第8話 瑠々川鈴々2
「ほんものだ」
彼女の絵はまるで写真のようだった。風景をそのまま切り取っており、なのに本物よりも魅力的に映った。故に本物、ではなく、正確には〝本物越え〟と呼ぶべきなのかもしれない。
空気の暖かさや風の流れ、ソメイヨシノの柔らかな桃色の花びら、池の小さな波紋までもが細かく表現されており、池に着水するハシビロカモの広がった翼が優雅で生命の息遣いを強く感じさせるほどだった。
「アンリの写真みたい」
「え?」
「アンリ・カルティエ・ブレッソン。昔の写真家でね、〝決定的瞬間〟をカメラに収めることに生涯を費やした人で、たった一枚なのに、被写体の躍動を感じ取られるような、見事な写真を撮るの」
わたしはもう一度、彼女の絵を見つめる。
ああ、でも、アンリの写真ともまた違う。よく見れば、実際にある光景とは少しだけ違う部分があった。この心地よい違和感はなんだろう。その疑問がわたしをずぶずぶと彼女の絵に引き込んでいった。
「……あ、えと」
瑠々川さんが小さく縮こまる。
「あ、ありがとうござい……す」
声は徐々に小さく萎んで、最後までよく聞き取れなかったが、お礼を言われたのだけは分かった。
「瑠々川さんの絵、わたし好き」
「へっ」
素っ頓狂な声を漏らした瑠々川さんをよそに、わたしはなんだかうれしくなって、によによとニヤついてしまっていた。
遠い存在だと思っていた瑠々川さんが、急に親しい距離に近づいた気がした。まるで、同じ趣味の友達を見つけたみたいな。わたしは絵は描けないのだけれど、それに近い感覚だった。
彼女の絵は、ほんものみたいに描くが、その細部に想像を含ませていた。シュレアリスムを少し内包しているような感覚だ。例えばカモが池に着水したその瞬間を一瞬で記憶し、そのままを描くことは難しい。実際、池の周辺にカモは見当たらなかった。ソメイヨシノの花びらも海を揺蕩う魚群の如く優雅に舞い踊っているが、現実ではそれほど美しくない。おそらくそれらの部分は彼女の中の知識と経験と想像で補っている。風景がどのような形であれば、もっとも心地よいか。彼女の感性が絵をあるべき姿に導いていた。
風の向き、動物の立ち姿、色、光、そのすべてがほんもののようで、ほんものではない。まるで子供の頃に見た田舎の山が実際より大きく見えた時みたいな、感性に引っ張られた錯覚を、そのまま絵に落とし込んだみたいな夢現の広がりがあった。いわば現実ではなく、記憶の中にある風景をクロッキー帳に落とし込んだ、みたいな。
だから「ほんもの」みたいだった。現実の光景そのままではない、わたしが子供の頃に見た井の頭公園の思い出の中の情景、そのものだったからだ。
「ね、他にも描いたものとかないの? 片っ端から見せてほしい!」
「ご、ごめんなさい。このクロッキー帳、新品で、昔のは、全部家に……」
「そっか。残念」
わたしは心の底から残念に思って、しぶしぶクロッキー帳を返した。その頃にはわたしの中にあった妙な緊張は綺麗サッパリ消え去っていた。
「てゆうか、ごめん。わたしばっか夢中になっちゃって。――どう、気分は楽になった?」
失礼かな、とは思いつつも、手にそっと触れて、緊張の様子を見る。こわばりはなく、手の力は抜けていて、リラックスしているように思えた。
流石のわたしもいい加減、瑠々川さんの状況を理解した。たぶん彼女は極度な緊張にかなり弱いのだろう。入学式や教室で周りの空気に当てられて、気を張り続けてしまっていたのではないだろうか。今の感じからして、かなり内側にため込みやすいタイプのようだし、緊張しいなのはよくわかる。
「入学初日は、やっぱり緊張するよね」
瑠々川さんは目をきゅっと瞑って、こくりと頷いた。
「学校に前の友達はいないの?」
「も、もともと、愛知に住んでいて、その、引っ越してきたので」
「そうなんだ。ご両親の都合で?」
「い、いえ。入学のために、一人暮らしを……」
「一人暮らし!?」
びっくりして、思わず大きな声を出た。同時に瑠々川さんの肩がびくっと震えた。
「瑠々川さん、今一人暮らしなの?」
「はい。笹塚の方で」
「なるほど。そりゃ、不安になるよ。わたしだって高校初日で知っている友達もいない、家に帰っても一人、そんな状態なら押しつぶされちゃうかも」
「ろ、六路さんも、ですか?」
瑠々川さんがようやく顔を持ち上げた。
「だから、瑠々川さんは偉い。すっごくね」
わたしは少しだけ体を寄せて、後ろから肩をポンポンと叩いた。スキンシップが過ぎるかなと思ったが、瑠々川さんは受け入れてくれて、同じように少しだけ体を寄せ返してくれた。
「やっぱ、不安だった?」
「……はい」
