第10話 始動2
その日、わたしは遠藤先生にお願いして、ネマコン部の部長である日暮先輩に連絡を取った。
ちょうど彼は火災の現場検証に呼ばれており、警察に机や用紙類の配置などを事細かに聞かれていた。わたしは隙間を縫って日暮先輩を呼び、用事が済んだら中庭に来てもらうよう話をした。日暮先輩はレクリエーションの時から不健康な面構えだったが、今回の事件を経て、その疲れは分かりやすく顔に出ており、力なく笑んだ表情がいやに印象的だった。
「ごめん、待たせたね」
わたしが呼びに行って、一時間後。
日暮先輩は片手をあげて、わたしに声を掛けてくれた。腰掛けていたベンチから立ち上がって会釈をすると、「いいよ、いいよ」とまたベンチを指し示して、二人揃って座り直した。
「声、治ったんですね」
「まあね。徹夜の必要がなくなったからね」
日暮先輩が乾いた笑い声を漏らした。
「なんとなくの話は遠藤先生から聞いたよ。ネマコン部の入部希望者だったんだって?」
だった、という過去形が少し寂しく聞こえた。
「はい。……まあ、厳密にはわたしの親友が、ですけど」
「それは本当に申し訳ない事をした」
日暮先輩が二個下の、しかも一昨日に入学したばかりのわたしに深く頭を下げた。
わたしは遠慮して、顔をあげてもらった。
「それで、部活を廃部にしたくないと」
「何か方法はありませんか」
日暮先輩は、項垂れた。
「ない、かな」
だろうね。
わたしは小さく息を吐いた。
日暮先輩は「ゴメンね」ともう一度謝った後、言葉を続けた。
「僕はね、この部の部長を引き受けた時、現場でどんな仕打ちを受けても、ある程度は許容しようと決めてたんだ。なにせ作品を作るというクリエイティブな作業だからね。衝突もあるし、うまくいかないことだらけだ。人間関係もそうだし、原画の仕上がりもそう。場合によっては虐めもあるかもしれないし、恋愛のいざこざもあるかもしれない。でもそういうものにはひとつひとつきちんと対処して、向き合うつもりでいたんだ。
でも今回は違う。
アニメの現場で〝火災〟だけは絶対に起こしちゃいけない。
それだけはアニメーターとしてのプライドが許さない。
原画が燃えてなくなったことに腹を立てているんじゃないよ。
たばこを隠れて吸っていたことに、怒りを覚えているんじゃないよ。
ただ純粋に〝アニメの現場〟で〝火災〟なんて、二度と起こしちゃいけないんだ」
日暮先輩はその言葉を何度も繰り返した。
火災だけは許さないと。
それにはわたしも同意だ。
アニメに関わる者は誰しもが〝火災〟を憎み、恨み、許していない。
だから自分達がそれに関わってしまったことに後悔と恥を感じざる負えないのは理解ができる。
――けれども。
「それでも、ネマコン部を続けられないですか」
日暮先輩は目を伏せた。
「……退部を撤回してもらえないですか」
そして、首を横に振った。
「僕に手伝えることはなにもない。――僕が手助けするわけにはいかない」
「責任、ですか」
「学生がしょい込める責任なんてたかがしれているけれどね。僕は大学に進学した後はアニメ業界に就職するつもりなんだ。その時、今回の件に対してケジメをつけていないと、僕は自分の画を誇れない。だから高校最後の晴れやかな門出を、僕は手放すことにする。ケジメとして、もっとも恥をかいて、卒業することにするよ」
「……先輩がよくても」
いや、この言い方は良くなかった。
そう思ったが、日暮先輩は「構わない」と促してくれた。
全ての罪を背負い、甘んじて罰を受ける。そんな囚人然とした雰囲気を、日暮先輩から感じた。それがかえって、わたしを苛つかせる。その責任に、どうして日芽香までまきこまれないといけないんだ。
「あなた達がよくても、これからネマコン部に夢を託そうとしていた、わたしの親友はどうなるんですか」
言いかけてやめた言葉を、全て吐き出した。
もう年上とか先輩とかどうでもいい。腹の奥底から
返ってきたのは、淡々とした声と現実的な回答だった。
「全国アニメーションフェスに出たいなら、別に部活動に所属している必要はない。15歳以上、18歳以下であれば他校の作品を手伝うことだってできる」
