第9話 カニバリズム

村に無事に到着し、子どもたちを一人一人、家に送り届ける。その際にもらった野菜や果物、料理のおすそ分けが今夜の夕食になった。

夕食後、紅夜と供に夜のお祈りを済ませて、蝶々は教会に残って聖書を読んでいた。読書をしていると集中しすぎて、どうやら周りが見えなくなるらしい。ふと気が付けば夜も更け、窓ガラスを雨粒が叩いていた。遠くでは雷が鳴っている。天気予報が的中したようだ。

そろそろ部屋に戻ろうか。

そう思い、長椅子から立ち上がるとカーテンを透かして稲光が差した。その直後、大地を震わすような耳をつんざく音が響き渡る。ビリビリと体と鼓膜を震わせる大きな音に、蝶々は明日の天気を思う。

この様子なら朝まで雨は続きそうだ。

朝のお祈りの時間が少し遅くなるかもな、と考えながら廊下を歩いて行くと、浴室の扉が僅かに開き光の筋が一線伸びていた。

「…?」

何気なく扉を開けて室内を確認すると、浴室の隅で一人震える紅夜を見つけた。

「紅夜?どうした、」

蝶々が近づいて視線を合わすように膝を折ると、紅夜は耳を塞いで目を瞑っていた。

「紅夜。」

そっと肩に触れると、驚いたように全身を震わせて紅夜が目を見開いた。

「!」

「大丈夫?紅夜。」

「…、蝶々、さん…。」

紅夜が蝶々の姿を認めたその刹那、再び雷がいななく音が響いた。

「きゃっ!」

「うわ、っとと。」

紅夜はすがるように、蝶々に抱きついた。服越しに重なる紅夜の胸からは暴れるような心臓の鼓動が感じ取れた。体は震えて、手足の体温が下がっている。

「…紅夜。大丈夫だよ。」

「…っ!」

蝶々は優しく、震える紅夜の背中を宥めるように撫でた。

「雷、怖かったんだね。」


いつも外の音が響きにくい浴室に逃げていた。

一人の夜に訪れる雷雨は恐怖でしかない。幼い頃から雷が怖くて堪らなかった。まるで体を裂き、焼き殺されるんじゃないかと想像してしまい、逃れられなくなった。

「紅夜。ずっと一人で、耐えていたの。」

でも、今は違う。今は蝶々がそばにいてくれた。怯える紅夜を抱きながら座って、落ち着かせるようにゆらゆらと体を揺らしてくれる。

「…す、みま…せん。」

「謝ることは何もないよ。怖いよね、雷。俺も昔、嫌いだった。」

「どうやって…克服したんですか…?」

蝶々の声は直接鼓膜に響くようだった。他の音が聞こえないように、耳元で囁いてくれていたことを後に知る。

「うん?俺は外で寝ることが多かったから。克服って言うより、慣れかな。」

低くて、深い。染み入るような蝶々の声だった。彼の声を聞いていると、驚くほどに心が凪いでいく。

「楽しいことを考えよう。」

その声に導かれるように、紅夜はおずおずと顔を上げてみた。そこにはいつもと変わらない、蝶々の笑みがあった。

「…それなら、」

「うん。」

「蝶々さんの瞳を、見てもいい?」

ずっと見つめてみたかった。いつもは無礼だと思い慎んでいたが、今はどうやらタガが外れてしまったようだった。それでも蝶々は、喜んで紅夜の要望に応えてくれた。

「いいよ。好きなだけ見て。」

「…。」

その言葉に誘われて、紅夜は蝶々の顔をそっと両手で包み込む。そしてじっと長い睫毛に縁取られた瞳を覗き込んだ。蝶々の瞳は単なる金色だと思っていたが、見てみると複雑な色彩をしていた。全体は金色が多く占めるが、その中には内側から外へ向かって放射状に翠や白。水色の虹彩が走っていた。瞳孔は黒に近い深い茶色で、グラデーションを帯びてその瞳に馴染んでいる。まるで瞳の中に、ひまわりが咲いているようだった。

