第7話 瑠々川鈴々1
帰る道中、都内有数の公園たる井の頭公園を見かけたので、立ち寄ってみた。
荻窪に住む身からすれば、割と近い公園で、何度か訪れたことはある、正式名称の方が知られていない井の頭恩賜公園。すぐ近くにジブリ美術館もあり、アニメの舞台にも何度かなったことがある、有名な公園だ。しかしながら、子供にとっては少々入りずらい場所で、公園内の年齢層は高く、大学生が屯っていたり、仕事をさぼっているおっさん、時には酔っ払いなどもいたりと、あまり治安は良くない。それでも夕方より前の時間帯であれば、多少は静かで、時間をつぶすのにはもってこいだった。
東京の街並みなんてものは数年ですぐに姿を変えてしまうものだが、井の頭公園は昔来た時と全く変わらなかった。あの時も日芽香と一緒で、わたしは散策しながら遊びたかったのに、あの子はクロッキー帳を開いて、ずっと池の絵を描いていた。その間、ずっと地べたに座るものだから、わたしは一生懸命に引きづって、近くのベンチに座らせて、ママが迎えに来るまでずっと、日芽香の横で池の絵が出来上がる様子を眺めていた。確か、小学三年生の頃だ。
ここに来たのはそれ以来だ。妙に懐かしくなって、日芽香が絵を描いていたあの場所に向かってみた。もしかしたらあいつがいるかも、なんて思いを巡らしたりもしたが、そもそも井の頭公園への行き方すら覚えていないであろうあいつがここにいるはずもない。そんな身も蓋もない結論に至って、鼻で笑ってしまった。
……帰ったら、謝ってやるか。
歩き続けて、足が痛くなってきた。そういえば長く歩いたのなんて、久々だ。意地になってバスに乗らなかったことをさっそく後悔する。近くのベンチにでも腰掛けて、日芽香に電話しよう。こんな高校初日はお互い避けるべきだ。遺恨は残ろうとも、せめて表面だけは奇麗に取り繕って終わりたい。謝意の気持ちはなくても、表面だけ取り繕っていれば、そのうち上手にまとまることだってあるだろう。
せっかく受験を頑張って、入学した高校だもの。……特に、あの子は本当に努力したんだから。
「こういう甘さが、あいつをあんなふうに育ててしまったんだろうなぁ」
母親みたいな呟きが思わず漏れ出して、自分で笑ってしまう。いったい、なにをしているんだか。初日からお互い不貞腐れて、学校の帰りでぐだぐだして。馬鹿みたいだった。
「……ん?」
その時、不意に耳当たりの良い声が聞こえた。
聞き馴染みはないが、聞いたことはある声だった。
壊れたロボットみたいに、「あー」と間の抜けた、けれども軽やかな女の子の声。発声練習でもしているみたいに、あー、あー、と声に出しては、次第に喉が開けたのか、はっきりとその声色が聞き取れた。
後になって思えば、この声は後の運命を決める女神様の導きだったのかもしれない。もしも今この時、この公園に立ち寄っていなければ、きっと聞くことはできなかっただろう。――彼女に、出会うことはなかっただろう。
だからわたしは、絶対に忘れない。この出来事も、最愛にして最高のわたしの天使――、わたしを呪いから解き放ってくれる、彼女のことを。
導かれるまま、声のした方へ近づくと、昔、日芽香が座って池の絵を描いていた場所に、――あのベンチに、同じ制服を着た女の子が座っていた。奇麗に足を折り曲げて、鞄は横に、アッシュのきれいな濃い銀の髪が木漏れ日を受けて煌いている。膝の上には、大きなクロッキー帳があって、彼女の細い指にはスケッチ用の鉛筆が握られていた。
「瑠々川、さん?」
その名前を呟いたのは、無意識だった。わたしが驚いたように、ベンチに座っていた瑠々川さんもまた、わたしを見て目を丸くしていた。その顔を見て、わたしは二度驚いた。美貌に、ではない。彼女の目元が涙で濡れていたからだ。
「ど、どうしたのっ、瑠々川さん!?」
わたしはすぐに駆け寄った。瑠々川さんは「え?」と不思議そうな顔をしたのち、指で目元を拭って「え」ともう一度驚いた。自分でも涙を流していたことに気が付かなかったらしい。
「ご、ごめんなさい」
瑠々川さんが慌てて袖で目元を拭った。あまりに力いっぱいごしごしの拭うので、わたしは思わず彼女の手を掴んで、もう片方の手でハンカチを渡した。
「目元、赤くなるから」
「す、すみません」
瑠々川さんは差し出したハンカチを一瞬躊躇したものの、お礼と共に上品に受け取り、そっと
実際よりも大人びて見える彼女と、その頬に流れる幼い涙は、あまりにも魅力的で、背徳的で、いやらしかった。その幻想的とも蠱惑的とも思える姿に、わたしは見惚れて、次に掛ける言葉を忘れかけた。
