第3話 おせっかいの果て

青年の名は、高木 蝶々という。

蝶々は紅夜に思いがけず、親切にされて戸惑った。異端の容貌している自身を初見から受け入れてくれる人は本当に限られていたからだ。

ー…紅夜は教会の人間だから、と最初に思った。

蝶々は元々、熱心な信者だった。流浪の旅をする蝶々にとって教会は特別な場所だ。教会を見かけると、廃墟と化したものでも立ち入って祈りを欠かさない。その例に漏れず、今日も偶然に見かけた教会に寄ったのだ。ただ、それだけのことだった。

紅夜は穏やかに微笑み、静かに凪いだ話し方をする少女で関わっていると不思議と呼吸が深くできるようだった。それは、教会の人間だから、という安易な考えからは遠くかけ離れた。恐らく、紅夜という人間そのものの素質なのだろう。そう、思わせた。

だから、甘えてしまった。

本来ならすぐにでも立ち去らなければならないのに。

『今夜はここに泊まっていってください。』

屈託のない提案に、拒絶が追いつかなかった。強引に手を引かれて、部屋に案内されて嬉しかったのは間違いない。人扱いされることが嬉しくて、胸がいっぱいになってしまった。


今夜は雲が厚く、月を隠してくれるから。

一晩。たった一晩、人として関われたら。


この厚意に、この身を浸したかった。


「この部屋を使ってください。今、新しい毛布と枕をお持ちしますね。」

「…すみません。」

蝶々が頭を下げると、紅夜はその長めに切りそろえた黒い前髪を揺らして笑った。

「謝ることは何もないんですよ。待っていてください。」

そう言うと、廊下を駆けるように行ってしまう。

「賑やかな人だ。」

まるで子どものような仕草に、蝶々も笑みを零した。

紅夜を待つ間に、荷物を整理しようと背負っていたリュックを床に下ろす。重い荷物から解放されて、蝶々は肩を軽く回して解した。

「…。」

ふと、目に入ったカーテン。あれを見ないようにするためにも、引いて窓を覆っておいた方が良いだろう。その行動は迂闊で、軽率だったことを後に知る。

窓の前に立った瞬間。本当に、その瞬間だった。

一陣の風が吹いてあんなに厚かった雲をほんの一瞬、晴らしてしまった。

「…あ…、」

まずい。

そう思ったときには、もう遅かった。


「ー…ああぁぁあぁっ!!」


体の変化に血液が沸騰するようだった。目の奥でチカチカと光が瞬き、喉から鉄の味がする。肌が粟立つ。犬歯が痒くて、たまらない。

蝶々の絶叫を聞いたのだろう、遠くから廊下を駆けてくる足音が近づいてくる。

やめろ、来ないでくれ。

部屋の前に立った紅夜の気配がする。紅夜はこんなときでもノックをしてくれた。

「蝶々さん?蝶々さん!?どうしました、大丈夫ですか?」

大丈夫だと。だから、入らないでくれ。伝えたかった、頼むから逃げてくれ、と。だけれど喉から出てくるのは、声にならない叫びで。

紅夜はもちろん、俺を無視してくれなかった。

「ごめんなさい、入ります!」

ガチャリ、とノブが捻る音が響いて、扉が開け放たれた。

「…、え?」


驚きに大きくする紅夜の瞳に映るのは、月明かりに照らされた銀色の狼だった。


甘い香りがする。

芳醇な、熟した果実のように生臭く、強烈に甘い香り。一度その香りを嗅げば抗うことができず、口いっぱいにかぶりついて味わいたくなる。

まるでイヴが食べたりんごのように。


逃げ惑う人間を追いかける。足がもつれて、それでも自分から逃げようとする姿が哀れで、可哀想で、加虐心を煽られた。散々いたぶるように追い続け、教会の祭壇で捕まえた。

甘い香りが強くなった。


朝日が厳かに教会のステンドグラスに差し込む。幾重もの色がわずかに埃が散る空気の中を通過して、一人と一匹を照らした。

「…、」

紅夜は膝に顎を乗せて眠る銀色の狼を、戸惑いがちに見つめる。その瞬間、狼に異変が起きた。

大きな耳、鋭い歯、その骨格が変化していく。鮮やかな影が、狼から人間へと変わっていった。紅夜はその様子を息を呑んで、見つめていた。

「…蝶々、さん…?」

狼は、蝶々だった。

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