第10話 心臓の音
隣り合って座り、肩を寄せ合う。
紅夜が言うに、浴室は家の中で一番密閉性が高く外の音が響かないらしい。
幼い頃から一人のときは、浴室に隠れて雷から逃れていた。蝶々はその様子を想像して、子どもの紅夜に寄り添いたかった。
「…雷が鳴っているね。」
「…うん…。」
先ほどの戯れで疲れてしまったのだろう、紅夜は蝶々の肩に頭を預けてうとうととしている。
「もう、怖くはない?」
「うん…。」
「寝ぼけているようだから、あてにはならないかなー…。」
蝶々は紅夜の唇をくすぐるように撫でた。紅夜はむにゃむにゃと寝言を言い、ぺろ、と子猫のような小さい舌先を出して蝶々の指の腹を舐めた。
「…。」
くくく、と鳩のように笑い、蝶々はいたずらをやめた。
「…怖くないよ。」
紅夜は呟いて、眠った。その手を蝶々はずっと握っていた。
まだ空の端が深い青に染まっている頃、野菜を刻み、パンを焼き、スープを煮込む。紅夜は朝食の準備を、朝のお祈りの前に済ませようとしていた。その方が後々ゆっくりと時間を使うことができるからだ。
チーズを取りにパントリーに向かっていく途中、紅夜は違和感に気が付く。
蝶々がいない。
いつもなら、この時間に蝶々も起床して一緒に食事の準備をしている。
「寝てるのかな?」
紅夜は一度火元を止めて、エプロンで手を拭きながら蝶々の部屋へと赴くことにした。
蝶々の部屋は紅夜の部屋の隣で、居住区の一番奥に位置していた。彼の部屋の前に立ち、コンコンコン、と扉をノックする。
「おはようございます、起きてますか。」
「…。」
返事はないが、扉のすぐ近くまで蝶々の気配を感じる。
「蝶々さーん?」
「…紅夜。今日は外に出れない。」
小さくどこか緊張感の含んだ声色を滲ませ、蝶々は意気消沈している。
「? えーと…、何かありました?」
「…。」
紅夜が首を傾げていると扉が僅かに開き、蝶々がおずおずと顔を覗かせた。
「あら。」
その姿を見て、紅夜は目を丸くする。
蝶々に大きな狼の耳が生えていた。銀色の短い毛に覆われた獣耳が、伏せている。
「…醜いだろ。」
「かわいい…。」
二人の声が重なった。その正反対の言葉の響きに、互いが首を傾げた。
「いや、変でしょ。」
獣耳をぴくぴくと動かしながら、蝶々は困っている。
「え?いいえ。」
反比例するように、紅夜の瞳がきらきらと輝いた。よく見ると、蝶々にはふさふさの尻尾まであるようだった。
「かわいいわ、蝶々さん。どうしたんです?一体。」
「夜明け前の薄い月明かりを…見てしまって、って何でそんなに笑顔なんですか!」
「え?」
うふふ、と紅夜は笑う。
「この気持ちは何て言うんですかね。うーん…。」
自らの内に涌く高揚するような、胸が甘く締め付けられるような感覚に見覚えがなかった。名前すら知らない。
不意に廊下にある大きく、古い時計が低く鳴って時間を告げる。もう直に朝のお祈りに、村人たちが教会にやってくるはずだ。
「今日は、皆の前に出たくないです。すみません…。」
しょげる獣耳は表情が豊かだと言うことを、紅夜は初めて知った。
「大丈夫です!蝶々さんは町に出かけている、と言うことにしましょう。病気を偽って、村の皆さんにご心配をおかけする訳にはいきませんし。」
「よろしく、お願いします。」
そう言って、蝶々は頭を下げるのだった。
「サチ、蝶々さんがいないからってそんなにすねるなよ。」
朝のお祈りの帰り。サチの父親が苦笑しながら、手を握る彼女の顔を覗き込む。
