第1話 わたしと日芽香
「だからねっ! 昨夜の『魔女っ子まじょりてぃ☆サンドイッチマインマイン!』でね、どっかーんと派手な七色の爆発をまき散らしてね! クレジット見たら
月曜日の朝。――六時三十二分。
本来であれば、優雅な目覚めとともに、ママが淹れてくれる一杯のコーヒーを嗜みながら、リビングであれこれと家族団欒――ただしママとわたしだけの――を満喫したのち、晴れやかな入学式である今日の始まりを迎えるはずが。はずが!
想定されうる中で最も気分の悪い目覚めによって朝を迎えたわたしを、どうか哀れんでほしい。記念すべきピカピカの高校生活初日を土足で踏み荒らすのは、昨夜に放送された大きなお友達向けの魔法少女系アニメの第十三話と、その感想をはきはきと捲し立てている幼馴染のはしゃいだ声。きぃんきぃん、と頭に響いて、一層癇に障る。
「おはよ、アンちゃん! 一緒に見ようよ! 神作画回だよ!」
「……るさぁぃ」
「もう、意固地になってないで! ほらほら、今の変身バンク! 総作監が直々に原画を書き起こした名シーンだよ! このうなじから背中のラインまでの少女の裸体が織りなす曲線美はフェチズムの塊だね!」
「……ひめ」
「うん、なに!?」
「静かに寝かせてほしい」
「えへへ、無理! はーい、起っき起っきー!」
この女、
幼少の頃からの付き合いで、家が隣、母親同士も仲が良く、普段から家族ぐるみの付き合いが多い、いわば腐れ縁だ。こいつは朝の低血圧にやられているわたしの真横で、リテイク内容を精査する演出家の如くテレビにかじりついては、器用に胸の下で携帯を弄って、「これ見て!」と、その作業担当者のSNSをわざわざ見せつけてくれた。そこには今まさにテレビの前で繰り広げられている〝魔法少女マリマリー〟と敵の〝グルグルポンポン大魔王〟の戦闘シーンの原画が複数枚と、その原画を組み合わせた動画――いわゆる線撮動画と呼ばれるもの――が添付されていた。
「この線撮だけでもレイアウトの段階から動きが良いのがよくわかるよね! うまい原画は影付けから違うんだよ! ――もう、アンちゃん起きて! いつまで寝てるの! ほら、グルグルポンポンが倒されるシーンだよ! 爆発作画がすっごいきれいなんだから! 先んじて放たれる刃のように鋭く素早い発光と爆圧や爆轟波、後に続く鈍重な煙の膨らみ、この相対する二つの流速の差がケレン味を作り出していて、さらには爆発初動のきれいな白煙をあっという間に塗り替え膨張する黒煙の塊、この白黒二色に加え、差し色の如き火炎の鮮やかさが織りなすコントラストの気持ちよさ、これらすべてを兼ね備えてこそ爆発作画の醍醐味だとあたしは思うの!」
舌を噛みそうなほどの講釈をよどみなくすらすらと語り上げる日芽香。
知能レベルが小学生程度のこいつのくせにボキャブラリー豊富な語彙力を有するのは、彼女の師の教えらしい。自己における感性の言語化はアニメーターに必須なスキルである、などと教え込まれた日芽香は感想をきちんと言葉にする訓練を繰り返し、結果、アニメに関する話においてのみ、妙な国語力を発揮する。これが原因で、いちいち長ったらしい説明を聞かされる羽目になっているのは主にわたしであり、迷惑千万、遺憾である。
「ほんとはこういうの、投稿しちゃいけないんじゃないの。原稿の権利はプロダクションが持っているはずだし。……ふぁああ」
朝の寒さに身震いしつつ、わたしは亀のように布団の中から少しだけ顔を出した。もごもごと喋っていると、ついついあくびが混じる。本当ならこの状況に対する文句の一つでも付け加えたいところだが、どうせ右から左へと聞いちゃくれない。とりあえず満足するまで適当に会話を続けて、乱れた自律神経が整うまで時間を稼ぎ、その後一発で仕留めてやる。
「その辺り緩いのが日本のアニメ業界のいいところなんじゃん! コミケで作監修正資料集とか普通に売ってるし。それにアニメ業界なんてアニメーターと契約書の一枚も交わしてないところも多いし。なら著作権もへったくれもないじゃん」
「それでも訴えられたら負けるでしょ」
「アンちゃんはいちいち細かいのっ」
バシンと、強く布団を叩かれた。相変わらず力の加減を知らないバカ力め。……失礼、訂正、バカ乳女め。
