六月と言えど、朝はまだ寒かった。時計が指すのは八時。

 平日ということもあって博多駅前はスーツを着た人たちで溢れていた。

 珍しく雲一つない晴れた朝に、じめりとした表情で決められたプログラムに従って動く彼らを見て、須賀原は初めて自分を俯瞰した気がした。

 どこかの新興宗教か、はたまたどこかの政党か、よく分からない御託を並べている人たちにも彼らの足は止められなかった。

 ホテルのチェックアウトの時間にはまだ早かった。それでもいくらやることがないからと言って、せっかく旅行に来て一人でホテルに籠るのももったいない気がして、須賀原は早めにチェックアウトを済ませていた。

 昨日の反省を生かして、今日は何となくの予定を組んでいた。

 博多駅から少し言ったところにあるブックカフェが開店するのが十時。そこでお昼まで本を読みながら過ごして昼食を済ませ、その後太宰府天満宮と九州国立博物館。時間があれば他の寺院でも巡って、明日は九州大学で世話になった教授と会うつもりだった。

 暇つぶしにとバッグに入れていた小説は二冊。昨日買った本と、あの「ユメ」の小説。駅前の適当なベンチに座って、須賀原は迷わず昨日買った小説を手にした。

 小説のタイトルは「凡人」。主人公は、大好きな音楽に魅入られてとうとう現代を代表する音楽家とまで言われるようになった。だが、憧れの人を失って、主人公は音楽を辞めてしまった。

 多分、作者が込めた思いとは違うのだろうけど、須賀原はその主人公の気持ちがどこか分かるような気がした。

 今まで決まった道を歩いてきただけなのに、突然ハシゴを下ろされるような。導かれなくなった主人公は、きっと自分のように路頭に迷ったのだろうと須賀原は思った。

 自分も同じだ、そう感じた。

 親に言われるがまま中学受験をこなして中高一貫校に入学し、中学生から大学に向けて勉強。当たり前のように大学に入学して、優秀過ぎるほどの成績で卒業。そのまま院へ進んで、導かれるように研究室に残った。

 だが。今どうだろうか。

 自分はいま何をしているんだ、と須賀原は自嘲した。

 本来喜ぶべきはずの昇進の話を保留して自分でもよく分からないまま、五つも下の院生に言われた通り来たこともない場所に一人。

 自分も、自ら目と耳を失ったこの主人公と同じように、たびの末死んでしまったりするんだろうか、なんてくだらないことを考える。

 少し肌寒い風に、時折身が震えても須賀原のページをめくる手は止まらなかった。そこで読むのをやめてしまえばもう一生この気持ちは味わえない気がして。


 読み終わる頃にはちょうど良い時間になっていて、須賀原はそのまま予定通りブックカフェに向かった。

 入場料を払いコーヒーを注文する。提供されるまでの間、広い店内に数え切れないほど並べられた本を吟味していた。

 たまには趣向を変えてみてもいいかも、そう思って、須賀原は普段読まないミステリーのコーナーに目をやった。

 ミステリーだけで視界に収まりきらないほどの数。須賀原には、到底選べなかった。

「ミステリーなら、江戸川乱歩先生を一度読んでみるのが良いと思いますよ」

 その時、隣からしゃがれた低く穏やかな声が聞こえた。

「ありますかねえ、ここには。もうだいぶ昔ですからねえ」

 最初、須賀原は大きな独り言かと思った。だがそうでは無いらしい……。

 声がする方を見ないまま、須賀原は曖昧に返事をする。

「え、どがわ……、乱歩ですか……」

「世間ではミステリーの基盤を築いたと言われてる方ですねえ」

「はあ……」

 沈黙が流れる。嫌な空気だった。

 コーヒーの香ばしい匂いと、紙の匂い。コポコポという軽やかで心地よい音と、紙のすれる音がする。

 一人でいれば心地よい空間であるのは間違いなかったが、隣には見知らぬ老人。

 歳にしては背が高いなと、須賀原はそう思った。こけた頬と、鼻と口の下に髭。切れ長で少し吊り上がった目は何か遠く先を見ているようでもあった。

「小説は、お好きですか」

 老人が言う。

 須賀原は、言葉を失った。

 何と答えればよいか分からなかった。確かに小説は読む。人よりも多く読むだろうなと言うのは、何となく自覚はしていた。

 だが、好きかと聞かれると、須賀原には答えられなかった。

 きっかけは、両親だったと思う。

 幼いころから本に囲まれて生きてきた。小学生の時、図書委員会が毎月発表する読書数ランキングでは毎月一位を取っていた。受験時も、その読書数が変わることは無かったし、歳を重ねるごとに増えていくばかりだった。