「すねてないもん。」
そういうサチは唇を尖らせて、その幼い感情を明らかにしていた。
「ごめんね、サチ。蝶々さん、明日には戻ってくるから。」
紅夜もサチと視線を合わしながら、彼女の頭を撫でる。大人二人がかりで何とか宥めると、サチはやれやれと肩をすくめた。
「仕方ないなあ。蝶ちゃんが帰ってきたら、おでこを指で突くから!それで許したげる。」
「…それは怖いですね。」
明日の蝶々の受難を憂い、紅夜は十字を切るのだった。
朝食の食卓を囲みながら、サチの様子を伝えると蝶々はふっと頬を緩めた。
「そうか…、サチがそんなことを。」
「蝶々さん…。笑っていられるのも今だけですよ。」
「と言うと?」
紅夜の不穏な雰囲気に、蝶々がたじろぐ。
「実はですね。サチ、はちゃめちゃにでこピンがうまいんですよ。」
「…は?」
蝶々の獣耳がぴくりと震える。
「力こそ弱いけれど、的確に額が一番出ているところを突いてきます。将来有望ですよ。」
「どんな将来!?」
額を隠すように片手を添えて蝶々は、あちゃー、と呟く。
「サチの意外な一面を見たよ。」
「痛い目を見るのは明日ですけどね。」
賑やかな朝食を終えて、食器を洗う蝶々の後ろ姿を紅夜は眺めていた。ボトムスからはみ出たふさふさの尻尾がユラユラと揺れている。
…触りたい。
ものすごく、触ってみたい。
蝶々のデリケートな事情を知りつつ、それでも尚こみ上げる衝動に紅夜は葛藤していた。
「…何だか、ものすっごく視線を感じるんだけど。」
「え!?気のせい、気のせいです!」
紅夜は指先に火が付いたかのように、激しく手を振った。
「えー。ほんと?」
クスッと蝶々は笑い、濡れた手を拭きながら振り返る。
「紅夜、俺の耳が怖くない?」
「全く。」
「ならいいよ。」
「え?」
紅夜は唐突の了承に、首を傾げた。
「触っても、いいよ。耳。」
「! いいの?」
蝶々は頷く。
「尻尾はくすぐったいから、勘弁してね。」
場所を移動した蝶々の自室。彼の部屋だけ、内側から鍵がかけられる。誰にも邪魔されないように鍵をかけて、二人はベッドの淵に腰掛けた。
「じゃ、じゃあ。早速…。」
「うん。」
紅夜の手が届きやすいように、蝶々は僅かに頭を傾けてくれた。
「…わ。」
そっと獣耳の根元から触れる。
銀色の短毛に覆われた皮膚はビロードのようななめらかさで、耳朶は存外に分厚い。
「おおぉ…!」
人差し指も使って柔く挟む。親指の腹で内側をなぞると、その刺激に耳の筋肉が震えているのがわかった。
「紅夜…、楽しい?」
「とっても!ふわふわなのね、触れてて気持ちがいいわ。」
「何だか今日は、人の意外な一面をよく見るなー。」
紅夜に自身の獣耳を触られて、蝶々は苦笑する。その笑った口元から覗く犬歯が心なしか伸びている気がした。
「蝶々さん…、その、歯も変化が?」
「ん?ああ、そう言われると歯が痒い気がする。」
確認するように、蝶々は歯をカチカチと鳴らす。
「すごい。何でも噛み切れそう。」
「大抵の物ならね。」
一頻り蝶々の獣耳を堪能して、紅夜はようやく満足した。「ありがとうございました、蝶々さん。」
「いえいえ。」
互いに頭を下げ合う。
「今度、何かお礼をしなければいけませんね。クッキーでも焼こうかしら。蝶々さん、甘い物は好き?」
「甘い物もいいけど、俺も紅夜に触れてみたいな。」
「え?」
紅夜の胸の鼓動が一際大きく、脈打った。
蝶々さんが…私に、触れる?
