第8話 不意打ちのキス
健やかな風がそよぎ、頭上の白い雲がゆっくりと流されている。
「…ー。」
蝶々は野の丘に寝転んで、肺一杯に瑞々しい空気を吸い込んだ。傍らにはサチがぷうぷうと寝息を立てて昼寝をして、小さな赤い携帯ラジオが歌をうたっていた。ラジオは時折ノイズが混じるが、それすらも味のように感じられた。
こんなにも穏やかな心持ちは久しぶりだった。
否。
もしかしたら、初めてかも知れない。
今日は遠足と称して、紅夜と蝶々が引率の遠出が行われていた。村の子どもたちは素直で明るく、笑い声の絶えない一行となった。
着いた先は森を抜けた小さな丘。丘のうえで弁当を食べ、今は自由時間だ。
サチは相変わらず蝶々に懐いて離れない。
「蝶ちゃん。あの雲、お魚さんみたいな形だねえ。」
「そうだね。サチ、寝るなら俺の上着を下に敷いて。かわいい服が汚れるよ。」
無邪気に草の上に直に寝転ぶサチに、蝶々は上着を勧める。サチは嬉しそうに蝶々の服の上に移動した。
「蝶ちゃんに匂いだー!」
そう言って、子ども特有の甲高いこえでサチは笑う。蝶々は首を傾げながら、自らの服の裾の匂いを嗅いだ。
「蝶ちゃんはね、干したばっかりのふかふかのお布団と一緒の匂いがするんだよ。だから、大好き!」
「そう?」
自分ではよくわからないが、好いてくれているのなら問題はないだろう。
「ありがとう。」
「うん!」
えへへ、と笑い、サチは供に寝転んだ蝶々にくっつくように密着する。まるで大きな抱き枕のような扱いだったが、それでもいいかと思う。
「ねえねえ。蝶ちゃんは好きな人、いる?」
「好きな人?突然だね。」
「恋バナだよ。真剣に考えてね。」
さすがは女の子だなと思いつつ、蝶々には一人の人間が脳裏に浮かんでいた。
笑うとたんぽぽのような明るさで、雰囲気は綿毛のようにふわふわしていて。でも、時折見せる芯の強さに目が離せない。
「…内緒かなー。」
「えー?教えてよう。」
サチは唇を尖らせているようだった。
「サチはどうなの?」
「…サチも、内緒。」
蝶々は、ふは、と吹き出してしまう。
「そっかー。じゃあ、一緒だね。」
「うん。一緒だねえ。」
そう言うと、サチは黙り込んでしまった。会話に飽きてしまったのかと思ったら、規則正しい寝息が聞こえてきた。どうやら寝入ってしまったらしい。
赤い携帯ラジオはサチが持参したもので、父親から借りてきたという。サチの家には母親がいない。そういった境遇も、蝶々に懐くきっかけとなったのかもしれない。
うとうとと二人で微睡む。遠くでは他の子どもたちが鬼ごっこに興じる声が聞こえてくる。チチチ、と小鳥がさえずり、ミツバチ一匹分の羽音が響く。ラジオから歌が止み、天気予報が流れてきた。
「蝶々さーん。サチー。そろそろ帰りましょう。」
遠くから近づいてくる紅夜の声。もっと聞いていたい。
「あれ?二人とも、寝ちゃったんですか。」
クスクスとした鈴のような笑い声と、隣で膝をつく紅夜の気配がする。
「蝶々さん?」
肩に触れ、揺すろうとするその手を思わず蝶々は取った。そして、ぐい、と引っ張る。
「わわっ、」
体勢が崩れた紅夜の重みを上半身に感じた。眠気で重い瞼を開けて、紅夜を確認して。
「…え…?」
そして、紅夜の唇に口付けた。
温かく湿っていて、やわらかい感触が心地よい。一度だけ柔く食み、ちゅ、と吸って解放した。
夕方の空気を孕んだ涼しい風が蝶々と紅夜の間に吹いた。ゆっくりと唇が離れていく。驚いて固まる紅夜をよそに、蝶々は二度三度瞬きをして起き上がり、伸びをした。
「ふあ…。よく寝たなー…。」
未だに眠たげな瞳をこすりながら、隣で眠るサチにも声をかける。
「サチ。サチー?帰るって。」
「ぅんー…。」
蝶々はまるで普通の態度だ。
「え…、と。蝶々さん?今…、」
「ん?」
紅夜が困惑を隠せずにいても、蝶々は何事もなかったかのように微笑んで首を傾げてみせる。そのあまりにも無邪気な仕草に、紅夜はあまりない毒気が抜かれるようだった。
「か、帰りましょうか。そろそろ。」
「ああ、もうそんな時間なんだね。」
眠くてぐずるサチをおんぶして、蝶々は立ち上がる。
「蝶ちゃん。シスター?置いてっちゃうよー。」
子どもたちが手を振って、三人を急かす。
「今から行くよ。紅夜。」
「え?はい。」
「帰ろう。」
夕日を背景に、蝶々は穏やかに微笑んでいた。
ー…もう、何も言えない。
そう思えるほどに、紅夜は蝶々に絆されたのだった。
「風に湿気が帯びてきましたね。」
紅夜は遠足の帰り道、空を見上げながら呟く。
「ああ。さっき、ラジオの天気予報で雨が降るって言っていたな。雷雨になるらしいよ。」
「そう…。」
紅夜はそわそわと落ち着かない。しきりに空を見上げ、雨雲を探しているようだった。
「紅夜?大丈夫、まだ降らないよ。降るなら夜だ。」
「う、うん。それでも…、少し急ぎましょうか。」
そう言って、紅夜は歩く足を速めて子どもたちを牽引する。
「?」
蝶々は首を傾げながらも、子どもたちの最後尾を歩くのだった。
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