6 食肉の蝶

 有栖透子は目を覚ました。水色のエプロンドレスを着ていた。

「何ここ……。鳥かご?」

 巨大な鳥かごのような形の檻の真ん中に固定された金属製の椅子に有栖は座らされていた。鳥かごは森の中にぽつんと置いてあった。有栖は椅子から立ち上がって檻の中を調べてみるが、出入口は見当たらない。今まで有栖が座っていた椅子は、座り心地が悪く無骨なデザインで、無数の傷と、何やらどす黒い汚れがこびりついていて穏やかではなかった。

 色とりどりの蝶が近くを舞っているので行先を目で追うと、たくさんの蝶が一か所に群がっているのが見えた。蝶は美しい羽根を持っているが、あまり集まりすぎると鳥肌が立つ。

「あの蝶が見えるかい」

 そこには長い耳を頭の頂点で結んだウサギが立っていた。ピエロのような服を着て、後ろ足で歩いている。

「夏屋。これはあなたの夢?私や首相の夢を操ったの?あなたは関根とどういう関係なの?」

「僕は関根のただの友達さ。友達には協力しないと。君が僕の研究についてきてくれたみたいに」

「関根を総理大臣にさせようとしているんでしょう。そのために夢を利用して狂わせるなんてひどいよ。夢の危険性は夏屋が一番わかっているはずでしょ」

 ウサギは鼻の頭をこする。

「必要なことなんだ。何も友達だからという理由だけで僕は関根に協力しているわけじゃない。君はもう関根のマニュフェストは知っているよね。関根こそが総理大臣になり、日本という国を変えるべきなんだ。真に実力のあるものが実力を発揮できるような社会を作れるのは彼なんだよ」

「彼こそが、真に実力はあるけれどそれを発揮できずにくすぶっている人って言いたいんだね」

「そうだ。まあ、今はこんな話をしにわざわざ鼻がひん曲がりそうになりながら来たわけじゃない」

「鼻がひん曲がる?」

 言われて有栖は違和感の正体に気付く。気が付いたときから今まで嗅いだことのない、奇妙な匂いが辺りに立ち込めていた。ウサギの嗅覚のほうが人間よりも優れているので、敏感に臭いを感じ取ってしまうのだろう。

「あの蝶だよ。やはり、人肉が腐る臭いというのは耐え難いものがある」

「じんにく」

「人の肉。まあ、見ていて」

 夏屋は手近にあった大き目のキノコを一つむしると、蝶が大量に群がっているところに投げた。蝶は驚いてひらひらと空中へ散らばる。そして、蝶が今まで群がっていた対象物が姿を現した。

「!」

 有栖はとっさに両手で口を塞ぎ、胃からせり上げてくるものをこらえた。蝶が群がっていたのは、人の死体だった。皮膚を食い荒らされてその下の真っ赤な肉がぬらぬらと光っていた。蝶たちはしばらくしてキノコが脅威ではないとわかったのか、また群がり始める。有栖は蝶に覆い隠される直前に、その人間の頭に三角の何かが生えているのを見る。耳のようだ。

「まさかあれって……」

 夏屋は鼻の頭をこする。

「そう。羽柴さんだね。あの蝶たちはたんぱく質を融かす毒を吐いて、少しずつ死体をふやかして何週間もかけてじっくり食べるそうだ」

「誰があんなことを」

 言いかけて有栖はぞっとする。さっきまでいた世界、おそらく現実で、羽柴は有栖の撃った銃弾に倒れた。

「僕は君を責めに来たわけじゃない。ただ、羽柴さんがああなってしまったのは、きっと、パスワードを求めすぎた天罰なんじゃないかな」

 夏屋は有栖を仰ぎ見る。その目はガラス玉のように感情が読み取れない。

「有栖、君はパスワードを求めてはいけないよ」

 夏屋は茂みの中に入って行った。こらえきれなくなって有栖は嘔吐する。その吐瀉物が、海苔と米粒で構成されているようにも見え、有栖はさらに混乱した。

「有栖」

 声がして、涙にぼやけた目をこすると、そこには大きな鳥がいた。青く、小さな翼を持っている。

「ええっと」

「僕だ。調月だよ。夢にもぐりこんだんだ。間違いなく君は今、夢を見ている」

 鳥は大きな目をきょろきょろと動かしながら言った。

「さすがにそう思ってた」

「ならいいんだ。僕は僕の知っている現実、つまり真実を伝えに来た。君が研究室で一晩明かして朝になったその少し前の話だ」

「調月くんを私が信用していい根拠はあるの?」

「正直無い。信じるかはひとまず置いておいて、とりあえず僕の話を聞いてくれ。夢のハッキングが、操り主にばれる前に話してしまいたいんだ」

 調月は辺りを警戒するように見渡すと、少しだけ声のトーンを落として語り始めた。

「この出来事の発端は一週間前にさかのぼる」

 一週間前は確か、イスが完成して、商品化に向けて新たなフェーズに移行したんだった、と有栖は思い出す。商品化や特許についての話を専門家に聞きに行くために数日間有栖は研究所へは行かずに出張をするようにリーダーの夏屋に言い渡され、さまざまな場所を巡ったのだった。

「有栖が出張している間、僕たちもバグや耐久性のテストなんかに着手していた。そして、夏屋が僕と羽柴さんと吉原さんと八雲さんの四人に同時に夢を見させてそれを観測したいと言い出した。基本的に僕たちはイスに座るのは研究員の中の誰か一人って決まり事を作っていただろ。複数人が同時に夢の世界に行ってしまうと、目覚めたときに誰が何をしていたのか、自分が見たものは夢だったのか、誰にも尋ねられなくなり、誰も世界の虚実について自信を持って判断できなくなるからね。でも、その時は、リーダーである夏屋の提案だったし、目覚めた後のサポートや決めごと、何時間夢を見るか、夢か現実かを確かめる方法なんかをきちんと決めていたから、大丈夫だと思ってしまったんだ」

「でも、結果は違った」

「そう。夏屋は僕らをわざとバラバラな時間に起きるように設定し、僕らの夢の内容も意図的に同じようなものにしていた。夏屋は最初から僕たち四人を狂わせるつもりだったんだ。僕らはすぐに混乱した。判別できなくなってしまった。でも、僕たちは一つだけ解決方法を知っていた」

 調月はまっすぐに有栖を見る。

「君だよ。イスの開発を始めたばかりの頃、夢をリセットして、最後に見たものはおぼろげに、それ以外はきれいさっぱり忘れさせられる初期化の呪文を決めた」

「それがパスワードね」

「君も今、夢と現実の区別が曖昧になっているんだろ?パスワードっていうのはそれだよ。僕たちが助かるにはそれしかないんだ」

 なんのパスワードなのか、やっと明らかになった。

「思い出したらどうすればいいの?装置に入力?」

「どうやって実行するのかは正直僕もわからないんだ。でも今は思い出すことに集中して。そして、わかったらすぐに僕に教えて」

 イスの開発を始めたのは5年前だった。有栖は目をぎゅっと瞑ってパスワードを決めたときのことを思い出そうとする。なんだっけ。たしか、決めたのはあの場所だったような……。

「あっ、まずい。ハッキングがばれた」

 有栖が目を開けると、色とりどりの大量の蝶がこちらに向かって羽ばたいてくるのが見えた。悲鳴を上げる口の中にも蝶が入ってくる。右も左もわからないまま、有栖の視界は暗転した。

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