全国アニメーションフェス。
これがアニメ関係の部活における主軸となるグランプリだ。いわばアニメ界の甲子園のようなもので、毎年、春夏秋冬の四回に分けて全国から作品が集まり、より優れた作品が表彰される。それが全国アニメーションフェス。
本大会への参加条件はかなり特殊で、まず作品の主軸となる監督は高校の部活動に所属している必要がある。つまりは特定の高校が代表でなければならない。それから声優を除いたすべての役職が15歳以上18歳以下でなくてはならないと定められている。ただし、監督以外は他校の生徒からの協力を許可しており、部活動を作れない学校の生徒は、フリーランスとして他校の原画を手伝ったりすることがよくあることらしい。あとは参加クリエーターごとの証明書の提出などの規則はあるが、大まかな条件はそれくらいだ。
つまり日暮先輩は、日芽香もフリーで他校の手伝いをしていれば、高校生でもアニメを作ることはできると言っているのだ。
「でもそれじゃあ、あいつの目的と違うんです」
「あくまでうちの部で、作品を作りたいと」
「はい」
日暮先輩はチラとわたしを見た。
彼にはわたしがどう見えるのだろうか。仲の良い友達がおせっかいを焼きに来た。そんなところだろうか。それとも自分をなじりに来た生意気な一年生か。
いずれにしても、こういう出会い方はしたくなかっと思っていることだろう。そんなのはわたしだって同じだ。
「その子とは、随分と仲が良いんだね」
「ネマコン部に入るためだけに努力した親友です。そのために、わたしも随分と手伝いましたから。……そいつが今、火事の件でコテンパンに凹まされて、柄にもなく寝込んでます」
「そうか」
謝って済む問題ではないが、と付け足して、日暮先輩は小さく頭を下げた。
顔をあげてください、と返してもよかったが、この人の気が少しでも晴れるなら、と考えて、しばし事の成り行きを眺めた。今回の件、この人に責任はない。責めるのはお門違いであることは理解している。わたしの抱えている苛つきをこの人にぶつけるべきではないことは、心の中では分かっている。
けれども、日芽香のことを思い返す度、どうしても腹が立って仕方ない。そんな身勝手な自分が少し嫌になった。
しばらくして日暮先輩は顔を持ち上げた。
「せめて去年……、いや一昨年にでも入ってくれれば、なにもかも変わっていたのかもしれないね」
「なにかきっかけがあったんですか?」
「悪いけど、今は言えない。あいつらのプライバシーもあるし、言い訳がましくなるからね」
あいつら、とはきっと今回火災の原因となった喫煙していた制作部員たちのことだろう。
さきほどからの様子に加え、顧問の話も踏まえると、随分とこの日暮先輩は悪事を働いた部員仲間のことを庇っているように感じた。罰を軽減させるために三年生全員が退部するだとか、プライバシーは守るとか、仲間に甘い、という言葉だけでは括れない関係性があるのは、蚊帳の外のわたしでも分かる。
「ともかく、僕から手伝えることはなにもないよ。その親友のために頭を下げてほしいのなら、今からでもその子の家の前に行って土下座しても構わない。それで元気になるなら、喜んでやるよ。あいつらはもはや禊すら許されない立場に立たされた。今の僕に手伝えることなんて、その代わりをすることくらいだ」
日暮先輩の両こぶしはずっと膝の上にきれいに収まっていた。力がこもっている様子はないが、ぴくりとも動かない。一年生のわたしよりも随分と良い姿勢のまま、遠くの景色を見つめている。雨風にさらされる岩のように、ただ固く。
その時、ようやく日暮先輩の顔を見ることができた。
彼はくたびれた顔をしたまま、体裁だけ整えた笑顔を張り付けており、言葉を選ばずに言うならば、哀れだった。泣きたいのに泣くわけにもいかず、怒りたいのに怒るわけにもいかない。すべての責任をしょい込んで、雨にうたれる石の如く、ただじっと耐え忍んでいる。
日暮先輩が今回の事件を引き起こしたわけじゃない。同期が勝手にやらかした不祥事だ。それをただの部長が責任を取るなど、高校の部活でやることではない。
けれども日暮先輩の意志は揺らがなかった。握られたこぶしがそれを語っている。