「髪の毛。俺がくしで梳かしてもいい?」
「え、ああ!髪!髪の毛ね!?」
裏返った声色で、紅夜の動揺が露見した。首を傾げる蝶々をごまかすように、紅夜は笑う。
「い、いいですよ!そんなことで良ければ、いくらでも。」
紅夜は黒い布地のケープからフードを外す。するりと軽やかに肩から長い黒髪が零れ出た。
「どうぞ?」
蝶々に背後を見せるように、髪の毛を翻す。
「ありがとう。ちょっと待って。」
ベッドサイドのテーブルの引き出しが開く音がする。蝶々はくしを取り出すと、少し体重を移動して紅夜に近づいた。ベッドが僅かに軋む。
「触れるね。」
そう宣言すると、蝶々は紅夜の黒髪の毛先にそっと触れるのだった。
「…紅夜の髪は柔らかいね。」
す、す、と髪の毛が絡まないように、蝶々によって丁寧にくしを通される。
「それに、とても綺麗だ。」
紅夜の黒髪は真珠のように輝き、真っ直ぐだった。
「…そう?ありがとう。」
時々、頭皮に近い髪に触れると紅夜の肩がぴくりと揺れる。その反応を可愛らしく思い、蝶々は何度かわざとゆっくりと触った。
紅夜の髪の毛は子猫のようになめらかで、手に良く馴染む。ずっと触っていたいと思った。
「甘い、香りがする。」
すん、と鼻を鳴らして、毛先に口付ける。
「か、嗅がないでください。」
「何故?恥ずかしい?」
「汗臭いでしょ…。」
そんなことない、と言い、蝶々は紅夜の黒髪を柔く食む。
「ねえ、紅夜。さっき、俺がどこに触れるかと思って戸惑ったよね。」
「…いいえ。」
紅夜の小さく明らかな嘘に、蝶々は笑みを浮かべた。
「俺の狼の耳、大きいでしょ。」
「? はい。」
「よく聞こえるんだよね。例えば…、心臓の音とか。」
「え?…!」
その言葉の真意に一瞬で気付く紅夜は聡い。今も、彼女の心音が大きく聞こえている。
トクトク、トク、と紅夜の心臓は元気だ。
愛しい。愛しい、彼女の心臓。
指先から黒髪が滑り落ち、蝶々は後を追うように紅夜の肩口に額を預けた。すりすりとすり寄って甘える。
「紅夜、どこに触って欲しかった?」
「…。」
蝶々の言葉に紅夜は俯いてしまう。困らせたかと思い、横顔をチラリと盗み見ると彼女の頬は恥じらいに染まっていた。清廉な乙女の顔を見て、かすかな罪悪感と供に生まれたのは新雪を踏むような快感だった。
とはいえ、紅夜はシスター。神に仕える身だ。自分のこの想いは迷惑でしかないだろう。それなのに、紅夜を困らせたいと思ってしまう。
どこまでなら許してくれる?
そんな邪な思いを抱いて、彼女に触れてしまうのが悪い癖だ。
「…蝶々さん、は。」
紅夜の震える声が響く。
「うん?」
「時々…、意地悪です。」
「うん。ごめんね。」
蝶々の思ってもない謝罪に、紅夜は、もう、と小さな溜息を吐いた。そして、ふふ、と全てを許したように笑う。
「お耳を触らせてくれたから、おあいこ…にしてあげます。」
紅夜はそう言って、髪の毛を隠すフードを被ってしまう。もったいないと思うが、規則なのだろう。仕方ない。
「…いつの間にか、雨が降っているようですね。」
耳を澄ます紅夜に釣られて、蝶々の彼女から意識を反らす。分厚いカーテンの引かれた窓ガラスを、外から雨粒が小さく叩く音が聞こえてくる。二人、戯れている間に降り始めたようだ。
「お洗濯をしようと思っていたのだけど、残念。」
ベッドから降りて、そっと紅夜は窓辺に立った。少しだけカーテンを開けて、空を仰ぐ。
昼間の雨は太陽に光を滲ませて、金色に輝いていた。彼女の白い肌が一層明るく輝くようだった。
蝶々はその姿を眩しく見つめる。
「ねえ、蝶々さん。」
ゆっくりと振り返り、紅夜は微笑む。
「今度、一緒にお月見をしませんか。」
「!」
彼女の誘いは、とても甘美な毒を孕んでいた。
「…何、言ってんの。そんなこと、」
「不可能じゃないわ。月が出る前にこの村を出て、森深くまで行きましょう。美味しいお弁当を持って。人のいないところなら、大丈夫。」
「狼になるんだ。紅夜を襲うかも知れない。」
最大の危惧はそれだ。人格を失った自分が紅夜を傷つけるのが、怖い。
「私、蝶々さんの全てが見たい。…大丈夫。初めて会ったあの夜も、あなたは私を傷つけなかった。」
音もなく近づいてきて、項垂れる蝶々の手を取る。紅夜の手は温かい。
「…結果論だよ。」
「だって、私の膝で眠ったのよ。」
ふふん、と紅夜は自慢をするかのように胸を張った。
「可愛かったわ?」
「…。」
紅夜なら…、大丈夫なんだろうか。
そんな希望を抱いてしまうような、甘い誘いだった。
「銃を持って行ってくれる?銀の弾丸も込めて。」
「そんなもの、必要ない。」
「持って行かないなら、行かない。」
これが最低条件だと、確固たる意思を示す。蝶々の頑なな態度に、懐柔された紅夜は渋々頷いてくれた。
「…わかりました。」
「ありがとう。」
そうと決まれば、と紅夜は苦い感情を切り替える。とても楽しそうに計画を立て始めるのだった。
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