4 初見の行進

 有栖透子は目を覚ました。歌詞の無いヒットソングのメロディーが控えめな音量で流れ、人々が談笑する雑音が聞こえる。コーヒーの匂いがする。カフェチェーン店だった。

 二人用テーブル席の向かいには夏屋が座ってノートパソコンをいじっている。

「目が覚めた?」

 夏屋はパソコンを閉じた。テーブルに置いてある夏屋の手帳のTODOリストには、研究でやるべき検証や、集めるべき資料についての項目が並んでいて、リストの半分ほどの項目に横線が入っていた。

「コーヒーでも買ってこようか」

 デジャヴを感じて反射的に有栖は時計を見た。有栖の右腕に着けられた腕時計の秒針はなめらかに動くタイプで、一定の速度で回り続けていた。正午を少し過ぎたところだった。昼の休憩時間である。有栖は首を振る。

「ううん。それより、妙な夢を見たの」

「夢か。聞かせてよ」

 夏屋は手帳の新しいページを開いた。手帳に挟まっているしおりは金属でできていた。有栖は自分がどこかほっとしていることに気付く。

「私が身に覚えのないパスワードについて延々と問い詰められるっていう夢。吉原さん、調月くん、羽柴さんの三人に追いかけられてしつこく聞かれるの」

「どんなパスワードなのか君は覚えてないの?」

「全然。知らないものについて知っているはずだ、と追いかけられて、気持ちはもう、自白を迫られる冤罪の容疑者」

「なかなか疲れそうな夢だね。で、最後は思い出した?それともわからないまま?」

「結局わからなかった。私は逃げ場がなくなって死んで、そこで目が覚めたの」

「なるほどね」

 夏屋は有栖の夢の内容を手帳に書きつけた。夢について研究しているこの研究室の研究員は自分や、他のメンバーが見た夢について記録することが習慣化されていた。自分たちの見る夢こそが一番手軽に手に入りやすく、研究がしやすい大切なサンプルなのだ。

 カフェの一面ガラス張りの窓の外がにわかに騒がしくなった。見ると、プラカードや幕を持ち、揃いのTシャツを着た人々がぞろぞろと群れを成して大通りを歩いていくところだった。

「なにあれ」

 有栖が窓越しに見ていると、行進している中の一人が有栖のほうに自分が持っているプラカードを掲げてアピールしてきた。プラカードには『関根せきねはるき万歳!』と大きく書かれていた。大きく見やすいフォントと、不自然なくらい白い歯をみせてにっこりと笑った若い男の写真は、選挙ポスターのようだった。

「関根という政治家を応援する行進だよ。最近若者を中心に支持が広がってる」

 夏屋が言った。

「あんな政治家初めて見た。テレビに出てきたことある?」

「各メディアにいろいろ露出していると思うけど。一年以上前から力を伸ばしてきて、次の総理大臣を狙っているそうだ。君はもっと新聞やテレビを見たほうがいい」

 夏屋はパソコンで関根に関する情報の検索結果を出して見せる。確かにマスメディアのみならず、SNSでも発言が取り上げられて有名になっているようだった。公約は『真に実力のあるものが実力を発揮できる国作り』だそうだ。この公約のために、若さという公平なアドバンテージを持つ若者が熱狂的に関根を支持するようになったらしい。地方議員を務めた経歴もあり、様々な改革を行ったようだが、一年ほどで辞め、総理大臣を目指すことに切り替えたようだった。

 現総理の白間しらま首相とも関係は良く、笑顔で握手している画像も出てきた。

「こんな有名人を知らないなんて。まだ夢を見てるみたい」

 有栖はつぶやく。あまり新聞やテレビを積極的にチェックするようなタイプではないが、基本的なニュースは押さえているつもりだったし、そこまで自分を情報弱者だとは認めていなかったので、世間との見ているもののギャップを感じた。あまり研究にばかり打ち込みすぎてもよくないのかもしれない。