 両親はクリスマスや誕生日に好きなものがあるかと聞いてくれたが、毎年結局欲しいものが見つからず、本をもらっていたのを須賀原はよく覚えていた。

「好き、かどうかは、分からないです」

 小さな声で捻りだすように言う。

 老人は、それでも穏やかな顔をしていた。

 また沈黙が須賀原を襲う。

 ふと、カウンターの方の受け渡し口を見る。いつの間に呼ばれたのか、須賀原は手元の紙と同じ数字が表示されているのを見て、少々ためらいながらも老人には何も言わず、受け取り口へ向かった。

 老人は、須賀原がコーヒーを片手に席に着くころには、どこにも見えなくなってしまっていた。


 博多駅から約四十分。太宰府駅。

 町全体が太宰府天満宮の荘厳さを帯びているような、駅舎のデザインも朱色を基調とした歴史的建造物を想わせるようだった。

 少し前まで通り過ぎていくような小さい雨が降ったみたいで、地面は濡れていて薄く霧がかかるように白いもやが街を覆っていた。昼過ぎだと言うのに陽の光が遮られるようなその空間は、今にもその霧の向こうから神々がその御姿を現されるのではないかと思えるほど少しの不気味さすらあった。

 どこかで聞いたことがある。日本の神は本来祟るものであって、例えばパワースポットだとか神の聖域だとかそう言ったところで不用意に神に触れてはいけないと。神社はその最たるものである、と。

 事実かどうかは分からないが、須賀原は少し観光客の楽しそうな雰囲気とは裏腹にそれがすぐにでも冷え切ってしまうのではないかと言う心地に襲われた。

「参拝されないので?」

 何か分からない奇妙なものが足背中を伝って全身に行き渡るのを感じた。

 突然、後ろから声をかけられた。ぱっと振り返っても、そこには誰もいなかった。

「隣ですよ」

 何が起こったか考えるよりも早く、次は右隣から声がして。すぐに視線をやると、そこにはあの老人がいた。

「一緒に参拝しませんか」

 老人はそう言って、何が起こったのかすら理解が追いついていない須賀原を置いてゆっくりと歩きだした。

 訳も分からず、ここで引き返したり突っ立ったままでいても不自然だと思って、断る言い訳も思いつかなかった須賀原は素直に従うことにした。

 老人は何も言わない。ただ石畳をどこか懐かしがるように一歩一歩確かに踏み締めている。

 大きな神社の周りではよく見られるような、知らない地の郷愁を覚える景色。人々の姿は、須賀原が重ねた湯島天満宮とは違った。

 時期が時期だから当たり前か、と思う。

 須賀原はその事実に少しだけ安心していた。理由は、自分でもよく分からなかった。

 いくつか鳥居をくぐり、段々と境内に進んでいく。その境界線ははっきりと、まるで現と分かつように、気が付くとあたりの霧はより一層深くなっていた。赤い欄干らんかんと石でできた橋が見えて、須賀原は思っていたよりも小さいなと思った。

