2 イスの部屋

 有栖透子は目を覚ました。コーヒーの香りがしていた。

「やば」

 有栖が寝ていたデスクにはいくつかの書類とキーボード、倒れたマグカップがあった。コーヒーの染み込んだ書類の上に自分の腕に頭を乗せるようにして突っ伏していたようで、着ている白衣の肘から手先にかけてもコーヒーに染まっていた。書類はふやけて、まだ少し湿り気を持っていた。キーボードを持ち上げると、キーの隙間からぽたぽたと液体が滴った。

 時計を見る。午前7時を少し過ぎたところだった。秒針の音がしている。薄暗い部屋に窓のブラインドの隙間から明るい朝日が差し込んでいた。有栖はブラインドを指で少し押し下げて外の様子を見る。東京のビルの上層階に位置するこの研究室からは、朝霧の晴れかけて活動を始める都市の様子を見下ろせた。

 有栖はある研究チームの一員であった。大学では脳科学を専攻し、たまたま入った研究室での研究にハマって、そのまま研究所に勤め出した。夏屋というのは、有栖と高校時代から付き合いのある、今の研究所のリーダーであった。

 ティッシュでデスクをとりあえず軽く拭く。書類の方はまたオンライン上に保存してあるものを印刷すればいいだけだが、キーボードはほぼ間違いなく買い替える必要があるだろう。昨晩は重要な作業があり、一心不乱にやっているうちに時間を忘れ、そのうちに寝てしまった。家に一度帰ってちゃんとした睡眠をとって置いたほうがむしろ効率のいい作業ができ、かつキーボードも死ななくて済んだだろうか、と有栖は思った。

「睡眠、か」

 睡眠、という言葉に、さっきまで見ていた夢を思い出す。なかなかに奇妙な夢だった。有栖はポケットから手帳を取り出して夢の内容を思い出せる限り書きつけた。

 有栖の所属する研究所では、夢についての研究実験を主に行っていた。夢を観測し、操作する装置の開発を進めており、現段階でほぼ完成に近い状態まで仕上がっていた。昨晩の有栖の作業も完成のために必要な諸設定だった。

 有栖はデスクの上のコーヒーをきれいにしてふやけた紙をゴミ箱に捨てると、白衣を脱いだ。デスクの並ぶ部屋を出て、隣の部屋に入る。

 その部屋には、数脚のイスが並べて置いてあり、壁際には装置類とモニターがある。イスは、マッサージチェアのような頭の上まである緩やかな角度の背もたれとフットレスト、アームレストが付いたものだった。このイスに座った人の夢をモニターに映して観測したり、装置をいじることで見たい夢を見せることもできるというものだった。研究について何も知らない人がこの部屋に入ったとしたら、オフィスの一角にある休憩室のマッサージコーナーだと思うことだろう。夢の観測および操作のできる機械は、ゆくゆくは一般家庭に出回るレベルの商品にまで開発を進める予定であるため、親しみやすいデザインというのは、意図的なものでもあった。

 有栖は装置を起動する。昨晩した設定が上手く反映されているかどうか確かめる。本来の予定的には、確認作業までを昨日のうちに済ませておきたいところだったのだが、設定だけをして確認する前に眠ってしまったのだった。

「うん、大丈夫そう」

 有栖は一通り確認してつぶやいた。装置の電源を切ろうとして、有栖は目の端に妙なログを見つけた。

「昨日の深夜に使用記録?」

 昨日の夜は0時を過ぎる前に有栖以外は研究室から出て行ったはずだった。記録を確認しようとしたが、データは既に消されている。

「有栖!」

 突然背後のドアが開き、有栖は驚かされた猫のようにびくりと飛び上がった。振り返るとフチなし眼鏡をかけ、少し出っ張った腹のせいで本来の想定よりも少し引き延ばされたニットベストを着た男と、背が低く、くりくりとした目の童顔な、ぱっと見で中学生に見間違うような男と、パンツスーツに身を包んだすらりとして引き締まった体つきの背の高い女が少し息を切らせながらドアの前に立っていた。三人は有栖の研究所の研究者メンバーであった。

