第11話 夜のピクニック

無事にサチからでこピンを食らって、蝶々の額の赤みが薄れた頃。二人は月が出る前に、教会の裏口から出発した。

木戸がキイ、と軋み、紅夜は村の大工に修理を頼まねば、と朗らかに笑う。一方で蝶々は緊張した面持ちで、小さく頷くのみだった。

「蝶々さん、楽しみましょう?せっかくのお月見なのだから。」

ローブの裾を翻しながら、スキップを踏むように紅夜は歩く。その手にはお弁当と甘い紅茶の入った水筒が入ったバスケットがあった。

「…うん。」

「せっかくだから、野いちごも少し摘みたいわ。保存食用にジャムとシロップを作りましょう。」

夕方の森は闇が深く、影の色が濃い。蝶々は俯き、その影を見つめていた。

空を見上げるのが、怖い。

「今日は雲が厚いみたいね。」

紅夜の歩く後ろ姿を蝶々は見つめる。彼女は目を細め、頭上を仰いでいた。

「もっと先に大きな湖があるんです。今日は、そこを目指しましょう。」

不意に紅夜が振り向く。そして、蝶々の手を取った。

「…見失わないように。」

ふっと笑い、手を握って再び歩き出す。紅夜の踏みしめる一歩の力強さに励まされて、蝶々も足を踏み出した。


カサコソと夜行性の小動物たちが、木々の間を走り回り、紅夜と蝶々の様子を覗うために立ち止まる気配がする。

ランプに火を灯し、その光源を頼りに二人は先を進んでいた。月はまだ、厚い雲に隠れている。

「ー…♪」

紅夜が歌をうたう声がささやかに響き渡る。

小さく、細く、高い声で口ずさむのは春の喜びを謳う歌だった。

蝶々はたった一人で森を歩いていた頃を思い出していた。寂しいという気持ちはとうに失せ、生きるだけで必死だったあの頃。もう、戻れないと思う。

「…紅夜、夜は怖くないの?」

「え?」

「この暗い森の中でも、随分と楽しそうだから。」

紅夜は首を傾げる。

「うーん、それは…蝶々さんが隣にいてくれるからかしら。」

手を握る反対の手を、紅夜は前にかざす。暗さに触れるようにその輪郭がぼやけた

「一寸先が闇でも、あなたがいてくれるならきっと平気よ。」

「…ふーん。」

蝶々は自分の頬が火照るの感じ、それを悟られない夜の暗さに初めて感謝した。

「あとね、私の目って色素の欠乏で赤いでしょう?明るいところより、暗い方が得意なの。夜目が利くのね。」

紅夜の優しく微睡むような、ワイン色の赤い瞳を思い出す。見つめられると、まるで酔ってしまいそうな目色だった。

ランプのろうそくの光に照らされて、今は金色を帯びている。

「蝶々さんは自らの金色の瞳をコンプレックスに感じているようだけど、私だってそう。幼い頃は随分とからかわれたわ。…お互い、瞳に苦労しますね。」

「俺は紅夜の瞳、綺麗だと思う。」

あら、と紅夜が呟き、微笑む。

「私も蝶々さんの瞳は綺麗だと思っていたところなの。一緒ね。」

他愛もない会話を紡いでいると、不意に視界が開けた。湖の畔に出たのだ。湖はしんとして静かで、先に来ていた雌の鹿が水を飲んでいる。二人の気配を察知した鹿は、はっと顔を上げる。

その瞬間に一陣の風が吹いて、月を覆っていた雲を晴らした。

「…っ、紅…夜。離れて…。」

握っていた手を放して、紅夜は一歩下がった。

月を見て蝶々の体に変化が起こる。

むくむくと大きな獣耳、優雅な尻尾が現れた。骨格を作り替え、銀色の毛並みが肌を覆っていく。白く輝く犬歯が伸びて、優しい蝶々の声が低い獣の鳴き声に変わった。

オオーン…、と哀しく聞こえるような遠吠えをして蝶々は、銀狼となる。

人間のときに身に付けていた衣服を剥ぎたいらしく、銀狼はもがき始めた。紅夜は手伝って良いものか悩み、そして覚悟を決めて銀狼に近づいた。パキッと小枝を踏んだ音が響くと、銀狼は紅夜をゆっくりと見る。金色の瞳に捕らわれ、一瞬動きを止めるがその目色にネガティブな感情が滲んでいないことを信じて、紅夜は再び歩み寄った。

「大丈夫、すぐに脱がしてあげるからね。」

ウルルル、と微かに鳴き、銀狼は大人しく紅夜の行動を見守った。やがて衣服から解放されて、銀狼はブルブルと身じろいで毛並みを揺らし、一歩踏み出した。ザリ、とむき出しの爪が地面をえぐる。優雅なウォーキングで湖まで行くと、水を飲み、喉を潤した。

