7 屋上の閃き
有栖透子は目を覚ました。
顔を上げると、フェンスの向こうに初夏の青い空が広がっている。高校の屋上だった。制服を着ている。
「目が覚めたか?」
はっとして横を見るが、そこにいたのは、前髪をやたら長く伸ばした男子だった。学ランを着て、片手に使い込まれた化学の教科書を持っている。
「八雲さん」
それは、研究員の八雲だった。少し顔が若く見える。
「私はどうやらまだ寝ていて、夢を見ているみたいですね。うちの高校は学ランじゃなくてブレザーですし。ハッキングしたんですか?」
「そうだ。調月と夢で会ったか?」
「はい。さっきまでいた森の中で会いました」
「俺は調月、吉原、羽柴と全く同じ状況に置かれている。今ハッキングをしてあんたと話しているのは、あんたの夢を少しでも引き延ばし、あんたと話をして深層心理に近づき、昔設定したパスワードを思い出してもらうため、言うならば時間稼ぎのためだ」
有栖は時計を見る。針は動いていないように見える。
「なにか思い出せそうな兆候はあるか?」
有栖は目を瞑って必死に古い記憶にアクセスしようとする。もう少しで思い出せそうなのに、あと少しが足りない感覚だった。
「何か、あと少しでも手掛かりがあれば……」
大事なパスワードなのに自分が忘れてしまっているがために、何人もの人に迷惑をかけているのだと思うと、有栖は申し訳なさでうつむいてしまう。初期化というのは最後の手段のようなもので、基本的に機械が寿命を迎えるまで、まあ使うことはないだろうという見込みのもと、適当に決めてしまったような気がしている。このパスワードは、誰でも簡単に初期化できては困るので、有栖が一人で決めたものだった。メールアドレスやマイページログインのパスワードのように、再発行したり、他人に助けてもらうことはできなかった。
「脳科学の観点から見れば、夢というのは頭の奥底を映す。夢は起きているときに体験した出来事を整理し、記憶を保存する。あんたの見る夢に頻繁に登場するものはなんだ?場所は?人物は?もしかしたらそれに関係しているかもしれない」
有栖は夢を思い返す。私の夢によく出てくるものって何だろう。屋上、研究室、不思議な森、カフェ……。場所をイメージし、そこに何があるか想像したが、あまりぴんと来るものもない。
「うーん……」
頭を抱えてうなる有栖の肩をぽんと叩いて八雲は立ち上がった。
「難しいことを頼んでいるのはわかっている。ちょっと飲み物でも買ってくる」
有栖は屋上に一人取り残される。穏やかな初夏の空の中を、雲が一つ二つゆっくりと流れて行った。時計の長針は動かない。
「どうぞ」
しばらくして八雲が戻ってきて缶コーヒーを渡される。
「ミルクコーヒー。甘いのが好きなんですね」
八雲は黙って自分のぶんの缶を開けてぐいと傾ける。有栖も缶を開ける。甘いコーヒーの香りがする。
「あっ」
頭に電撃が走ったかのように感じた。カフェチェーンの情景がはっきりと思い浮かぶ。
「どうした?思い出したのか?」
「はい!パスワードを決めたときも私はあそこにいた……。間違いありません。思い出しました」
有栖は興奮して椅子を蹴り倒して立ち上がった。
「何だ、言ってくれ!」
八雲はがばっと立ち上がり、有栖に顔をぐっと近づける。八雲も興奮し、目をらんらんと輝かせる。
「それは、グ――」
八雲は鼻の頭をこすった。
有栖は、はっとして口をつぐむ。
「おい、どうした。言ってくれればリセットできるんだぞ」
有栖は後退る。そのしぐさには見覚えがあった。森の中で出会った、夏屋のウサギだ。八雲はさっきの夢で夏屋の振りをしていた……?
「この夢を操っているのは誰なんでしょう」
「急に何を言い出すんだ。パスワードを教えてくれ」
「あなたの意図がわかりません。どうして直接こうして話をしなかったんですか?あなたは羽柴さんと同じ境遇に立たされているはずですよね。ならどうして羽柴さんにあんなふうなことを言えるんですか?」
心臓が早鐘を打っている。
「それとも単なる夏屋の印象操作ですか?あなたはこの夢をハッキングしたと言いましたが、本当はあなたが私の夢の操り主なんじゃないですか?調月くんもパスワードを求めています。あなたはパスワードを独り占めしようとしてるんじゃないですか?」
「質問ばっかりだな。しかも勝手な憶測を補強するための質問ばかりだ」
夢から醒めないと。有栖はフェンスをよじ登る。
「なぜ教えない!さっさと言え!」
八雲は有栖の服を掴んでフェンスから引きはがす。有栖は屋上のコンクリートの上を転がる。八雲が向かってくる。
「パスワードが必要なんだ。言わないのなら言うまで付き合う覚悟はできてる」
「所詮夢の中です」
「苦痛は苦痛だ」
言うなり八雲は有栖にとびかかって来る。有栖は横っ飛びに飛びのいて素早く立ち上がる。全力で塔屋に走り、ドアを引っ張るが、開かない。内側から鍵がかかっているのか。八雲が走って来るので屋上から別の場所に逃げることは止めて、さっきまで有栖が突っ伏して寝ていた机の元に走る。
机を回り込む。二人は机を挟んで油断なく相手を睨みつける。
早く。早く死んでこの夢から醒めないと。焦りの中、ふと、有栖は違和感を覚える。死ぬ?今までずっと死ぬことが夢から醒めるトリガーかと思っていたが、本当にそうなのだろうか?さっきの森では蝶に食われて死んだが、今いるここは現実ではない。前もこんなことがあった。空を飛ぶバイクから転落死したが、次に目覚めたときは夢の中のカフェだった。
「パスワードを言えよ」
夢から醒めるにはどうしたらいい?今までに起こったことの共通点はなんだ?前にこの屋上で見た夢はどうやって醒めた?コーヒーが溢れて溺死した。カフェの夢から醒めたのは?夏屋に首の骨を折られて死んだ。目覚めるときと目覚めないときの死に方の違いはなんだ?
ふと、足元に倒れている椅子に足が触れる。
椅子だ。
コーヒーで溺死した時、私は椅子に座っていた。カフェでも椅子に座って死んだ。
有栖は机の上の缶コーヒーを八雲に投げつけ、八雲がひるんだ隙に倒れた椅子を立て、そこに座ると、舌を思い切り噛んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます