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「ごめんね。僕の仕事なのに遅くまで」
「何言ってんすか。こんな状態の先生見て、置いてさっさと帰る訳にはいかないですよ」
積み上げられた紙の向こうで金木が答える。
いつもはそれなりに人が多く、人数分のデスクと積み上げられた紙、ファイル、資料、色々なものがあって分かりづらいが、研究室の一室であるその部屋は二人でいるにはあまりに広かった。
普段煌々と点いている明かりは最小限に絞られ、部屋には紙がこすれる心地よい音のみが反響する。
「だから先生じゃないって」
そう笑って言いながら、須賀原は数日前三浦に呼び出されたことを思い出した。闇より暗い夜の帳が背中に伸し掛かってくるようで、須賀原は得体のしれない焦燥感に苛まれた。
現実を見ないように、下を向いて黙々と作業を続ける。時間が解決するなんてことが起きないのは頭ではわかっているはずであったが、何から手を着ければいいのかすら分からないような問題に、須賀原は「無視」と言う選択肢を取るのが精いっぱいだった。
一瞬だけ、沈黙が訪れる。意味もなく手が止まって、静寂。
「金木くんは」
気が付くと、須賀原の口から言葉が漏れていた。何故かは自分でもわからなかった。
「はい、なんですか?」
静寂はまだ続く。
「やりたいことがなくて、院に来たって言ってたよね」
「はい、そうですね。恥ずかしい話ですけど」
金木が照れ隠しに笑う。
「院出た後、どうするか考えてる? もし、研究室に残って、自分の研究できるとしたら、どうする?」
「あー……、院出た後、ですか……」
ぎしりと椅子が音を鳴らす。蛍光灯が微かに明滅した。
「まだ、全く考えてないですね。でも、残って研究することになったら……」
そこでまた言葉が途切れる。
須賀原は静かに待っていた。
「うーん……」
金木は、須賀原が何か言うのを待っているように示すが、須賀原はその口を再び開くことは無かった。
「たぶん自分は、それはそれで楽しめると思います。その場になってみないと分からないですけど。ほら、三浦先生って入る前に放っておいてほしいか手取り足取り教えてほしいか、面談してくれるじゃないすか。その時おれ、放っておいてくれていいですって言って。今も割と自由にやらせてもらってるんで。たぶん、いやもちろん院生ごときと比べるつもりはないですけど。何とかやってけるんじゃないかなと思います」
そこまで言って、金木はまた手元の作業を再開させた。
「楽しめてるので、今も」
「そっか」
須賀原は少し後悔していた。あまりにも自分と違うと感じたから。勝手に聞いておいて失礼な話だとは自覚していたが、それでも少しも参考にならないような答えに少々の絶望があったのは確かだった。
数分の時間が流れる。
何のきっかけもなく、と須賀原が感じたのは作業に集中していたからであろうか、金木が口を開いた。
「須賀原先生は、なんで研究者になろうと思ったんですか?」
先生と言う不適切な敬称を咎める気力は、須賀原にはなかった。もう数えることすら諦めたほど何回も訂正してきたというのもあるが、同時に、そこに意識がいかないほどその質問を理解するのに時間がかかったからだった。
「…………」
「……? 須賀原先生?」
「…………なんで」
「はい、やること無くて研究者って人もあんまりいないじゃないですか。聞いてみたいなと思って、参考に」
「なんで、か……。考えたこともなかった」
飛ばし飛ばしに過去を想う。
大学に入った時、院に行くことを選んだ時、博士に進んだ時、そして研究室に身を置くことを選んだ時。
上手く思い出せなかった。須賀原は、自分が今なぜここにいるのか、分からなかった。覚えていないのか、知らないのか、それすらも分からないほどに。
途端に、静寂が不気味に思えた。
何か喋らなくてはならない。そう急き立てられるような。
「……先生は、中国古典、好きなんすよね」
「え?」
「え、好きじゃないんですか?」
「いや……、どう、だろう…………。好きなのかな……」
「好きじゃないとやってらんないと思いますけどねー、研究者なんて」
金木の発言に、須賀原は違和感を覚えた。研究を金の種としか思っていないやつはいるから、というかそういう者を身近に知っているから、金木がただ幻想を見ているとしか思えなかった。
「そうとも限らないよ」
「えー、やってる人はみんな少なからず好きだと思うんですけどね」
