5.1 混乱の死体
有栖透子は目を覚ました。身体は大きな座り心地の良いイスに包まれて、楽な体勢だった。身を起こす。マッサージチェアのような実験器具の並ぶ研究室だった。さっきまでここで夢を機械に記録されながら眠っていたらしい。壁にかかっている時計を見ると、正午を少し過ぎた頃だった。
部屋には誰もいなかった。有栖はその部屋を出て、隣のデスクが並ぶ部屋に入る。自分のデスクにまっすぐ向かう。デスクトップパソコンの電源を入れて、キーボードが使えないことに気付く。隣の羽柴のデスクからキーボードだけを拝借し、インターネットに接続する。有栖は『関根はるき』と検索した。しかし、ヒットしたのは、関根はるきという地方議員が一年も持たずに辞職したという情報のみで、特に爆発的に有名になったわけではなさそうだった。あの行進は夢の中の出来事だったということだ。そしてもう一つ判明したのは、関根という実在する議員が夢の中に出てきたことだ。今まで有栖は関根という議員を知らなかった。知らないことは夢に出てくることはできない。夢というのは、起きているときに体験した出来事を整理し、記憶を保存するものであるためだ。つまり、さっきまで見ていた夢は操られていたということになる。
有栖は、吉原が関根の有名性について否定していたことを思い出す。ということは、吉原は夢を操っていなかったのか?じゃあ、夏屋が?何のために?何のために夏屋が私の頭を覗く必要があるんだろう。
有栖は髪をかき回した。
「……お腹空いた」
昨日の夜からコーヒー以外何も口にしていなかったことに気付いて有栖はつぶやいた。尻ポケットを探るが、財布が入っていなかった。さっきの部屋のマッサージチェアに置いてきたのだろう。有栖はイスの部屋に戻った。
先ほど自分が座らされていたイスに財布はちゃんとあった。部屋を出ようとしたとき、マッサージチェアの陰に妙なものがあるのに有栖は気付いて立ち止った。まるで、助けを求めて差し伸べた手のようだった。近づくと、床に濃い染みがあるのが見えた。部屋の温度が寒くなったような気がした。心臓が早鐘を打ち始める。
大きなマッサージチェアを回り込んでみると、そこにはうつ伏せの状態で人間が倒れていた。
「だ、大丈夫ですか!」
顔を見てはっとする。それは、吉原だった。腹から出血しているようで、流れた血が床に染みを作り、少し固まっている。触れた血液は冷たかった。
まさか、もう……?考えたくない可能性が嫌でも頭をよぎる。腹から出血?まさか、銃で撃たれた?あたりを見渡してぞっとする。黒光りする平穏な日常生活には全くそぐわないもの、一丁のピストルが落ちていた。
有栖が眠っていたのは少なくとも7時過ぎから12時までの間であり、その間はずっとこのイスに座っていたとしたら、有栖が寝ているすぐそばで流血沙汰の何かが行われたということになる。腰が抜けてその場にへたり込む。
「と、とりあえず救急車を」
考えたくはないが、状況的にもはや手遅れということがどうしようもなく頭をよぎるが、できることはしておかなくてはならない。その使命感が、今にも叫び出しそうな有栖の情緒をぎりぎりで保っていた。
震える手で有栖がスマートフォンを取り出したところで、誰かが部屋に入ってきた気配があった。
「有栖、無駄だ。もう死んでいる」
声がして振り返ると、八雲が立っていた。
「八雲さん?今までどこに?」
「踊り場で気絶していた。一時間ほど前に気が付いてこの状況を見た」
「どうして救急車を呼ばないんですか!」
八雲は腰が抜けて立ち上がれない有栖の腕を引っ張って立たせる。
「言っただろ、もう吉原は死んでいる。俺が気が付いたときにはもうこのフロアには俺とお前以外に誰もいなかった。今救急車を呼んだりして外部にこの事実が露見してみろ。お前が疑われることになるんだ。警察はイスで寝てましたなんて証言聞き入れないだろう」