紅夜も銀狼の横で膝をついて、湖の水を掬い顔を洗う。すっきりするような冷たさだった。

「…蝶々さん?ね、大丈夫だったでしょ。」

先客の鹿はいつの間にか、いなくなっていた。


紅夜が湖の畔で自生している野いちごを摘んでいる間、銀狼は久しぶりの自然の恩恵を受けてのびのびと走り回っていた。

銀狼は落ち葉に体をこすりつけ、フスフスと鼻を鳴らしながら眠る花たちの香りを嗅いでいる。

その様子に凶暴性は一切なく、まるでおおらかな大型犬のようだと紅夜は思った。

「蝶々さーん!お弁当、食べましょー。」

料理する分だけ野いちごを摘み、紅夜は蝶々に手を振る。その声に耳を震わせて反応すると、銀狼は紅夜の元へと近づいた。

「これ、蝶々さんの分ね。」

紅夜がBLTのサンドイッチを分けていると、銀狼は匂いを嗅いでベーコンだけ先に器用に舌で分けて食べた。

「うふふ。野菜も食べてください。」

そう言って野菜だけになったサンドイッチを勧めるも、銀狼はつんとそっぽ向いてしまう。

「そんなにお肉が好きなの?じゃあ、私の分もあげるわ。」

自分のサンドイッチからベーコンを抜いて、銀狼に分け与える。紅夜の手からベーコンを食べ、満足気に銀狼は彼女の手のひらも舐めた。

「くすぐったい。お茶は…飲む?」

水筒から注いだ温くなった紅茶を差し出して見るも、その微かに立つ湯気を嗅ぐだけで飲みはしなかった。銀狼となった蝶々には、水の方が良いのだろう。

紅夜は野菜だけのサンドイッチを食べ、銀狼は彼女の足元でくつろぐ。

「…。」

綺麗な毛並みだと思った。銀色が月光に輝いて、キラキラと毛先に白い光りが粉のように走る。獣耳を覆う短い毛は産毛のようにやわらかかったけど、体に纏う毛並みは固かった気がする。記憶と照合したいが、勝手に触るのは気が引けた。

「!」

葛藤していると、初めて出会った日の夜のように銀狼は紅夜の膝の上に顎を載せた。そして、うとうとと微睡み始める。

「…あのー、触ってもいい、ですか。」

紅夜は銀狼を驚かせないように小声で囁くように、申し出てみる。獣耳が揺れて、ちら、と紅夜を見て、我関せずとばかりに銀狼は再び目を閉じた。

「触りますよ?触っちゃいますよ?」

紅夜は他意がないことを表すように両手を広げて見せ、ゆっくりと銀狼の背中を毛並みにの流れに沿って撫でてみる。記憶通りの固い毛と、内側の柔らかい毛の差に驚いた。

あの時は怯えもあってこの毛並みを堪能できなかったが、今は安心感を持って触れることができた。

しばらく安息の時間が過ぎる。

森の賢者が教えを説くように鳴く声が響き、木の葉が風に揺れ月の木漏れ日が小魚のように地面を泳いでいた。

紅夜も膝で眠る銀狼の高い体温で温まりながら、うつらうつらと船を漕ぐ。

銀狼の獣耳が何かに反応して動き、顔を上げた。

「?…蝶々、さん?」

その動きに紅夜も微睡みから目が覚める。銀狼はすっくと立ち、紅夜を守るように一歩前に出た。

森の茂みに向かって、ガルル、と低い唸り声を銀狼は出し、鋭い犬歯をむき出しにして眉間に皺を寄せる。

銀狼の様子に一瞬にして、緊張感が走った。

「何か…、いるの。」

ガサガサと茂みが不自然に揺れる。奥で光る目だけが見えた。そして次の瞬間、その目の主が茂みから飛び出した。

それは黒い毛を持った、幼体の狼だった。

黒狼は唸って威嚇をしている。小さいながら立派に犬歯も生えそろい、本気で噛まれたら柔い紅夜の体は大怪我をするだろう。

銀狼もそれを理解しているらしく威嚇をやめない。しばらくの膠着状態が続く。

本来、大人の銀狼だけなら幼い狼など簡単に蹴散らすことができるだろうにそれをしない。紅夜は音を立てることも出来ず、銀狼に庇われていた。

ー…私がいなければ、蝶々さんは無駄に争うことをしなくて済むのだろうか。

紅夜はゆっくりと一歩、後ろに下がる。すると、何かやわらかいものを踏んだ。

「え?」

キャアンッと甲高い、悲鳴のような声がその場の空気を切り裂いた。紅夜が慌てて足元を見るとそこには黒狼と同じぐらいの体格の灰色の狼が、尻尾を庇うように飛び退くところだった。どうやら、尻尾を踏みつけてしまったらしい。「ご、ごめんなさいっ、大丈夫?」

紅夜と銀狼の気がそれた隙を狙って、黒狼が飛びかかろうと地面を蹴った。

金色の太陽の光が、木々の間から差した。

朝だ。

「アリスから離れろ!」

少年の声が響き渡るのだった。

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