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流れていく景色は、小説で描かれるような美しいものとは違った。取るに足らないどこかの誰かの日常。それは誰かにとってのいつもの景色で、誰かにとっての郷愁で、誰かにとっての遺恨だった。
山桜桃梅の果実が実っているのが見えた。確か、花言葉は「ノスタルジー」。見たことも無い聞いたことも無い、ましてや訪れたことも無いその地は須賀原にとってはただの道でしかなく、例えば自分の故郷を思い出すとか、昔を思い出すとか、はたまた忘れていたことを思い出すとか、そんなきっかけになるはずもなかった。
グーグルに言われるがまま、わざわざ高い金を出して飛行機ではなく新幹線を選んだ理由は本当にあったんだろうかと、こんな場所まで来てどうでもいいことばかりが頭を支配する。
静かな新幹線の車内で、須賀原は都落ちを思った。ふと、大宰府へ左遷された菅原道真公はどんな思いだったんだろうかと考える。行きたいところが思いつかなかったから、頭にまず浮かんだ福岡を目的地に選んだ。深い意味は無かったけれど、須賀原はグーグルを信じた。
言われるがまま何も決めず、三浦へのメールを一通とJRからのメール一通だけでこの「たび」は始まった。急なことだった。
どこに行こうかとか、旅先で何をしようかとか、どこに泊まろうとか、そういうことはその時々で考えるので良いかと思った。上手くいくのか不安だった。だがもう子供ではないのだ。そう思って、須賀原は少しでも原動力が続くうちに思い切ってしまおうと考えた。
読んでいた小説は読み終わってしまった。まだ三時間も時間は残っていた。どれだけ面白い小説でも、さすがに三時間何もせずに読後感だけで乗り切るのは厳しいものがある。
ふと最低限の物だけを詰めたバッグの中身を見る。
目に入ったのはあの小説だった。
「ユメはもういない」
この「たび」を終えるころには、僕にもこの小説をちゃんと読めるだろうか、なんて考える。
須賀原の隣の席は、まだ空だった。
結局、須賀原は残りの時間を仕事に費やした。グーグルに止められつつも万が一の為と思って持って来ていたパソコンを開いてしまったのが運の尽きだったのかもしれない。
博多駅に着いたのは、昼とも夕方とも言えるような微妙な時間だった。六月は陽が長かったから、須賀原はそれを昼と呼ぶことにした。
駅前の広場は思ったよりも広かった。波のような形をしている屋根が特徴的で、東京よりも緑が多いなと思った。
クリスマスシーズンには見事な飾りが施されて観光客も多いらしかったが、今の時期しかも平日は人も多くなかった。
どこからか潮の匂いがした。須賀原は海を見に行こうと思った。
一旦広場に出てみたは良いものの、荷物が邪魔な事に気が付いてまた駅に戻ることにした。須賀原は、この無計画さがあまり好きではなかった。
駅をぐるぐると周り、同じところを何回か通った。同じ駅員を何回か見て、同じロッカーを数回確認した。十数分経った頃、やっと空いているロッカーが見つかって、須賀原は荷物を預けた。
ふと、夜のことを考えた。突然宿はどうしようかと不安になった。
きっと大丈夫であるのは須賀原が一番よく分かっていた。子供じゃない。お金だってある。時間だって、体力だって、知識だって、経験だって。
本当にそうかと思った。
別の観光客に不思議そうな目で見られて、須賀原は考えるをやめその場を離れた。
海に行くにはどうしたらいいかと思って、スマホを取り出した。「博多港」と検索窓に打ち込んだ。
検索をかけると、そこにはたくさんの選択肢が表示された。
それに圧倒される感じがして、直ぐにその文字を消す。次は言葉をよく考えた。
「博多 海 観光」
あまり減ったとは言い難かった。
「おすすめスポット○選」「人気スポット○選」「観光スポット○選」
だがよく見てみると海だと言っているのに表示されるのは観光スポット全般で、海だけを選べば大して量はなかった。
と、「海浜公園」だとか「ポートタワー」だとかを見ているうちに、本当に海に行きたいのかと思い始めてきた。
ただ潮の匂いがして、海を思い出しただけだった。目的がある訳でもないし、そもそも海なんか東京湾を何回も見ている。それと何が違うというのか。
グーグルは壱岐島や対馬島が見えると言う。だからなんだと思った。ただの島じゃないか。
須賀原には今、「綺麗だね」と言い合う友人も、「また来たいね」と語り合う恋人も、ましてや思い出に写真を撮る家族もいなかった。
馬鹿馬鹿しくなって、そのままスマホを閉じた。
やることも思いつかなかった須賀原は、散歩しながら予定を考えることにした。
博多は京都にも負けないほどに神社仏閣が多かった。旅行先を博多に決めたのは、それも理由の一つだった。大博通りを歩きながら、須賀原はスマホで周辺地図を見て思う。
太宰府天満宮には明日行こう、そう思った。
特に目的がある訳でもなく通りを歩く。何か特別なものがあるわけでもなかった。地方都市の大通り、須賀原が抱いた大博通りの印象はそれ以上でも以下でもなかった。