「まだ夢を見ているんだよ」

 パソコンの画面から店内に視線を戻すと、隣のテーブルの台拭きをしている店員が振り返る。その顔は、吉原の顔だった。

「吉原さん?なんでこんなところに?バイトでも始めたんですか?」

「バイトじゃない。僕がここにいるのは、有栖、君が夢を見ているからだ。君の夢は夏屋によって操作されている。僕はそれにもぐりこんだ」

 これが夢?さっき目覚めたのに。

「夢ジョークはやめておいた方がいいよ。僕らはまさにそういう研究をしてるし、夢にもぐりこむ、いうならばハッキングみたいなことも研究次第では技術的に可能だ。商品化するときにハッキングの不安感が広まったらよくない」

 夏屋は微笑んで言った。

「違う。夏屋が言っていることを信じるな。君はまだ夢を見ている。これは夏屋が作り出した夢だ。本当は関根なんていう政治家はこんなに有名じゃない。夏屋は夢を操作して君を現実と夢の区別がつけられないようにするつもりなんだ」

 吉原は叫ぶ。カフェ内の客たちが一斉にこちらを見る。

「手の込んだドッキリですね。どうやってその制服借りたんですか?」

「僕を信じてくれ!夏屋は今の総理、白間首相の夢も操作した。やばいことをしようとしてるんだよ。だから、夢をリセットしなくちゃダメなんだ。そのためにはパスワードがいるんだよ」

「またパスワードだ」

 有栖は小さくつぶやく。

「これは現実ですよね?」

「そんなのどうやって判断できる?僕は今ここでこれが夢だって証明できるのは、この不自然な僕と知らない有名人だけだ。でも一方君は?これが現実だという証拠を一つも持っていないじゃないか」

「悪魔の証明です。詭弁ですよ」

 毎日違う出来事が起きるんだから、いつもと違う違和感なんて、現象の数だけ存在する。他の客たちは何事かとこちらのテーブルの様子をうかがっている。

「吉原さん、人の目もありますし、ちょっと声を抑えてくれませんか」

 夏屋が言う。

「嫌だ。有栖がパスワードを言うまで僕はここに残り続ける。それでパスワードが分かるなら床を転げまわったっていい」

「やめてください」

「総理の頭を操作したんだぞ!国の危機じゃないか!僕の行動はすなわち国民のための行動だ!」

 ふと有栖の目に、テーブルの上で開きっぱなしになっている夏屋の手帳に挟んである金属のしおりが映った。しおりは光沢があり、カフェ内の景色を反射していた。しかし、映っているカフェの店内には客は一人もいなかった。これは夢だ。

 夢だとしたら?ここで起きていることの中には嘘がある。誰が私の夢を操っている?操って得をするのは誰なのか?

 有栖は研究室での出来事を思い出す。あれはおそらく現実だった。あの時、吉原は有栖に強引に夢を見させた。なぜか?その目的は、パスワードを聞き出すため。今、目の前にいる吉原は、夏屋が夢を操っていると主張している。しかし、夏屋は有栖の夢を操って得をすることはあるのだろうか。わからない。夢の中で夏屋はパスワードを言うな、ということを言ってきていた。それはもしかして私の深層心理が、夢という頭の中の領域に踏み込んでくる部外者から大切な情報を守るために登場させた、私自身の深層心理の代弁者の可能性もある。

 吉原は人目を気にせずに、駄々っ子のように店の床に寝そべると手足を醜くバタバタと動かした。

 手を伸ばして窓ガラスに触れてみる。窓ガラスだと思っていたそれは、有栖の指によって押されて、布のように揺らいだ。それはスクリーンだった。

「吉原さん、あなたが夢を操っているんじゃないですか?なんのパスワードを知りたいのかわかりませんが、これ以上私の頭の中を覗かないでください!」

「違う!覗いているのは夏屋だ!」

 吉原は起き上がって有栖の腕を掴んだ。

「夏屋がいないところで冷静に話しをしよう」

「嫌。やめてください!」

 振り払おうとしても吉原の手の力は強かった。

「夏屋、助けて。お願い、私を殺して」

 夏屋の目が動揺で泳ぐ。

「死ねば夢から醒めるの。お願い、早く!」

「駄目だ、パスワードを言ってから目覚めるんだ!」

 吉原は有栖を引っ張る。夏屋は決心したかのように立ち上がると、吉原の顔面に鋭いパンチを放った。一瞬吉原がひるんだ瞬間に、席に座ったままの有栖の頭を胸の中に抱きかかえるようにした。

「有栖、ごめん」

 ボキンと骨の折れる音がして、有栖の意識は途絶えた。

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