そうして不安をごまかすために、ここで絵を描いていた。けれども緊張の糸が解けると、ふいに心が決壊し、涙が溢れてしまった。彼女はぽつぽつと、そう語ってくれた。
「でも、もう大丈夫」
「え」
「だって、友達出来たじゃん」
わたしは、しっかりと彼女の手を握った。
今日は本当に妙な一日だ。日芽香とは別のクラスになって、新しいクラスで瑠々川さんを見つけて、絶対に友達になりたいって息巻いて、結局だめで、日芽香と喧嘩して、そうしたらこうして彼女にまた会えた。
今日、日芽香と喧嘩しなかったら、決して会えなかった縁。しかも今ここで出会わなければ、学校では気丈に振る舞う瑠々川さんの心中には気付けなかっただろう。彼女の不安には寄り添えなかっただろう。
なんだか、そんな言葉で片付けたくない、特別な〝なにか〟を感じた。
「瑠々川さんって、下の名前なんていうの? あの、鈴が二つの」
「あ、はい。
「へえ、すず、か。可愛い名前だね」
「六路さんは、」
「
「え、なんでですか」
わたしはわざと首を長くしてみせた。
「あっ、ろくろっ首?」
「そっ」
わたしが、にっ、と微笑むと、釣られて瑠々川さんも笑んだ。
彼女はやっぱり笑顔が似合う。特に目元がすごくかわいい。前髪はもっと梳いて、横に流して、おでこを見せた方が魅力的だと思うんだけどなあ。
「ね、ちょっとだけ、前髪触っていい?」
「え? あ、はい……」
突然のお願いに疑問符いっぱいの瑠々川さん。わたしはそんな彼女の前髪にそっと触れ、横に分けてみた。すると奇麗なビー玉みたいな碧眼が現れて、まっすぐにわたしを捉えた。
「うん。やっぱり、目元が見えた方が可愛い」
「あ、え……っと」
瑠々川さんは耳まで真っ赤にして、目線を逸らしてしまった。ああ、宝石が逃げていく!
しかし、それからしばらくすると、彼女はわたしをまた見つめ返してくれた。
「……あの、私のことも、その、下の名前で呼んで、ほしいです」
上目遣いの、潤んだ瞳、か細い声で、そうぽつりと。……鼻血が出そうになった。
「だ、だめでしょうか。」
「むしろ、いいの?」
「できれば、その、お願いしたく、て」
「――うん、わかった。じゃあ、よろしくね、鈴々」
「はい、あ、杏さん」
なんだか照れくさくなって、わたしが堪え切れずに笑い出すと、一緒になって鈴々も笑ってくれた。
夕日が深い銀色の髪を暖かく照らす。まだ少ししか話していない気がするのに、気づけば日が暮れ、辺りが暗くなり始めていた。
鈴々の緊張も随分とほぐれたようで、時折、細く長い息を吐いていた。これまでは手にもぎゅーっ、と力が入っていたが、今は随分と緩んでいるように思える。
「この辺、あんまり遅くなると変な人増えるから、そろそろ帰ろっか」
「あ、はい」
わたしが立ち上がると、鈴々はわたわたとクロッキー帳を鞄にしまい、手に持っていたハンカチをじっと見つめた。「洗って返します」と言うので、わたしも「いつでもいいよ」と返事をした。
「あれ、そういえば」
「はい?」
立ち上がったばかりの鈴々がわたしの方へ振り返る。奇麗な髪がなびいて、その瞬間を写真に収めたかった。まさに〝決定的瞬間〟だ。
「わたし、自己紹介してなかったよね。なんで名前知ってたの?」
自分のことは棚に置きつつ、そういえば六路って苗字、なんで知っていたのだろうと不思議に思った。今日はここにくるまでほとんど話ができなかったし、クラスでは自己紹介の場もなかった。レクリエーションの時も、日芽香からは「アンちゃん」としか呼ばれていないし。それなのに、さっき話しかけた時「六路さん」と呼ばれた気がする。……あれ、どういうことだ?
すると、鈴々が口を丸めて、恥ずかしそうに顔を伏せた。
それから、上目遣いでわたしを見た。
「それは、たぶん、同じです」
「同じ?」
「こ、これ以上は、その、――禁則事項、です」
そう言って鈴々は精いっぱいハニかんだ。
その笑顔を見たら、もうどうでもよくなってしまった。
彼女に恋をしてしまいそうだった。
そして次の日。
わたしは、ドフトエフスキーの言葉を思い出す。
「人間には幸福のほかに、それとまったく同じだけの不幸が常に必要である」
あれは決して幸福の後に不幸が訪れる、なんて意味ではないが。
鈴々との出会いは、わたしの最高の幸せ。
ならば、その釣り合いを取る不幸とは、何か。
わたしの元に、一報のニュースが舞い降りた。
それはあまりにも思いがけないもので。
誰一人として予想できなくて。
――波乱の幕開けでもあった。
伝えられた内容はこうだった。
〝ネマコン部が全焼した〟と。
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