「…ははっ。」

唐突に、蝶々が笑う。紅夜が首を傾げると、蝶々も紅夜の頬に片手を添えた。

「紅夜の瞳、蕩けたような苺色で美味しそう。舐めたら甘いのかな。」

「!」

相手の瞳を見つめる行為は自らの瞳も覗かれるということにようやく気が付いて、紅夜は飛び退いた。

「怖かった?ごめんね。」

「あ…、違…っ。」

物理的な恐ろしさよりも、眼球を舐めるというフェティッシュな行為に紅夜は羞恥を覚えたのだ。

蝶々は、でも、と話を続ける。

「カニバリズムは趣味じゃないけれど、紅夜なら食べてみたいな。」

「不味いですよ、きっと。」

蝶々はいよいよ笑いを濃くする。

「嘘だよ。そんなに美味しそうな匂いをさせておいて。」「美味しそうって…、ひゃ、」

突如として、蝶々は紅夜を深く抱きしめた。背の高い蝶々にこうして抱きしめられると、小柄な紅夜はすっぽりと包まれてしまう。

ぎゅう、と力を込められて、紅夜の背筋がしなった。

「ちょう、蝶々さ…っ!」

蝶々の上半身に埋もれた紅夜のくぐもった声が、彼の胸に響く。

「ん?」

紅夜の耳裏に蝶々は鼻先を埋めて、すん、と獣のように匂いを嗅いだ。紅夜はくすぐったくて身をよじる。

「逃げないで。」

「…でも、」

「大丈夫。食べないよ。」

そう言いながらも、位置を変えて蝶々は紅夜の首元に頭を預ける。そして徐に紅夜の服を開けさせて、首の筋に添って舌を這わせてきた。

「…っぁ!」

熱くて分厚い、ざらりとした舌が紅夜の肌を味わうように蠢く。その刺激に耐えるように紅夜は蝶々にすがりついた。困惑で瞼が閉じず、紅夜は蝶々の背後の光源を見つめた。小さな裸電球が室内を照らし、鏡の中の自分と目が合った。「!」

自分が今、どんな表情をしているかなんて知りたくなかった。

その瞳は情欲に濡れて、熱を帯びていた。酸素を取り入れるために淡く開いた唇の端には唾液が溜まり、上気した頬は紅色に染まっている。

まるで情事を求め、欲しているかのような表情。

「紅夜?ねえ。俺に集中して。」

「え?あ…っ!」

動揺している紅夜を、蝶々はゆっくりと押し倒した。背中に浴室の冷たいタイルが当たって、思わず肩が跳ねる。

「かわいいね。」

恐らく蝶々の瞳には、先ほどの自分の顔が映っているはずだ。紅夜は恥ずかしくて、情けなくて思わず顔を腕で隠した。

「? 何故、隠すの?」

「だって…、こんな。みっともない、よ。」

涙が出てきて、隠した腕を濡らす。

「そんなことないのに。顔が見たい。紅夜、腕をどけて。」

「だめ…。」

蝶々は紅夜の上に覆いかぶさりながら、首を傾げた。

「いや、じゃなくて?」

「! い、いや!!」

慌てて訂正をする紅夜を見下ろしながら、はは、と蝶々は笑う。

「かわいい。紅夜。」

腕で顔を庇うあまり他が無防備になった紅夜の体のラインを、服の上から人差し指で蝶々はなぞる。

「やっ…、」

背筋に走るぞくぞくとした粟立つ感覚に耐えきれず、紅夜は顔を上げて蝶々の腕を取ろうとした。

「っ痛!」

「…いったー。」

勢いよく顔を上げすぎて、互いの額と額をぶつけてしまう。無言になり、見つめ合い、そして。

「ふは。

「あはは!」

同時に吹き出したのだった。

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