わたしの心臓はトキめいたように弾みっぱなしだった。
「だ、大丈夫? 何かあった?」
辛うじて絞り出した心配の言葉を助走にして、わたしは瑠々川さんの正面で膝折りになった。それから見上げると、彼女は恥ずかしそうに顔を背けた後、ゆっくりとまた顔の位置を元に戻して、ちらっ、とわたしの方を見て、小さな口を開いた。
「だ、大丈夫です。ただ、突然、涙が」
「もしかして変な人に声を掛けられた? この公園、そういう人多いから」
「い、いえ、本当に、何も。お、お恥ずかしい姿を、す、すみません」
傾国の美女というべきか、清艶を絵に描いたというべきか、どこぞのご令嬢と言われても遜色ない、嫌味も出てこないほどのプロポーションの持ち主は、その自信たっぷりのスタイルとは真反対に、わたわたと手を揺らすと、最後にもう一度だけ目元を袖で拭い直した。
「ほら、もう」
わたしは渡したハンカチを取り返して、彼女の目元を優しく拭った。その間、注射を我慢する子供みたいに、瑠々川さんはきゅっと目を瞑った。度外視で可愛かった。わたしが膝立ちになっても届かないせいで、無様な格好になっていることには気付かれていないようでよかった。
「うん、ちょっと赤くなっちゃったけど、大丈夫そうだね」
彼女の手にハンカチを押し込め、少しだけ笑いかけてみる。ちなみにわたしの心臓は大丈夫ではない。鼓動が早すぎて、もはや止まっているのと同じ感覚だ。
彼女は不安にまみれた表情をしていて、今にもぽっきり折れてしまいそうな儚さがあった。不謹慎ではあるが、美人薄命、なんて言葉を連想するほどにだ。
瑠々川さんがおずおずと頭を持ち上げると、その長い前髪から僅かに瞳が見えた。プロポーションから全て完璧とも言える彼女だが、唯一目元を隠す前髪がもったいない。綺麗な瞳が完全に隠れていて、陰気臭く感じてしまう。実際、彼女は恥ずかしそうにまた伏せて、表情を隠してしまった。
「えと、……あ、横、座ってもいい?」
「あ、はいっ」
瑠々川さんが慌てて鞄をどかして、わたしの分のスペースを作ってくれた。わたしはお礼を言って、横に座った。まだ心臓が高鳴っている。隣に聞こえないことを祈りつつ、早く収まれと自分の胸に叱咤する。
この短いやりとりの中でも分かるくらいに、彼女は筋金入りの内気らしい。人に話しかけること自体に苦手意識があるようで、よく言葉に詰まっている。加えてかなりの緊張しいなのか、ずっと顔が引き攣っており、話しかける度に声が裏返っている。
さて、彼女の事情を訊くついでに世間話でも振ってみようか。なによりわたし自身も落ち着く必要があるし。このままだと好きな子を目の前にした思春期男子みたいな挙動が出てしまいそうだった。
視線を膝上のクロッキー帳に移し、声を掛けてみる。
「瑠々川さん、絵を描くんだ」
「え? ――あっ、は、はい」
わたしの登場やら、突然の涙やらでパニックになっていたようで、自分がさきほどまでクロッキー帳を膝の上に乗せて、絵を描いていたことを忘れていたらしい。見た目からはクールビューティなイメージが強かったが、どうやら認識を一新した方がよさそうだ。わたしの中の彼女の評価が「美しい」から「可愛い」にシフトしつつあった。
「見てもいい?」
「……えと、」
瑠々川さんはしばらくの間悩んでいたが、恥ずかしそうにしながらも、「はい」と静かに頷いて、胸に寄せて隠していたクロッキー帳を開いて見せてくれた。
「その、まだ描きかけで、――それに、色々考え事してて、その」
瑠々川さんが何か言いかけていたが、わたしは「ありがと」と受け取って、中を開いた。その間、瑠々川さんは言い訳めいたことをぶつぶつと呟いていたようだったが、その言葉のほとんどは私には届かなかった。
なぜなら、彼女の絵を一目見た瞬間、瞬きを忘れてしまうほど、夢中になってしまったからだ。
まるで、初めて彼女を見た時のような。
……違う。
この感覚はあれだ。
初めて自分の好きな絵柄の作品に出会ったときの、トキメキだ。
彼女の絵は、とても精密だった。全体像がはっきりと描かれていて、鉛筆画であるはずなのに、まるで本物のように精巧さで描かれていた。絵を見て、実際を風景を見直すと、間違い探しでもさせられているかのような不思議な感覚に陥った。
そして、感想はたった一言で、まとまった。
「ほんものだ」
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