神の随に

天野和希

須賀原すがはらくん、これよろしく。まとめといて」

 細身で背の高い男が、両手で抱えきれないほどの紙の束をどさりと机の上に置いてそう言った。

 衝撃で机が揺れて、積み上げられた本の上に置かれていた誰かのお土産のお菓子が落ちる。男はそれに気を止めることも無く、「あとあれもね」と言って部屋の隅に置かれた段ボールを指差す。

 明和文科めいわぶんか大学二号館七階。文学研究科、中国古典文化学研究室。その部屋はお世辞にも片付いているとは言えなかった。至る所に知識と、歴史と、いくつもの人生と、そして全てを揺るがすような宝が積み上げられていた。

 須賀原と呼ばれた男は落ちたお菓子を数秒見つめ、悩んだと思うとそれを拾い上げて書類に埋もれた籠に戻した。

 須賀原の細く華奢な腕では抱えきれないほどの書類が視界を遮る。思わず口から漏れてしまいそうになるストレスを飲み込んで立ち上がった。

 一番上の数枚をペラペラと捲る。

 日本語、英語、中国語……。様々な言語が一気に視界に入り、須賀原は直ぐに読むのを辞めた。

「せめて分けてからにしてよ……」

 声が漏れ出る。

 積み上げられた文献は論文からまとめられていない資料まで様々で、言語やその内容もすべて整理されていない状態だった。

「須賀原先生、また木田きだ先生の文献ですか。断ればいいのに」

 机の向こう側でお菓子を食べていた院生が、呆れたように言った。

 須賀原はその言葉より、ぽろぽろと書類の上に落ちる食べかすが気になって仕方なかった。

「何度も言ってるけど、僕は先生じゃないよ」

 何をするにもまずは机を使えるようにしなくてはと、散乱した書類やらファイルやら、誰かの何かやらを乱雑にまとめながら言う。

「それに、金木かねき君。君と違って仕事だ」

 ため息混じりの須賀原の言葉は、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。

「おれ、やりたいことなくてとりあえず院に入った口なんでわかんないですけど。やっぱり、『仕事』なんですか」

「…………」

 一瞬、須賀原の手が止まる。金木は少しだけ気まずそうな表情を浮かべていた。

「うん。そうだね。お給料もらってるから」

 何とか捻り出した〝普通〟の回答でその院生が満足するとは思えなかったが、それでもとにかく何か答えなくてはならなかった須賀原はそこで会話を終わらせる選択を取るしかなかった。

 と、目の前に立ちはだかる義務をこなそうと手を動かし始めた時だった。

「どうしんくん。ちょっといいかな」

 後方から少しだけしゃがれた、それでいて響きに温かみを覚えるような、そんな声がした。

 声の主は振り返らずとも分かった。この研究室で須賀原のことを下の名前で呼ぶのはただ一人だったから。

三浦みつうら先生、授業お疲れ様です」

 ドアの前に立ち、声をかけたのは須賀原が所属する研究室の主任教授だった。

「ぼくですか?」

「うん。あれ、ごめんね。ちょうど何か始めたとこだったかな」

「いえ、大丈夫です。さっき木田先生から渡されたばかりなので。急ぎではないです」

 申し訳なさそうに眉を曲げる三浦に、須賀原はすぐに作業の手を止め姿勢を整えた。だが、須賀原の予想に反して三浦が表情を緩めることはなかった。

「木田先生から……? そうか、またか」

 うんと唸る。その沈黙に、須賀原は何故だか耐えられず自分がどう言った立場でものを言えばいいのかすらはっきりしないまま、口を開いた。

「でも、大丈夫です。大丈夫ですよ」

 その言い方はあまりに不自然だった。咄嗟に出た「大丈夫」と言う言葉が、二回繰り返すことで余計にそれを引き立てていた。

 だが須賀原本人も、果たして自分がどうしたいのかも分かっていなかった。

 確かに木田から押し付けられる雑務の量は常軌を逸していたし、単純作業を繰り返すのは億劫で到底意味があるとは思えなかった。

 でもだからと言ってこなすことが出来ない程の量じゃなかった。きっとそれは木田分かっていた。須賀原の優秀さを知った上で仕事を押し付けていたから。

 それに、須賀原は木田から押し付けられる仕事が無くなったからと言ってやりたいことがあるわけでもなかった。面倒くさいとはいえ、むしろ仕事があるのは楽だとも思っていたのだ。

 昔から、与えられた仕事がどれだけ多くてもその能力の高さゆえにほとんど完璧にこなしていた。むしろ須賀原は韓非子かんぴしの考えに従い、周りの仕事を代わりにするなんてこともなかったせいで疎まれるくらいだったのだ。

 それ故、次回には仕事の量を増やされる。それの繰り返し。

 須賀原は、それで回るのならそれが一番だとすら思っていた。決して、野望はなかった。

「木田先生のことも考えなくてはだけど、それよりも話したいことがある。どうしんくん、私の部屋に来てほしい」

 納得はしていない様子だったが、それよりも急の用があるようで、三浦はそれだけ言って自分の部屋に戻って言ってしまった。

 院生に「昇進じゃないですか」なんて茶化されながら須賀原は言われた通り三浦の元へ向かうのだった。


 三浦の人柄とは似ても似つかないような、周りの雰囲気を無視したどこか威圧感すら覚える重い扉を前に、須賀原は覚悟を決めようと考えていた。

 元々は別の研究員のために作った部屋らしく、三浦が引き継いだときそのまま使わざるを得なかった。三浦は最初こそ自分に似合わないと質素な外観を望んだものの、その快適さには抗えなかったようだった。

 重い右腕をおもむろに持ち上げて、ノックを四回。その見た目の通り、重く鈍い音が響く。

 中から「どうぞ」と聞こえて、ノブに手をかける。まるで潜入捜査をしているどこかのエージェントのように、ゆっくりとドアを開ける。

「失礼します」

 静かな部屋に須賀原の声が響く。不思議な感覚だった。

 三浦の部屋は全面が本棚に覆われ、床にすら何かの文献か、紙の束やらが置かれていた。文字通り、足の踏み場がないほどに。

 唯一、内開きの扉の付近だけは綺麗にされているのが須賀原の視界に入った。

「ごめんね、急に呼んで」

 目の前に置かれたデスクで何やら書類を整理していたらしい三浦が申し訳なさそうな表情をして言う。

「いえ。話したいことと言うのは……」

「まあとりあえず座りなさい」

 三浦に促されるまま、デスクのこちら側に置かれた椅子に腰かける。ぎしりと音を立てて、須賀原を包み込んだ。

 この椅子も、昔のものをそのまま使っているらしく、やはり座り心地から相当良い椅子だというのが伝わってくるようだった。

 キャスターで床に散らばった紙を踏んでしまわないように、注意しながら位置を定めて、須賀原は三浦に向き合った。

 書類を整理する手を止め、三浦はくるりと後ろを向いた。棚から何かを探している様子だった。

 須賀原は頭の片隅にあった〝嫌な予感〟が、段々と自分の中で現実味を帯びてきているのが分かった。覚悟はできていたはずだったが、いざこうして直面してみるとそう思ったようにはいかないもので。

 鼓動が狭い部屋に反響した。根拠のない不安が襲う。

「ああ、あった」

 何かのファイルを取り出して、三浦がまたこちらを向いた。

 ファイルをデスクに広げる。入っていたのはこの研究室から出された論文だった。

「……これかな? どうしんくん、覚えてる?」

 須賀原の目の前に出されたのは木田先生が主導の研究論文だった。もちろん、覚えていた。須賀原がはじめて深く関わった研究だったから。

「はい。覚えています。木田先生の」

「うん」

 三浦が満足げに頷く。

 須賀原はとうとう自分が呼び出された理由が分からなかった。いくら考えても呼び出しを食らうような、思い当たる節はなく、いたって真面目に与えられた仕事をこなしてきたはずだった。

 それなりに高く評価をされていた院生時代と、何も変わったことはしていないつもりだった。

「どうしんくんのことは、M1えむいちのときから評価してたけどね」

 そこで三浦が言葉を切る。続く言葉の選択肢が多すぎて、須賀原の心はまだ晴れないままだった。

 論文をぺらぺらと捲って流し見する。そして、微笑んで。

「やっぱり私の目に狂いはないと思うんだ。助手としていてくれている今も、君の働きにはいつも驚かされる」

「ありがとうございます」

 お門違いだ。そう思った。

 ただ言われたことをやって、考えられることをこなしてきただけで評価されるならそんなに楽なことは無い。確かに須賀原は学生の頃からそれで評価されてきた。が、研究員となった今、同じように評価されるのは彼にとって全く受け入れがたい事実だった。

「どうだろう。助教になりたいとは思わないかな。君には、君の研究をしてもらいたいと思うんだ、どうしんくん」

 ――もちろん私の一存ですぐになれるわけじゃないけど、と三浦は笑って言った。

 あまりに突拍子のない、予想もしていないその言葉に須賀原は言葉を失った。

 ほんの数秒の時間で様々なことが頭を巡った。

 助教になれば自分の研究をしなくてはならない。場合によっては授業もやらされるかもしれない。今みたいに、平日は言われたことをこなし、休日はぼうっとして過ごすなんてことは出来なくなる。

「私は……」

 沈黙を貫くわけにはいかないと思って、何とか言葉を発する。

 いっそのこと勝手に決めてくれればいいのに、と思った。助教になるデメリットは浮かべど「なりたいかどうか」と聞かれると須賀原は「なりたい」とも「なりたくない」とも答えられなかった。

「そ、うですね……。助教、ですか。私に、務まりますか…………」

 なるにしろならないにしろ、どちらでもいいから決めて欲しいと須賀原は三浦に促すように言葉を続けた。

「務まるか、か。それは申し訳ないけど私には分からないな。研究員って、そんな分かりやすいものでもないから」

 うんと唸って、三浦は言う。

「どうしんくんも知ってるでしょう? ほんとにこんな人が最新の研究やってるのか、みたいな先生。もちろん私がそうじゃないとは言いきれないから、こうやって言うのも憚られるんだけどね。逆も然り。すごく優秀な人が、教授職に就けずに終わることだってある。自分の研究をやることは簡単じゃないし、単純でもないし、やることが決まってる訳でもないし、成果が直ぐに出る訳でもない。だから私は」

 そこで少し言葉を切る。三浦はどこか昔のことを思い出しているような。そんな穏やかな表情を浮かべた。

「君がやりたいかやりたくないかを重視したい。能力は十分にあるよ。気付いてないだけでね」


 結局、須賀原は結論を決めることが出来ずに三浦の部屋を後にしたのだった。

 三浦はそれでも穏やかだった。どうしたいかが明確に決まっている人なんて居ない、と。そう言ってたっぷりの猶予を須賀原に与えた。

 須賀原は、飛び方も教わらずに突如として親をなくした雛鳥のように。ただ呆然と、大量の紙に包まれていた。

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