3 月光のアリス
有栖透子は目を覚ました。慌てて身を起こす。有栖は、真っ赤なビロードの生地が張られた猫足のソファーに、横向きになって眠っていたようだった。
辺りは森の中だった。色とりどりの奇妙な造形の植物が生い茂り、奇抜な色の蝶がふわふわと飛んでいる。鮮やかな色の巨大なキノコがソファーの上に傘を広げていた。森はほんのりと甘い匂いがしていた。
有栖は自分の身体を見下ろす。水色のエプロンドレスを着ている。髪はアップの編み込みになっていた。
「ここ、どこ……?」
「森だよ」
声がしてそちらを見ると、青と紫の、あまり気分の良くならない模様をした巨大な芋虫が木の上から有栖を見下ろしている。でっぷりとしたその身体を気の上でじわじわと動かしているのを見て、首の後ろに鳥肌が立つのを感じた。
「やあ、アリス」
「私、疲れてるのかも」
有栖は指で眉間を軽く揉んだ。
「みんなどこかしら疲れているよ。僕も正直疲れているし」
芋虫は足の一本を器用に使って目元をいじった。そこで初めて有栖は芋虫が眼鏡をかけていることに気付く。
「私、なぜこんなところで寝ていたかわからなくて」
「その答えは僕が知っている」
「本当?教えてくれない?」
芋虫は木の枝から巻き付いていた身体を少しほどき、有栖に顔をぐっと近づけた。
「僕にパスワードを教えるためだ」
芋虫の顔が吉原の顔に変わる。悪夢だ。
「パスワードは知らないって言ったじゃないですか」
「いや、教えてもらう。この夢の支配者は僕だ。パスワードを教えない限り君は一生夢の世界から出られないよ」
吉原は有栖の顔にツバを飛ばさん勢いで言う。
「どうしてそんなに狂ってしまったんですか?」
「つべこべ言わずに教えろ!言ってくれさえすれば夢から醒めるのに!」
有栖はすばやく拳を固めて吉原の左頬を殴りつけると、一瞬吉原がひるんだ隙に走り出した。
「待て!」
有栖の走っていく前方の木が倒れて道を塞ぐ。有栖は慌てて方向を変えて茂みの中に飛び込んでやみくもに逃げる。宙を穏やかに飛んでいた蝶が一斉に有栖の顔にまとわりついて視界を奪う。何度も足がもつれて転びながら走るが、後ろからどんどん吉原の声が近づいてくる。
「あっ」
足首が木の根っこに挟まって有栖は倒れる。足首はなかなか抜けない。後ろから肩に何かが触ってきたので見ると、木の枝が伸びてきて、有栖に絡みつこうとしていた。
「有栖ちゃん!こっち!」
声がして、目の前に真っ赤なバイクが現れる。それにまたがったライダースーツの女がフルフェイスのヘルメットを取ると、その頭には猫の耳が生えている。顔は羽柴だった。
「羽柴さん!」
羽柴はナイフで木の根っこを切ると、有栖をバイクの後ろにまたがらせ、ヘルメットをかぶせた。
「つかまって!」
勢いよくエンジンを吹かせてバイクは発進する。慣性力で前輪を少し浮かすような恰好でバイクは飛ぶように走り出した。
「これ、どういうことですか?吉原さんはどうしてあんなことに?」
バイクの排気音に負けないように有栖は声を張り上げる。
「とにかく今は森を抜けることだけ考えるよ!」
急に目の前に倒れてきた木を急角度でかわしながら羽柴は叫ぶ。蝶だけでなく、多くの羽虫がバイクを追って飛んでくる。
「ええい、もうらちが明かない」
羽柴は前輪をぐっと持ち上げた。するとバイクは透明な坂道を上っていくかのように空中を走り出し、ぐんぐんと高度を上げていった。
「わあ、さすが夢」
羽柴は森を見下ろし、口笛をヒュウと短く吹いた。二人を乗せたバイクは森の遥か上空まで上った。時間は夜だったが、月が大きく、明るかった。もう虫たちも追いかけてこないし、木も邪魔をしてくることはなかった。月明りを全身に浴びながら風を切って広い空の真ん中を走っていくのは心地が良かったが、眼下を見てあまりの高さに内臓がぞわりとする感覚を覚え、有栖は羽柴の腰にしっかりとしがみついた。
「有栖ちゃん、吉原は少し混乱しているんだ」
「少しじゃなくて、とんでもなく混乱してますよ」
「だから、吉原にパスワードを言っちゃだめだよ」
まわりのみんなが言ってくるパスワードについて、有栖はまったく思い当たるものが無かった。私は何か重要なことを忘れているのだろうか。羽柴は後ろを振り向いて有栖の顔を見る。
「だから、今、私だけに教えて」
「パスワードは知らないんです。あの、前向いて運転した方が」
「空なんだから誰にもぶつからないよ。有栖ちゃんは忘れているだけ。いや、忘れていると思い込んで頭の奥底にしまい込んでしまっているだけ。ちゃんと思い出そうとすれば必ず思い出せるはず。さあ、がんばって。記憶の中を探して」
空中をまっすぐにバイクは走り続けている。
『がんばれ!がんばれ!』
声がして、その声はだんだんと大きくなる。有栖は夜空の星からその声が発されていることに気付く。がんばれ、の声はすぐに轟音になる。耳を塞いでいないと頭がおかしくなりそうだ。しかし、羽柴の腰に回している手を離すわけにもいかず、有栖は歯を食いしばる。
その時、ガクンとバイクが揺れた。バイクの前にカラフルな、まるでピエロのようなデザインの服を着たウサギが現れて、ヘッドライトにしがみついていた。長い両耳は頭のてっぺんでリボンのように結ばれていた。
「有栖!飛び降りろ!」
聞き覚えのある声がした。有栖はぎゅっと目を瞑り、バイクの足をかけていたところを蹴って、背中から空中に身を預けた。一瞬の後、身体は重力に引かれて森に向かって加速を始める。
「有栖、パスワードは誰にも言っちゃだめだ」
ウサギの声がする。
「もしかして夏屋?」
目を開けるとウサギがすぐそばでいっしょに落ちているところだった。月をバックにバイクがぐんぐんと遠ざかっていく。
「パスワードがあったら、何ができるの?」
「知らないなら、そのままでいいから」
「教えてくれないんだ」
森が近づいてくる。見覚えのある鮮やかな色のキノコが目に入り、そこで有栖の意識は途切れた。
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