「少なくとも僕は……、いや、ごめん、分からないや。ずっとこれしかやってこなかったから」
「ふーん……」
金木はあまりに納得しない様子で天を仰いだ。須賀原はどうせ深い意味は無いだろうと割り切って、それ以上考えるのはやめることにした。
「須賀原先生って、休みの日とか何してるんですか?」
また金木が尋ねる。
口より手を動かせと叱責しそうになったところで、須賀原は飲み込んだ。危うく自分が手伝ってもらっている側だということを忘れるところだった。それに、金木の手元を見れば手が十分に動いているのは確かだった。
仕方なく、重い口を開く。
「いや、特に……。本を読む以外は特に何もしないな」
「……おれこう見えて結構一人旅とかするんすよ」
「…………へえ」
ふと机の上にあった誰かのお土産のお菓子が視界に入った。
なるほど金木だったのか、と一瞬だけ思って、すぐに仕事に戻る。はっきり言って、既に須賀原の頭には金木の話の内容など入っていなかった。
お喋りが好きなのは一緒にいれば分かっていたが、二人きりだとここまで口が止まらないやつだったのかと少し驚く。
必要最低限のことしか話さず雑談をあまり好まなかった須賀原は、金木と会話するのが少しだけ億劫だった。
まるで、年の離れた弟か、少し歳の近い甥っ子でも相手しているかのようだった。
「結構いいもんですよ。普通に生活してるだけじゃ触れないことに触れられて。楽しいし、それきっかけで好きになったこともあるくらいで」
「……」
「須賀原先生も、一人旅してみたらどうですか? 何か見つかるかもしれないすよ」
「旅行か……。いつ行ったのが最後かな」
「久しぶりなら余計いいすよ! 息抜きにもなりますし」
数日後。木曜日の昼下がり。心地の良い日差しが大きな窓から洩れ入る。
どこまでも連なるビルに切り取られた青々と澄んでいる空は、人々の生活をほんの少しだけ彩っていた。
夜中に降っていた雨が嘘のように、水たまりに反射する太陽が日々を祝福するように煌めく。
それと対照的に、須賀原が住むワンルームの部屋は嫌にじめりとした空気が漂っていた。窓に切り取られたその憧憬と、嘲笑うような陽の光が部屋の奥の暗さをより一層引き立てる。
ベッドに座り、壁にもたれて須賀原は小説を読んでいた。
あらすじはこんなのだった。ある日突然、主人公の前に「ユメ」と名乗る少女が現れる。ユメは主人公の「夢」に固執して、主人公と生活を共にしていた。が、あることを拍子に主人公はユメを殺してしまう。「わたしはあなたの夢そのもの」と語っていたユメを失った主人公は、自分が夢を思い出せないことに気が付く。
そして主人公は夢を思い出すため――と、そこで須賀原は本を閉じた。
何とも読む気が起きなかった。別に、小説がつまらなかったわけではない。面白いか面白くないかで言えば面白かった。だが。
須賀原には、主人公の気持ちがあまりに理解できなかった。
感情移入の対象である主人公が、自分とあまりに異なるとどうも楽しく読むということが難しいもので。
須賀原は視線を上げ、立ち上がってようやく部屋が暗いことに気が付いた。
照明がぱっと明るく光り、部屋を照らす。作られた見せかけの光が満ちる。
それから、何かに導かれるようにデスクに向かった。文献だとか資料だとか、色々なものに埋まっていたパソコンを引っ張り出して、不安定なデスクの上で起動する。
ファンの回る音すらも鮮明に聞こえた。
パソコンが須賀原を歓迎して、外面だけは整えられた部屋からは想像もできないほど散乱したデスクトップからブラウザを探して立ち上げる。
検索窓にカーソルを合わせて、少し考える。
かたかたと心地よいタイピング音と共に、須賀原は「一人旅」と打ち込み、徐にエンターキーを押す。
試験運用中のグーグルのAIが、一人旅をする理由を聞いてもいないのに自慢気に掲げてきた。
「気を使いたくない」「趣味を追求したい」「現実逃避したい」「自分だけの時間が欲しい」理由は様々だったが、須賀原は改めてストレスに満ちた現代社会が如何に癒しを求めているのかを知った気がして、ストレスを溜め込まない自分の性格と少々の乖離を覚える。
だが……。
「また、一人旅は自分の現在地を知るための自己確認・自己認識として使うこともできます」
グーグルが言うなら、きっとそうなのだろう。須賀原はその文章に、少しだけ心が動かされたような気がした。
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