5.2 銃口の総理

 有栖は、コンビニで買ったおにぎりで栄養を補給しながら電車で国会議事堂へと急いだ。懐に入れたピストルがやけに重く、冷たく感じ、常にその存在を意識していた。コンビニで買い物をするときも、誰かに気付かれはしないかと気が気ではなかった。

 正直、吉原のあんな状態を見てしまった後に食事をするのは気が進まなかったが、空腹はピークに達しており、食べなければ遅かれ早かれ倒れるだろうと予想できたため、無理に口に詰め込んだ。ご飯を食べれば腹は膨れ、満腹感と体中にエネルギーが満ちていくのを感じるが、有栖はもはやその感覚すらも疑ってしまう。

「白間首相と話がしたいんですが」

 有栖は適当な衛視に声をかけた。

「見学ですか?ツアーならあちらの参観受付窓口へお願いします」

「いや、ツアーじゃないです。国を揺るがしかねない大切な用事があるので、時間を取るように言ってもらえませんか?急ぎなんです」

 衛視ぽかんとしたが、すぐに顔を取り繕う。

「首相は分刻みでスケジュールを組まれているので、一般の方と気軽にお話することは難しいかと思います。もし、政治についてご意見がある場合は、行政苦情110番という電話がありますので、そちらからご意見をおっしゃっていただければと思います。メールフォームや手紙での受付もございますよ」

 急に訪ねてきて首相と話したいなどという女がいたら、キチガイと思われても仕方がない。しかし、今はそんなことで諦めてはならないのだった。

「お願いします。関根はるきという政治家と、夢についての話なんです」

 衛視はインカムで誰かに連絡を取っている。向こうから数名が駆け寄って来るのが見えた。

「はい、ご意見はフォームのほうでお願いしますねー、さ、いっしょに行きましょうか」

 二人の衛視に腕を掴まれる。

「本当に大事な話なんです!首相は今、夢と現実の区別がつかなくなっているんですよね。私はそれを解決できます!私はその原因を知っているんです!」

「夢と現実の区別がついていないのはあなたなんじゃないですか?さ、歩いてください」

「やめてください!首相に会わせてください!夢から醒めなくちゃいけないんです!」

 有栖は喚いたが、抵抗もむなしく当然のように引きずられていく。

「関根はるきが夢を利用して総理の座を奪おうとしているんです!」

「夢?」

 黒いスーツを着た男が駆け寄って来る。

「ちょっと待ってくれ。さっき、関根という名前と、夢という単語が聞こえた気がしたんだが」

 有栖はその男を見たことがあるような気がした。何人もいる首相の秘書の一人だろう。有栖の喚き声が届いたのだ。

「そうです!私は夢を研究するものです。今、首相は夢と現実の区別がつかなくなってしまっているのではないですか?私はそれを解決できます」

 衛視たちは顔を見合わせる。

「それは本当か?」

 有栖はポケットからUSBを取り出して渡す。

「これは首相の夢を映像化したものです。確認していただければ私が言っていることが分かるはずです」


 二時間後、有栖は首相官邸で白間と向かい合っていた。白間は60を超えた身体で、頭髪と顎鬚も真っ白であったが、眼光は鋭く、弁は立った。

「夢と現実の区別がつかないのだ」

 白間は言った。眉間にできた深いしわには苦悩と疲労、混乱が刻まれているようだった。

「夏屋という男をご存じですか」

 有栖はスマートフォンの中の画像を見せた。

「関根の秘書か?」

「違います。夏屋は私の勤める研究所の研究員です。夢を観測、操作する機械の開発の第一人者で、決して政治家の秘書ではありません」

「数週間前、私のもとに関根がやってきた。その時にこの男を見たぞ」

 白間は後ろに控えている秘書の男に目配せをした。

「はい、間違いありません」

 夏屋は関根の秘書の振りをして白間首相に会った。イスに座らせるために。

「首相、これは関根と夏屋の策略です。関根は自分が総理大臣になるためにイスという機械を用いて首相の夢を操作して、頭の中を操っているんです」

「だから私のなかで夢と現実がよくわからなくなっているんだな。混乱させて辞めさせたい、と」

 白間の目が鋭く光る。

「しかし、だ。あなたの言っていることはどれくらい事実に則している?あなたも夢の研究者だ。イスの開発者であるならばイスを使ったことがあってもおかしくない。あなたの発言は現実に起きたことだけをもとにしていて、夢で得たアイデアが一つもその仮説に関わっていないと言えるのか?今、私の目から見るあなたは正直、私の夢を操っている者の発言となんら区別するポイントが見当たらない」