わたしはもぞもぞと布団の中に顔をうずめて、部屋にあるテレビを見遣った。わたしの所有物であるはずのテレビには目に入れたくもないアニメがひたすらに流れていて、何度も見ているはずであろう日芽香は、まるで子供のように目をルンルンと輝かせては、作画のいいシーンが映るたびにケツを左右に揺らして喜んでいた。
「……ヒメ」
「なあに」
「パンツ見えるよ」
「大丈夫だもん、履いてないから」
けろっ、と言う日芽香。
嘘だろ、と身を乗り出して覗き込むと、色気の皆無な無地のパンツが見えた。
……嘘じゃん。
「話は変わるけど、アンちゃん」
さきほどまで馬鹿みたいにはしゃいでいだのに、突然真面目な顔つきで振り返る日芽香。まあ、こいつの真面目な顔というのも、割と間抜け面なのだけど。なんて悪口を心の中でぼやいていると、顔をがしっと掴まれた。――まさかこいつ、心を!? なんて馬鹿やっているテンションはなく、そのまま布団ごと、ぐぐいっと頭を引っ張り出され、奴の豊満な胸にぶつかった。
「今日の予定、覚えているよね」
「今日は高校の入学式。晴れやかな我々の人生の門出ぇ――むぐっ」
日芽香の両手でほっぺたを潰される。
「違う」
違うことはないのだけれど。
「今日、一緒にネマコン部に行くよっ! 行って入部届けを出す! 約束、覚えてるよね!?」
ネマコン――正式名称は〝熱血漫画根性部〟。
今日から通う高校にある部活だ。部名を言葉のまま受け取るならば『漫画』を『研究』したり『描いたり』する、そんな『部』を連想するが、その実情はアニメを作っている超本格派集団である。かなり歴史の長い部活動で、しばしばアニメ界の甲子園とも揶揄されている〝全国アニメーションフェス〟通称〝アニ祭〟で入賞しており、日芽香はその活動にいたく感動して、
「あたし、絶対にこの部活に入るっ!」
と、本来の知能レベルでは到底受からないだろう、都立吉祥寺
苛烈高校の偏差値はさほど高くない。中学三年の春から塾に通って普通に受験勉強に勤しんでいれば、受かることにさほど困難は強いられないレベルだ。ただし不肖の幼馴染こと日芽香は勉強が大嫌いで、やることと言ったら毎日画を描いて描いて描きまくる日々。大抵はわたしの部屋の机を占領して、夜になると自室に戻って、朝まで飽きもせず画を描き続けている。そんな〝画描きバカ〟故に、普通に勉強していてはまるで間に合わないバカ具合であった。
「ネマコンに入るためにと乗り越えてきたあの苦痛の日々……。ペンを握る理由が勉強をするためだなんて、なんたる屈辱だったことか! 嗚呼、勉強なんて二度としたくないっ!」
「今日からより高等な勉強するために、その高校に通うんだけれど」
「聞こえない!」
聞こえてんじゃないのさ。
「まあ好きにしてもらっていいけど。ただし、わたしはネマコン部、入らないからね」
「んなぁ!?」
わたしがそう言うと、日芽香が食い気味で詰め寄った。長い髪の毛が一斉に顔に降りかかる。ああ、ウザったい。
その距離は吐息がかかるほど――、瞳の虹彩がありありと見えるほど近かった。あどけない顔立ちに大きく見開いた茶色の瞳、受験中に切っていなかったせいで腰ほどまで伸びたウェーブがかった癖っ毛、身長はわたしよりも随分と高く、胸も大きく、幼少の頃とは比べ物にならないほど男を唸らせる体型をしている、そんな幼馴染が視界全てを遮っている。
「約束と違う! 高校入学できたら、おんなじ部活に入ってくれるって!」
「だって、そうでも言わないと勉強しなかったじゃない。ヒメは」
「うー、あー! 嘘だ嘘だー! 最近はめっきり否定しなくなってたから、てっきりアンちゃんも改心したものかと思ってたのに!」
「改心ってなんだよ。毎回同じ言葉を繰り返すのが面倒になっただけよ」
アニメキャラだったら髪を逆立てそうなほどに不満たっぷりの表情でわたしを睨む日芽香。段々と喧しい顔面が迫ってきている。闘牛のような荒い鼻息がきもい。
わたしはぐいっとムカつく面を押しのけた。しかし、日芽香は「うぎぎ……!」と抵抗して、さらに身体を寄せてきた。