このビルではそれぞれのフロアごとに別の研究グループが使っており、それぞれ自分の研究室のフロアにしか出入りできないようになっている。
「疑われる?ちゃんと説明すればわかってもらえたはずです。私が夢を見ている間はその間のログが装置に記録されるんですから」
「ああ、もちろんお前は無実なんだからちゃんと説明すればわかってもらえる可能性もある。しかし、今は取り調べで長時間拘束されるわけにはいかない事情があるんだ」
八雲は有栖の手の中にUSBを押し付けた。
「なんですか、これ。夢のログ?」
「これが吉原のポケットの中に入っていた。これを見たら警察とちんたら事情聴取なんかやっている場合じゃないとわかるはずだ」
有栖は装置にUSBを差し込んだ。モニターに夢の映像が流れ始める。それは、関根はるきを応援する行進の映像だった。たくさんの若者がプラカードや幕を持って大通りを練り歩いている。見たことのある映像だった。
夢は基本的に一人称視点で進んでいくので、本人の見ているものを見ることとなる。
「これは誰の夢なんですか?私もこのシーンを見たことがあります」
「これは、白間首相の夢だ」
「白間首相?」
夢を見ている本人が隣にいる黒いスーツの秘書らしき人物に、関根はるきと面会を取り付けるように、と指示を出した。その声はテレビで何度も聞いたことのある、白間首相の声で間違いなかった。
「首相はこのイスに座ったことがある。いや、正確には座らされたことがある、と言った方が正しいな。白間首相は夢の中で関根はるきという政治家を意識するように操られた。次のログを見てみろ」
次の夢のログには、白間首相が白い歯の目立つ若い男と笑顔で握手しているシーンがあった。その後、首相は「これは夢なのか?現実なのか?」と何度も繰り返し秘書に尋ねては頭をかきむしったり、冬眠前のクマのように部屋の中を延々に行ったり来たりして、明らかに異常な行動を見せていた。
「首相は関根はるきを思考の中に植え付けられ、関根のいない現実と、いる夢を行き来しているうちにどちらが現実なのか区別がつかなくなってしまった」
有栖は吉原の発言を思い出す。吉原も白間首相の夢について何か言っていた。八雲はぐっと顔を有栖に近づけて、低い声で言った。
「俺は、吉原たち三人と、首相を狂わせたのは夏屋だと思う」
「夏屋だとしたらなぜ首相を狂わせる必要があるんですか?夏屋は関根とは関係ないと思いますが」
「直接関係が無くたって、いくらでも関係を作ることは可能だ。夏屋が関根と友達同士なのかもしれないし、金でつながっているだけなのかもしれない。首相を狂わせて辞任させ、次の総理大臣として関根を推すように仕向ける依頼を受けていたのかも」
「……」
「信じられないかもしれないけれど、事実に基づいた客観的な仮説だ。科学者なんだからわかるだろう」
八雲は有栖の肩に手を置いた。
「私、白間首相と話をしなくちゃ」
有栖はつぶやくように言って、ドアの方へ向かう。
「今から行くのか?」
「だって、起きているうちにやらないと。眠ってしまったらもう私も何をされるかわかりません」
そう言ってから、有栖はふと不安になる。
「これ、現実で間違いないですよね」
「現実だと思うが」
視界の端に吉原が冷たくなって倒れている。そうだ。どうして八雲さんの言うことは信用していいと言えるのだろう。彼が起きたのは本当に11時ごろなのか?もしかして私はまだどこかで寝ていて、誰かに夢を操作されているのか?
「とりあえず、首相に会ってきます」
有栖は吉原の傍らに落ちているピストルを掴むと部屋を飛び出した。吉原は死んだが、これがもし夢だとしたら彼は助かる。いざとなったら自殺してみればよいのだ。そうしたら目が覚める。
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