「今が夢かもしれないとおっしゃりたいんですね」

「そうだ。これが現実で、あなたが善意で関根の策略を知らせに来てくれたという証明はできるのか?」

「……わかりません。私自身も今、自分がどちらにいるのかわからないのです。首相と話すために莫大なリスクを払ってここまで来ましたが、夢の中なのならば、今までのやり取りや説得も徒労です」

「君もわからないのか」

「ええ、すみません」

 部屋にはしばし沈黙が下りる。有栖の腕時計の秒針は一定の速度で動き続けていたが、これは何の保証にもならないことを有栖は学んでいた。

「そうだ、パスワード。研究員が私にパスワードを執拗に聞いてきたんです。おそらく、夢の中と現実のどちらにおいても。パスワードを唱えれば夢から醒めることができると思います」

「なら早く言ってくれ。何も起こらなければこれが現実なんだと確認できるだろう」

「それが、わからないのです」

「忘れた、ということか?」

「そうなのかもしれません」

 白間は天井を仰ぐ。

「これは夢か?現実か?」

 何の記憶もあてにならない。有栖の目にふと、机の上に置かれているポスターが入る。それは関根のポスターだった。不自然なほど白い歯を見せて笑っている。

「何が夢で、何が現実なのか」

 有栖は懐からピストルを取り出した。秘書はぎょっとしてすぐさま部屋の外に人を呼びに走ろうとする。有栖は撃鉄を起こし、自分のこめかみに銃口を当てた。

「私は夢だと思います。夢に賭けます」

 白間はピストルを見ても冷静さを全く欠かなかった。そして、なんと自分も懐からピストルを取り出した。

「君がそこまで言うなら私も付き合おう。この悪夢から醒めなくてはいけない」

 撃鉄を起こすと、白間は有栖に銃口を向けた。

「あなたも私を撃ちなさい」

「首相だけが引き金を引かなくて、それでこれが現実だったらどうするんですか。私、首相を暗殺した人になってしまいます」

「夢に賭けるんだろう?私はあなたを撃つ」

 真剣な目で白間は言った。まるで一歩も引けない国際関係の交渉でもされているかのようだった。空気を震わせるかのような気迫を感じる。

「わかりました」

 有栖は白間に銃口を向けた。二人はそのまま椅子から立ち上がり、向かい合う。

「3、2、1で撃ちますよ。それじゃ、3、2」

 その時、秘書が開けていったドアから人が飛び込んできて二人の間に飛び出した。銃声が響く。飛び出した人影はばたりと倒れた。

「は、羽柴さん!?」

 肩を押さえてうずくまるのは、長身細身のショートカットの女だった。白間は引き金に震えた指をかけたままぶるぶる震えていた。羽柴が受けた銃弾は肩の一発のみだったようだ。やっぱり撃たなかったじゃないですか、と言いたくなるが、今は羽柴の容態の方を気にしなくてはならない。その前に、なぜこんなところに羽柴が?

「有栖ちゃん、死んじゃ駄目だ。これは現実だよ」

 悪夢だ。悪夢だと信じたい。秘書が人を連れて戻って来る。流血してうずくまる羽柴と、ピストルを構えたままの白間を見て、人々は何かを察した。そして、勇敢な衛視が白間からピストルを取り上げた。まだ発射されていないのを確認して少し戸惑うような表情を見せた。

 担架が速やかに用意され、羽柴は運ばれていく。

「これは夢なのか?現実なのか?」

 白間は真っ青な顔でぶつぶつとつぶやく。

「首相、こんな時になんですが、面会の予約の時間が来てしまいます。キャンセルしますか?」

 秘書の男が言った。

「誰との面会だ?」

「なんという偶然かわかりませんが、……関根はるきです」

 白間と有栖は顔を見合わせる。

「通してくれ。会おう」

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