この人の考えを折らせて、部再建を企むのはいささか難しそうだ。
わたしは切り口を変えてみることにした。
「ちなみに日暮先輩。この高校では部活が廃部する際の条件はどうなっているんですか?」
すると予想外の質問だったのか、日暮先輩は軽く目を見開いたが、余計な口出しはせずに、咳払い一つして、簡単な説明をしてくれた。
「廃部の条件は新しく部を作る条件を逆にしただけだよ。新たに部を作る際の条件が部員五名以上に加えて、一週間以上の活動実績が必要となる。そして廃部はその逆で、部員が五名未満の状態で一週間経過するか、もしくは名前だけ残した『同好会』に名乗りを変えるかの二つだよ。ただし同好会はあくまで非公認だから、学校側の支援や生徒会のサポートなどは受けられなくなるね」
同好会か。少しその線も考えてみたが、学校非公認ではアニ祭には出られないだろう。同好会の持つ権限なんておそらく、メンバー募集を呼びかけるポスターを廊下に張る権利くらいだろう。
「廃部の条件が一週間以内というのは、かなり短いですね」
「そもそも部員が五名未満、つまりは四人しかいない時点で、同好会レベルの活動しかできないのは目に見えているからね。ただまあ、それまで健全な活動を続けていた場合は、最下級生の部員が卒業するまでは多少の温情があることが多いね。たしか、去年の生物研究部も部員が三年生の二人のみだったけど、卒業まで部室は使わせてもらっていたね」
「ちなみに、今回のネマコン部の廃部も、その流れですか?」
「基本例外はないけど、今回の場合は段階を飛び越えて廃部宣告されることもあるだろうね。……ただまあ、その前に僕達が退部届を提出したから、おそらく通例通り、五名未満で一週間経過後の廃部、で方法で進めると思うよ。温情なしでね」
「じゃあ、せめて二年生が残っていれば」
「――いや、残念だけど」
と、日暮先輩は言葉を区切って、ブレザーの内ポケットから五通の封筒を取り出した。
表題には『退部届』と書かれていた。
「すでに二年生の作画班全員から退部届を預かっている。これでネマコン部の廃部条件は整ってしまった。なおかつ顧問の先生曰く、今回の事件を踏まえて新しく部員を入れることは禁止するとのことだから、間違いなく一週間後には部は消滅となる」
絶望に絶望を上塗りする事態に、わたしはため息をつくしかなかった。
せめて二年生が部を盛り上げて、再建しようと尽力してくれるならずいぶんと助かったのだけれど。これで人手も圧倒的に足りなくなった。
日暮先輩が手にしている五名分の退部届。
これがトドメの一撃だった。
「どうして、君の親友はネマコン部にこだわるんだい?」
日暮先輩がふと、そう訊いた。
「そもそもウチの作画班のメンバーだって、全員がネマコン部員というわけではないよ。机を貸しているだけのやつもそれなりにいた。元々アニ祭に出場する条件は、声優職を除いたスタッフが18歳以下であること、監督を務める生徒が高等学校もしくは専門学校公認の部活に所属していることだけなんだ。だから監督以外の作画部員、――ようはアニメーターだね、彼らは部に所属している必要はない。実際、ウチの作画班もよその学校の手伝いで作業していることが多かったし、ウチがメインで作る際も多くのパートを他所の学校に作業を依頼しているからね」
自分の学校の作品じゃなくても、他校の作品に参加できる。まさにフリーランスの如き活動方法だ。
場合によっては、在校生が少なすぎてアニメ部どころかまともな部活動が作れない学校もあるかもしれない。そういった人たちへの救済処置なのだろう。
「僕が提案したのも、この制度を使ってのものだ。アニ祭にエントリーしたいだけならば、よその学校の作品を手伝えばいい。腕がいいなら、僕が仲介してもいい。ただし、申し訳ないけれど制作班では同じようなことはできない。ルール上は可能だけれど、物理的に難しいからね。制作は実際に現場で交渉事や雑務が発生するから、他校の手伝いをする際は毎日その高校に行かなきゃいけない。僕たちだって普段の授業があるわけだからね、時間的にも厳しいんだ」
