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帰りの新幹線でも、須賀原が「ユメ」の小説を開くことは無かった。というより、正しくは開けないままだった。
流れていく景色は、数日前に見たものと同じだった。たった数日で何か劇的に変わるわけもなく、風に揺れる山桜桃梅の果実も須賀原の目には変わらないように見えた。
それでも、世界はきっと変わっていた。雨に濡れた町はだんだんと太陽に照らされて、夏の訪れを今か今かと待っていた。
買ったばかりの手元の小説を指でなぞる。さらりとした心地よい感触。くにゃりと曲げてぱらぱらとめくってみれば、ふわりと紙の匂いがした。
声に出すわけでもなく、ふと頭に浮かんだ。
「そう言えば……、小説は、好きかもしれないな」
小説のタイトルは「棄劇」。須賀原と同じように、一人旅をする男が主人公だった。
この主人公は、一体どんな旅をするんだろうかと思った。どこに行って、誰と出会って、何を思うんだろう。
主人公が好きなものは? 好きなことは? 自分と重なる部分はあるだろうか。何に直面し、何を考えてどう乗り切るんだろうか。
人生は、まるで神様の小説だった。
須賀原は思う。僕が神様なら。主人公に何を言わせるだろうか。何を思わせて、何にぶつからせて、どう乗り越えさせるだろうか。オチはどうしようか。
どうやったら、面白い小説になるだろうか。
今の人生は、小説で言えばどの辺りだろうか。今まで敷かれたレールの上を走ってきた男が逸れ始める、起承転結の「承」の最後あたりだろうか。それとももう「転」に入っているだろうか。はたまたまだ「起」かもしれない。
そう思って、須賀原は少しわくわくした。胸が高鳴っていることに気が付いて、少しくすぐったかった。
昇進の話はまだどうすべきか思いついていなかったし、あのおかしな老人が言っていた意味もよく分かっていないし、そもそも何を言われたか部分的にしか思い出せなかった。
行きと違うことと言えば、持っている小説の数だけ。
小説と言うのは大体、最初と最後で主人公の考えとかが変わって、読者はそれを過程と共に楽しむ。須賀原は思った。このたびは急だったから、仕方がない、と。
いつまでも代り映えのしない景色に少し飽きて、また「棄劇」の表紙を撫でた。
ぱらりとめくって、一行目。夏の話だった。車窓から洩れこむ陽の光が少し眩しかった。
「道真くん、おはよう。お土産ありがとうね」
久しぶりに研究室に行くと、片手に須賀原が買ってきたお土産を掲げた三浦に声をかけられた。少しだけどきりとして、挨拶が遅れる。
「あ、三浦先生……。おはようございます」
「少しは息抜きになったかな」
「はい。おかげさまで」
「そうか。なら良かった」
少しの沈黙があって、三浦は須賀原の緊張を慮るように突然ふっと笑った。
「ふふ……、緊張しすぎだ。あの話の答えはそこまで急いでない。言っただろう。ゆっくり悩みなさい」
そう言って、須賀原の肩にぽんと手をやる。
自分の部屋へと去っていく三浦の曲がった背中は、少し小さいように見えた。
「先生」
考えるよりも先に口から喉をついて声が出た。
三浦が何も言わずに立ち止まり振り向く。
「僕は……」
言い淀む。体は動く。意味もなく。頭では何もできていないのに、喉ばかり話したがる。
三浦は静かに待っていた。
「僕は、自分でも、まだ何がしたいか分からなくて」
何を言っているんだと思った。もう子供じゃない。目の前にいるのは上司だ。自分を導いてくれる先生じゃない。
「本当に研究がしたいのかも、何を研究したいのかも、学生を育てたいかどうかも。ただ、仕事だから、そう思ってやってきました」
喉を突く。吐き出すように、言葉が口から洩れる。
「一人旅でも行ってみれば、何か変わるんじゃないか、って思ってました。きっと何か変わるだろうって、どこか、他人任せみたいな感じで」
体が熱かった。気持ち悪い汗が背中を伝うのが分かった。
「でも、何も変わりませんでした。ただほんの少し、自分のことがほんの少し分かっただけでした。だから……、でも」
須賀原はもはや自分でも何を言っているのか分かっていなかった。
「もうちょっとだけ、ちゃんとやってみようと思うんです。だから、少しだけ、待っててもらえませんか」
自分の発言に論理もくそもなくて、言いたいこともよく分からなくて、意味があるのかすら、須賀原には分かっていなかったが。ただ、まとまりも何もないのに、少し吐き出しただけで何か体が軽くなったような気がした。
三浦は、その優しい目で静かに須賀原を見据えている。
「ええ、もちろんです。きっとそれを乗り越えれば、あなたは私なんて優に超える素晴らしい学者になれる」
ただいま、と呟いてみても返事が返ってくるわけはなかった。手探りで照明のスイッチを探して、部屋に明かりを点す。
荷物を下ろして大きな窓の方に向かって歩く。カーテンを覗けば映るのは美しい夜景だった。雲一つない東京の夜空に、星がたった一つだけ光っていた。
ふと、頭に文章が浮かんだ。
デスクに腰かけて、不安定なそのうえでパソコンを開く。
何か、明確なきっかけがあったわけじゃない。ただ思い出した。たびの先で会ったあのおかしな老人のことを。自分の中でとどめておくのはもったいないと思った。
妄想の産物かもしれない。実在したのか、本当に会ったのか、ただの夢だったのか。
須賀原は、書いてみることにした。書いて何になるかは分からない。本当にやりたいことなのかも分からない。読むのと書くのが違うことも分かっている。
ただ、なんとなく、須賀原は書かないわけにはいかなかったのだ。
本棚の一番上で、手が届くのは今か今かと、ユメが静かに笑っていた。
神の随に 天野和希 @KazuAma05
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