奥まで連なるスタンプのようなビル群と、東京と何も変わらない人々を見ながら歩を進めても、例えばなにかに心を動かされるとか、例えば考えが改まるとか、そんなことが起こるはずもなかった。
南に下ったわけだから少しは暖かいのかとも思ったが、そんなこともなかった。天気も似通っていたし、多分、写真を見せられてどの都市かと聞かれれば区別なんてつかなかった。
それでも、どこか新鮮な気持ちではあった。
それはきっと博多でなくても良かった。ただ遠く離れた地で、たった一人、何の目的もなく歩くことは不思議な感覚で少々の不安と共に東京とは何が違うんだろうかとほんの少しだけ、胸が高鳴ったというのは嘘でなかった。
三十分くらいが経っただろうか。ぷらぷらと歩いているうちに、通りが終わった。
また途方に暮れる。須賀原は改めて「自由」の果てしなさを知った。
何かあれば寄ろうかと思っていたのに、途中に特に何かあるわけでもなかった。誰かと一緒だったら、計画を立てていれば、違っただろうか。
考えても仕方ないと思って、須賀原はまた来た道を引き返した。
反対側の道を歩くと景色も変わるもので、須賀原は道沿いに寺があるのを見た。さっきはなぜ気が付かなかったのだろうかと考える。「南岳山」と書かれた立派な正門と、その奥には赤くそびえ立つ五重塔が見えた。
ふらりと引き寄せられるように、須賀原は正門をくぐった。
どうやら有名なお寺らしく、中はそれなりに混んでいた。
はるか頭上から、穏やかな表情の仏が須賀原を見下ろす。たった一人で、何を思えばいいのだろうかと考える。
ふと須賀原は昔のことを思い出した。
たしか、あれは小学六年生の時だった。
中学受験を控えた須賀原を、母親は湯島天満宮に連れ出した。時期が時期だったので、湯島天満宮は多くの人で賑わっていた。半分くらいは子供で、須賀原が思うに多分その子供たちの多くは十二歳と十五歳、それから十八歳だった。
みな真剣な顔をしていた。中にはやつれて酷い顔をしている子もいた。須賀原も同じで、表情は決して緩みはしなかった。
ただ理由は違った。
「どうしん。ちゃんとお祈りはできた?」
「うん」
「ほんとは神頼みなんて必要ないのだけど……。〝ここ〟は別ね」
「うん、そうだね」
「これで確実。中学に受かれば、高校受験は無くなってすぐにでも大学受験に備えられるわ」
「うん」
いま所属している大学も、母親が決めた。須賀原は、生まれた時からどう生きるかが決まっていた。
それは、須賀原にとって別に苦ではなかった。やりたいことや好きなことがあるわけでもなかったし、勉強を強要されたり、友達を遊ぶことを制限されたり、なんてこともなかった。
ただ未来が決まっていただけ。進むべき道が、決まっていただけ。
少しして、何も言わずに立ち去り「気を使わなくていいのは楽だな」と、ほんの少しだけ思った。
何でもできるとは、何もできないのと同じだった。時間に追われないのは、一番時間を気にしてしまうことだった。
集めていた訳では無いけれど、何となく御朱印を貰った。初めて、この「たび」に意味が生まれた気がした。
それから、また道を辿って、紀伊國屋書店で小説を買った。駅のお土産コーナーが目に入って、金木の顔が頭に浮かんだ。帰る時、何か買ってから新幹線に乗ろうか、そう思った。
時計を見ると夕方と言っていい時間になっていた。
夕飯を食べるにはまだ早かったから、今夜泊まる宿を探すことにした。
世の中はなんとも便利なもので、ネットでどこかのサイトへアクセスすれば当日予約可能な宿など簡単に沢山見つけられた。
そこから適当に条件をつけて、合致する中で一番安いホテルを予約する。
今夜に安心すると共に、また空白の時間が出来たことに須賀原は悩まされた。
チェックインの時間はまだなのに、何となくやることを探すように駅を出てホテルに向かった。
ふらふらと歩いて数分。少し奥まった路地の方に、小さな商店のような、お土産屋のような、そんな店を見つけた。
やることを見つけた気がした。
そこはビルの一階部分で、道に面した部分の扉が全て開かれて開放的な店だった。
駅構内のお土産屋でも見かけたような一般的な商品から、何かよく分からない芸術品のような、そんなものまでずらりと並んでいる。
店内はあまり明るくなく、ぼんやりと点いた暖色の照明がどこか懐かしさを思わせた。
外殻覗き込むようにして眺めて、入ろうかどうか迷っていると、店内から一人の老人が出てきた。目が合った気がした。シワまみれの顔に、切れたように細く空いた目はまるで、全てを見通すようで、それでいてなぜだかとても優しく感じた。
「いらっしゃい」
奥から声がして気を取られ、気がついた頃にはその老人はどこかへ行ってしまっていた。
辺りを見渡しても、ある程度開けた空間であるはずなのにどこにも気配はなく、代わりに風だけが吹いていた。
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