なるほど。アニメーターの方は今やデータで納品物を送れるから、都内どころか地方の学校も手伝えるけれど、制作部の方はそうもいかないのか。まあ、わざわざ他校の作品の制作を受け持とうなんて物好きはいないだろうが。
「それじゃお気に召さないみたいだね」
「残念ながら。〝ネマコン部〟でアニメを作りたいみたいです」
「気持ちは分かるよ。僕も同じ考えだから。みんなで作品を作る際の高揚感や緊張感、あとは達成感もそうかな、そういった色々な感情は代えがたいものがある。なによりデータや電話だけの付き合いより、実際に面を突き合わせた方が作品の仕上がり自体も格段に上がるし、コミュニケーションもとりやすくなるので方向性を定めやすくなったり、意見交換が盛んになる」
ここにきてようやく、日暮先輩が笑みを零した。
「いい現場だったんですね」
わたしがそう訊ねると、日暮先輩の表情は瞬く間に固く重いものに戻った。
「……いいや。断じてそうとは言えない、かな。良かったのは最初の一年目だけ。あの時は先輩達のおかげもあって、活気があった。レクリエーションの時に見ただろう? あのアニメは二個上の先輩達が卒業間近に作った最後の作品なんだ。――けど、当時の三年生が引退した以降は全然。力不足を痛感したよ」
日暮先輩はそう言った後、言葉を続けなかった。
どうやら制作部と作画部には、何かしらの確執があったようだ。
「話が逸れたけど、僕が説明できるのはこれくらいかな」
「ありがとうございます。貴重な意見を頂けました」
「そうかい? 絶望の谷に突き落としただけのように思うけれど」
「……そうですね。今の気分はまさに谷底まで落ちていったみたいです」
わたしが望んでいることは、日芽香が学校に復帰してくれること。
そのために『ネマコン部』の活動継続が必須となる。
廃部の条件はすでに日暮先輩から聞いた。
部員が五名未満になり、一か月間の活動がなされてない場合。もしくは不祥事等で即時廃部が判断される場合。
今回の事件を踏まえて、後者が採用になったらその時点でゲームオーバーだ。
けれど、もしも後者が適応されず、前者の流れで廃部を進めていくとしたら。
「…………」
――ああ、嫌だ。
本当に億劫になる。
ずっと、アニメから離れたいと思っていた。
アニメを見ることもやめて、SNSも見なくなった。アニメというものからできるだけ距離を置きたくて、日芽香の誘いを何度も断った。
……もう、あんな目に遭うのは嫌だ。
アニメに関わるのはもうやめる、そう誓ったはずだったのに。
でも。
それでも。
わたしが目を閉じると、日芽香の姿が蘇ってくる。
真っ暗な部屋の隅でうずくまっている。
グズって、苦しそうに嗚咽を漏らして。
わたしは、自分の腕をぐっと掴んだ。
気の迷いなんてものは、今日に始まった事じゃない。
だから。
わたしは決断する。
なぜだろう。あれだけ嫌だったのに。
あれだけ遠ざけていたのに。
わたしは結局、ここにいる。
まるで呪われたみたいに、アニメにとり憑かれている。
逃げても逃げても付きまとってくる。
あの女の瞳が、わたしを捉えて離さない。
それでも、わたしは決断する。
そのきっかけは、たぶん彼女だ。
瑠々川鈴々に、手を差し伸べた時。
わたしは少しだけ救われていた。
日芽香とのけんかでモヤモヤしていた感情を払拭してくれたみたいに。
誰かのために生きていれば、いつかわたしを救ってくれる人がいるのではないか。
そんな幻想にすがりついて。
わたしの呪いを解き放ってほしくて。
わたしの醜い心を、肯定してくれるのではないかと、願って。
――いや、それよりも。
やはり、わたしの中にある欲求が囁くのだ。
好奇心の皮をかぶった化け物が、蠢くのだ。
だから、わたしは決断する。
日芽香と、
あいつと一緒に、
あんなどうしようもない親友と一緒に、
アニメをつくることを。
あいつのために、
もう一度だけ、
アニメを作る、チャンスが欲しいと――。
わたしは心の底から祈った。
そして、囁いたのは、やっぱり悪魔だった。
わたしは、決断した。
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