 老人は須賀原のことなど見えていない様にずんずんと進んでいく。霧をかき分けるように。

 太鼓橋の中央まで来て、老人はその足を止めた。心字しんじ池は霧に遮られ、まるで現し世に切り取られたようだった。

「お名前はなんと?」

「須賀原です」

「……下の名前は」

「どうしん。道を信じるとかいて、道真どうしんです」

「道真、ですか。いい名前ですね。真なる道……。道真公と同じですね」

 老人の視線は、相も変わらずどこに向いているのかも分からなかった。

 道真公の名前を出され須賀原はあまりいい気分ではなかったが、会話を終わらせ沈黙が訪れれば霧に飲まれてしまいそうで、仕方なく老人に問うた。

「あなたは……?」

「私ですか? 私は……、そうですね。強いて言うなら、水宮(みずみや)阿呼(あこ)と言います。」

 おかしなことを言う老人だと思った。自分の名前に、強いて言うもくそもないはずだ。

「……行きましょうか」

 須賀原が何も言わないでいると、阿呼はまた、須賀原のことなんて見えていない様に歩き出した。

 心字池は思ったよりも大きかった。太鼓橋を通り過ぎ、少し歩いたところにまた石造りの鳥居が見える。奥には赤を基調とし金色の飾りが入れられた二重門が覗く。

 それに気を取られることもなく、まるで家にでも帰るかのように阿呼は迷いなく進んでいった。

「あの、手水。やらなくていいんですか?」

 二重門の手前にある手水舎を指さして、須賀原が言う。

「……ああ、禊。私はいいんです。……あなたはした方がいいですね。行ってきなさい」

「ああ、はい……」

 須賀原は、もはやこの老人のおかしな言動について考えることをやめていた。言われた通り、記憶を頼りにできる限り正確に手水を行って、ただぼうっと立って待っている阿呼のところに戻る。

 阿呼は須賀原の気配を察しているかのように、一瞥もくれずまた歩き出した。

 二重門をくぐると、御本殿がその姿を現す。霧は深くなるばかりだった。 

 直前になって、須賀原は慌てて財布を取り出した。いくら投げようかと迷っていると、阿呼が言った。

「いくらでもいいんですよ。決まりも作法もありませんから」

 顔をあげると、先ほどよりも阿呼との距離が広くなっているのが分かった。それと同時に、須賀原は何か違和感を覚える。

 立ち止まる須賀原には目もくれず、阿呼は御本殿に向かって歩いている。阿呼は、その道の中央を歩いていた。

 参拝を済ませ、動こうとしない阿呼に目をやる。ふと後ろを見ると、見えるのは霧ばかりで参拝客は誰一人いないように見えた。

「このたびで、あなたは昔より自分のことを知れたはずだ」

 ぽつりと独り言を言うように言う。

「どうしんよ。本は好きか」

 阿呼が発したのは聞き覚えのある言葉だった。

「……さっきも言いましたけど、好きかどうかは」

「そうか? たびは移動だ。お主はここに来るまで、ずっとユメと一緒だっただろう」

「え?」

「今も手に持っている」

「あ……」

 手元に目をやると、須賀原の手元には確かにあの「ユメ」の小説があった。

「あれ……、いつの間に…………」

「あの後……、私と会ったあと、江戸川乱歩の小説も読んだであろう」

「……なんでそれを」

「私は神様だからの」

 つくづく変なことを言うじじいだとそう思って、だが何故か須賀原にはそれが嘘とは思えなかった。

 根拠などないが、きっとこの目の前にいる阿呼と名乗る老人は神なのだろうと思った。

「…………読みました」

「どうであった」

「ここで語るにはあまりに……」

「…………」

「長くなりすぎます」

「そうか」

 ちらりと阿呼の方を見ると、何やら満足気な顔をしていた。

 と、あることに気がついた。阿呼の白く輝くほどだった髭は、もはや白ではなかった。シワの深かった顔も、見間違いではない、確かに若返っているようだった。

 よく聞けば声も少しはっきりとしていたし、背は一段と伸びたようだった。

 だが、もっと不思議なことに須賀原はそれを受け入れられた。

 目の前で起きるおかしな出来事も、この霧も、どこにも見当たらない参拝客も、手の中にある「ユメ」も。

 神のイタズラだと思った。

「さてどうしんよ。何をそんなに悩んでいるのだ」

「…………分からないんです。何に悩んでるのかすら」

「そうか。……自分が何をしたいか明確にしなさい。直感で良い。理由が欲しいのなら後付で良い。何をしたいか分からないなら、思いつく限りのことをしてみなさい。それでも分からないのなら、もっと捻り出して全て試しなさい」

「言うのは……」

「言うのは簡単か? 本当にそうか? お前は今、一人旅に来ている。それでも本当にそうだと言えるか」

 須賀原は言葉を失った。確かにそうだと思った。昔なら、一人旅なんて選択肢にすらなかったはずだった。

「焦ることは無い。人生は長いのだ。自分の思うがように生きれば良い。分からなくなったら、ひとたびは神にでも委ねてみれば良い」

「……天神様。委ねてみることにします。この名前に」

 考えるよりも先に、喉をついて言葉が出た。それと同時に、阿呼のその髭の中に隠れた口が小さく笑った気がした。

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