吉原よしはらさん、調月つかつきくん、羽柴はしばさんも?どうしたんですか?」

「有栖、俺たちを助けてくれ」

 腹の出た男、吉原が有栖の両腕を掴んで訴えた。この男、腹は出ているが昔はラグビーだかアメフトだかの選手だったらしく、脂肪の下の筋肉はがっしりとしており、有栖は動けない。

「何ですか、急に」

「パスワードを教えて」

 調月が言う。調月は幼い顔をしているが、有栖よりも年上である。少しだぼついたチェック柄のシャツを羽織っていた。声は何やら緊迫した様子だった。

「パスワード?」

「そう、パスワード。有栖ちゃんだけが知ってるの。それがないと私たち、大変なことになる」

 羽柴が言った。羽柴の明るい色に染めたショートヘアは走ってきたのか少し乱れている。三人が何かに焦っていることは十分に感じ取ることができたが、有栖にはなんのパスワードのことを聞かれているのかさっぱりわからなかった。

「何のパスワードですか?ていうか、三人ともどうしてこんな時間にそんなに慌てているんですか?」

「これは夢だ!夢に違いない!」

 吉原は叫んだ。

「誰かがまだ俺たちを見てる!だから有栖はパスワードを言わないんだ!」

「落ち着いてください!これは現実です」

 吉原が腕を握る力が強くなったので、有栖は声を上げる。

「じゃあ教えてくれよ!パスワードを教えてくれ!」

「や、やめてください」

 ただならぬ様相の吉原にぞっとして有栖は無理に身体をひねって逃げ出す。

「待って、有栖ちゃん!」

 羽柴が追いかけてくる。運動神経に恵まれている羽柴は有栖にすぐに追いつき、部屋を出る前に腕を掴む。有栖はドアに背中をつけるような恰好で身動きが取れなくなる。

「みんなおかしいですよ!どうしたっていうんですか?」

「お願い、どうしても必要なんだ」

 調月も有栖のもう一方の腕を取り押さえる。

「何のパスワードなのか全然わからないし、私はみんなを助けられるようなパスワードなんか一個も知りません」

 吉原が近づいてくる。有栖は同僚に対して初めて恐怖という感情を覚えた。身体の自由が奪われ、身がすくむ。

「思い出せないなら、頭の中を覗くだけだ」

 その時、有栖の背後のドアが内向き、つまり有栖を押しのけるように乱暴に押し開けられた。有栖と、有栖を掴んでいた二人は転ぶ。

「逃げるぞ」

 ドアを押し開けて入ってきたのは、白衣を着た髪の長い男だった。

八雲やくもさん?」

 八雲も同じ研究所で研究する研究員の一人であった。八雲は有栖を引っ張って立たせると、走り出す。

「あいつら三人は夢の見すぎで混乱しているんだ」

 走りながら八雲は言う。有栖もその後を走る。後ろから三人が追いかけてくる。

「夢の見すぎ?」

「ああ。あいつらはイスに座って夢を繰り返し見ているうちに夢と現実の区別がつかなくなってしまった」

「パスワードがどうとか言ってましたけど」

「いいか、有栖。あいつらにパスワードを教えちゃだめだ。狂ったやつがパスワードを手にしたら、永久に夢の中に閉じこもることになってしまう」

 またパスワードだ。

「だから、そのパスワードっていうのが心当たり無いんですよ」

「覚えていないのならそれでいい。とにかく、思い出しても教えるな」

「わかりました」

 八雲は階段を上っていく。有栖もそれに続くが、踊り場で吉原に追いつかれて後ろから引き倒されて組み伏せられる。

「有栖!」

 振り返った八雲は、追いついてきた羽柴の綺麗な飛び蹴りを食らって気絶した。

「パスワードは教えてもらうぞ」

 吉原に引きずられるようにして有栖はさっきまでいたイスの並ぶ部屋に連れ戻される。吉原は有栖をイスに座らせた。有栖の夢を操作し、観測することで、有栖の脳内の奥底の記憶にアクセスしようとしているのだろう。抵抗しようとしたが、イスに座った途端、意識が遠のき始める。

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