ。
「何するんだ、私はこれから目覚めるんだぞ!」
白間は暴れた。次の瞬間、銃声がして、白間の腰を押さえていた黒服の首が不自然に曲がったかと思うと、糸が切れたように脱力し、白間の腰を離すと、ビルの下へと落下していった。
「外したか」
「誰だ!」
黒服たちが一斉に懐からピストルを抜く。現れたのは八雲だった。どこからか走ってきたのか、少し息が上がっている。
「白間首相、これは夢ですよ。だから飛び降りてくださいよ。飛び降りないなら、俺が背中を押してあげますから」
八雲は白間に銃口を向けたままフェンスへと走る。黒服たちがそれを追うが、八雲は何発か黒服たちの方へ発砲して威嚇する。フェンスまでたどり着いた八雲はフェンスに飛びつくと上っていく。黒服たちはそれを引きずり降ろそうとし、乱闘のようになる。
「ああ、悪夢だ」
フェンス越しに争いを見て白間は絶望した声で言う。白間はビルの下を見下ろす。さっき落ちて行った黒服の転落死体が小さく見えた。パトカーと救急車の赤いランプがちらちらと光っている。
「駄目だ!」
白間に飛びつくようにして飛び降りを阻止したのは、関根だった。
「あなたに今死なれたら困るんです。あなたにはまだ後任に俺を推薦するっていう仕事があるんだよ」
「落ちろォ!」
八雲が叫んでフェンスの隙間からむやみに発砲する。
「あんたの政策のせいで俺の家族は死んだ!俺はずっと待っていたんだ!この時が来るのを!あんたがわけもわかんないままで死ぬこの時をな!」
八雲はしがみついてくる黒服の眉間に銃弾を食らわせると、フェンスを上り切り、乗り越えて、関根と白間がもみ合っているところへ入る。三人の争いが始まった。
有栖は足を思い切り振って、黒服の一人の股間を蹴り上げた。黒服は呻いて手を緩める。その瞬間に有栖はもう一人の方の黒服も振り切って走り出した。二人の黒服は追いかけてくる。塔屋に飛び込むとドアを閉め、鍵をかける。
「開けろコラァ!」
怒鳴り声と、ドアを乱暴に叩く音が聞こえるがしばらく時間は稼げるだろう。有栖は階段を三段飛ばしで駆け下り、自分たちの研究室のフロアへと急ぐ。デスクの並ぶ研究室のドアを開けるが、中は電気も消えて人気もない。イスの並ぶ研究室に飛び込むが、こちらもがらんとして誰もいない。
「調月くん!いないの!?」
イスの陰までしっかりと探したが、その部屋には誰もいなかった。スマートフォンはどこかで落としてしまったのか、ポケットからなくなっていた。調月と連絡を取ることができない。これでは、パスワードの実行方法がわからない。
「ええい、もうやってみるしかない……!」
有栖は意を決すると、イスの一つに腰掛けた。夢の中でこのパスワードを言ってみよう。もしかしたら実行できるかもしれない。夢のリセットなのだから、夢の世界でこそ実行が可能であることは、妥当な推測にも思えた。腰掛けてすぐに意識が遠のいていく。
「既存パスワードがわかった。これでやっとパスワードの書き換えができる」
薄れゆく意識の中で、有栖は夏屋の声を聞いた。装置をいじる音がする。眠気に抗おうとするが、目が開かない。
「やめろ!」
調月の声がして、有栖の意識は途絶えた。
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