「くっ! そもそもわたしは最初から言ってたでしょ! 暇を持て余している適当な文化部にでも入って、今度こそ平和な青春を謳歌するつもりだって! 土日は休めて、友達と有意義な休日を楽しめる平穏な日々を送るの!」
「だめ!」
「だめってなによ!」
「だめったらだめなの!」
「なんでよ、わたしの勝手でしょ!」
「だめ! 絶対だめ! アンちゃんはネマコンに決定なの!」
「あー、もう、うるせーうるせー! わたしの好きにさせろー! わたしだって受験頑張ったんだから、好きな部活に入って、自由な学園生活を送ったっていいでしょうが!」
気付いたらわたしは日芽香を突き飛ばして、ベッドの上に立っていた。黒いTシャツに下着一丁。我ながら随分ズボラな格好だとは思うが、腐れ縁のこいつ相手に恥ずかしさなど皆無だ。低血圧で痛かった頭もアドレナリンで麻痺していた。
「それに、例の〝噂〟。あんたも覚えてるでしょ」
仁王立ちして、ぴしゃりと言い放つ。すると、勇猛果敢に唾を飛ばしてた日芽香が僅かに怯んだ。
「アニ祭以来の駄作。今のネマコン部は最悪の世代だって」
「……そんなの、ただの噂だもん」
受験が終わり、入学までひと月もない間、SNSでほんのりと盛り上がったトピックスがあった。それがネマコン部が公開したアニメの出来が、驚くほど悪い、ということだ。今年の冬、まさに数週間前にネマコン部はアニ祭の応募に合わせて、新作アニメーションを公開した。しかしその内容は散々たるもので、作画は緩く、ストーリーも陳腐で、色パカにセルバレまで混じるほどだった。これが一部の界隈で切り抜かれ、悪意のある拡散がされていたりと、狭い界隈で話題になったのである。
「たまたま出来が悪かっただけだもん! 有名な監督だって時々駄作を連発するでしょ! ほらあの、原作をそのままアニメする仕事に飽き飽きしたとか言って、勝手に自分好みに改変させて原作ファンを激怒させた、m」
「言うな!」
「それと一緒だよ!」
「……一緒かなぁ」
「それに今年はあたしも入るし、アンちゃんも入るから、大丈夫だもん!」
「あんたはともかく、わたしが入ったって変わんないわよ」
「変わるの! 絶対に!」
ボサボサ髪の日芽香が、恨めしそうに真下からわたしを見上げて言う。その顔が妙にむかついたので顔面に素足を押し付けてやった。日芽香は意固地に対抗して、足を払いのけることなく、顔面を突き出して押し返してきた。
「ぐっ! なんであんたにそんなことが断言できるのよ……!」
「わかるもん!」
「だからなんで、」
「分かるったら分かるもん! がおぉっ!」
「わっ、なにをする!」
口喧嘩に負けた、というよりも勝負する気すらない日芽香が、腹いせにとわたしのシャツをめくって腹に噛みついてきた。勢い余って、わたしの後頭部が壁と朝の挨拶をかます。
まじだ、この女! 本気で歯型つけてきてやがる!
「がるるる!」
「わかった! わかったからいったん離れろ!」
「わかった!?」
「わかった!」
「ネマコン入る!?」
「…………はいらな」
「がおぉぉ!」
「ぎゃー! やめて、やめなさい! やめてください! 見学には! 見学には一緒に行ってあげるから!」
「ぎゃおおおす!」
「お腹の肉がとれる! 猟奇的なダイエットは求めてないから!」
「聞き分けの悪いアンちゃんは嫌い!」
「聞き分けの悪いのはどっちだ!」
「アンちゃん」
「お前だッ!!」
ゴリっと頭部をぶん殴る。「ぎゃ」と日芽香がようやく牙をしまって、自分の頭部を押さえた。
わたしはその隙に立ち上がり、日芽香の馬鹿で間抜けな広い額に指を突きつけ、グリグリと押し込んだ。
「いい!? そもそもわたしはアニメなんて大嫌いなの! 見たくもないし関わりたくもない! 日芽香に付き合ってやっているだけ! いつもそう言ってるでしょ!」
「でも、でも! そうしたら今後わたしは誰と帰ればいいの? 誰がお世話してくれるの?」
「ひとりで帰れ! 自分のことは自分でやれ!」
「もう、わがまま言わないで一緒にネマコン部に入ろ?」
「このっ――」
嗚呼、本当に最悪な朝だこと。
「我儘はオマエじゃ―――――ッ!!!!」
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