コマは回る

岡倉桜紅

1 屋上のコーヒー

 有栖透子ありす とうこは目を覚ました。

 顔を上げると、フェンスの向こうに初夏の青い空が広がっている。

「目が覚めた?」

 横を見ると、ワイシャツを数回まくり、ネクタイを緩めに締めた男子が文庫本から目を上げて有栖を見ていた。

「……夏屋なつや

 夏屋は、制服の着崩し方がわざとらしくない自然さで、その同級生たちと比べてもいくらか整った顔も相まって、なかなかの清潔感とこなれ感のある男だった。細長い手足を優雅に組んで文庫本のページを繰っていた。

「よく眠ってたね」

 有栖は立ち上がって一つ伸びをして、今まで突っ伏して眠っていた机の表面を何気ないしぐさで拭った。暖かい陽気の降り注ぐ物静かな屋上ほど、昼寝するのに気持ちのいい場所はない。昼休みの軽い仮眠のつもりが、かなり深い眠りについていたようで、机によだれが垂れていないか有栖は気にした。

「次の授業何だっけ」

 有栖は聞いた。肩より少し長い、下ろした髪を指で梳く。

「授業まではまだだいぶ時間があるけど」

 時計を見ると、まだ昼休みは始まったばかりのようだった。

「おかしいな。体感、けっこう寝てたような気がするんだけど」

「疲れてるんじゃないか?睡眠が足りてないと、脳が深い眠りを欲するようになるからね」

 確かに最近は忙しいことが続いてあまりよく眠れていなかったかもしれない、と有栖は思う。

「深い眠り、レム睡眠のことね」

「そう」

 夏屋は文庫本にしおりを挟む。ページに挟んだそれは何かのレシートだった。夏屋はしおりにレシートを挟むタイプだったっけ、と少し意外に思うと同時に、知らない一面を垣間見たような微かな喜び未満の感情が湧く。読んでいた本のタイトルはよくわからないが、SFの小説らしいことはうかがえた。

「人は毎晩レム睡眠中に夢を見てる。睡眠不足になると夢を見る時間が少なくなる。そうすると人は眠たくなる。夢を見たくなる。人は夢を見ないと生きてられないんだね」

 夏屋はフェンスの向こうに遠い目を向けながら言った。

「急にロマンチックなことを言うじゃん」

「脳科学の話だよ。夢には起きているときに体験した出来事を整理し、記憶を保存する大事な役目がある」

「そういう小説を読んでるわけ?」

「そういう物語を見たことがある」

 有栖は時計に目を向ける。まだ、さっきから一分と経っていなかった。クロノスタシス、という言葉を思い出す。

「なんだかまだ夢の中にいるみたい」

「眠気覚ましにコーヒーでも飲むかい」

 夏屋が缶コーヒーを差し出してくる。

 ひんやりと冷たい缶を開けると、コーヒーがふわりと香る。一口飲む。

「ありがとう。目が覚めてきたかも」

「本当に?まだ本物の君はベッドの中にいて、夢を見ているかもしれないよ」

 冗談ぽく夏屋は言った。有栖は肩をすくめる。

「かもね。でもこれは現実でしょ。夏屋はここにいて、このコーヒーもちゃんと手の中にある」

「信じられるの?」

 今度は少し真剣な色を帯びた声音で夏屋は言った。有栖は少し戸惑う。

「夢なのか現実なのかを区別するのは難しい。目覚めたときはじめて夢だった、とわかる。目覚めが来ないうちは何をしても判断することはできないんだよ」

「じゃあコマでも回してみる?倒れたら現実、倒れずに回り続けたら夢」

 時計を見る。まだ長針は動かない。故障しているのだろうか。

 夏屋は有栖の手から飲みかけの缶コーヒーを取って、机の真ん中に置いた。

「試しに回してみようか」

「コーヒーを?」

 夏屋は両手を使って缶の側面をこするようにして回転を掛ける。コーヒーはまだ一口しか飲んでいなかったので、有栖は慌てて飛びのいた。缶が倒れれば周りに派手に茶色の液体がまき散らされるだろう。

 案の定、缶は回りながら倒れ、辺りにコーヒーをまき散らす。

「コーヒー代は夏屋が出しているからどうしようと勝手だけど、私の制服が犠牲になるのは見過ごせないよ」

 有栖は文句を言ったが、夏屋は缶を指さしている。

「見て」

 机に目をやると、缶は倒れた状態で、側面を机の上で滑らせてまだ回り続けていた。奇妙なことに、回転は一定速度のように見える。夏屋のスピンのかけ方がよほど上手かったというわけではなさそうだった。缶が不気味な回り方のまま、机の上で回転を続けている。

「なにこれ」

 有栖が言った時、缶の飲み口から、再びコーヒーの茶色い液体があふれ出した。今度は、缶の中に入っているものがこぼれるような出方ではなく、消火栓のバルブをひねったときのような激しい水圧で、大量のコーヒーが回る缶から全方向に放出される。

 有栖はよろけて後ろにあった椅子に半ば転ぶような形で腰掛ける。缶からあふれるコーヒーの水圧と量は見る間に増し、まるで工場の排水パイプの真ん前に座らされたかのようだった。目の前がコーヒー色一色に染め上げられる。口、鼻、目の中にコーヒーが入り込んでくる。息ができない。

「コマなんてあてにならない。夢かどうかを判断するには、死んでみるしかないんだよ」

 夏屋の声がする。コーヒーを回してみたからこれが夢って気付けたんでしょ、と言い返したかったが、口からは肺に残った空気の泡が出るだけだった。意識が遠のいていく。

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