第19話

「ほら、どうぞ上がってください。すぐにお風呂を入れますから」

 そんな風に言いながら、紬がマンションのドアを開いて、結喜を招き入れようとした。

「お、お邪魔します……」

 おどおどしながらドアを潜る結喜。そんな彼女に紬が笑みを返す。

「遠慮しないでいいですよ。汚してしまっても構いませんので」

「あ、は、はい」

 そういって玄関から上がろうとする結喜を迎えてから、紬は廊下の奥に入っていった。

 百円ショップで結喜に水をかけてしまった紬。水をかけたことを謝罪した後、近くに自分の家があるから、そこでお風呂に入ることと、濡れた服を洗濯することを申し出た。

 結喜は車で来ているので大丈夫だと固辞しようとしたのだが、、紬はどうしてもと譲らなかった。

 ちなみに、結喜が紬の申し出を固辞したのは遠慮したからというわけではない。人見知りの結喜にとって他人の家にお邪魔するというのは、かなりストレスを伴うことだったからだ。

 しかし、すっかり濡れてしまった結喜の身体は冷えてしまい、風邪を引いてしまうかもしれなかった。結喜は仕方なく、紬の申し出を受けることにしたのだ。



 そうして紬の家に上がろうとする結喜だが、やはり玄関を潜るだけでも緊張してしまう。

 好きな人の家に上がるといった、そんなステキアオハルな理由ではない。単純に他人のパーソナルスペースに入るということに警戒しているだけであった。

 上がりたくないなあ……。ここまで来てそんなことを考える結喜。彼女にとって他人の家は完全アウエーであり、心休まることなど絶対ないのだ。

 今からでも帰ることができないか。そんな算段を考えていると、奥から紬が戻ってきた。

「今お風呂を入れ始めましたから、とりあえずこっちで着替えてください」

「ちょ、ちょっと待って」

 紬が結喜の手を引っ張っていく。結喜が連れて行かれたのは脱衣所だった。

「どうぞ。すいませんがお風呂が入るまではこっちに着替えてください。終わったら奥の部屋まで来てください。それでは」

 そう言って紬はドアを閉めて奥に引っ込んだ。紬が差し出したのは綺麗なジャージだった。とりあえずこれに着替えろということだったが、結喜はどうしようか悩んだ。

 別にジャージが嫌ということはなかった。ただ人様の家で着替えるというのも、どうしても結喜には抵抗があった。人見知りというのは、どうしたって面倒であり、自分でもそれは自覚しているのだ。

 だが、ここまで来て逃げられるわけがなかった。結喜は意を決して服を着替えるのだった。

 ジャージに着替えた結喜は、紬がいる部屋までやって来た。

「あ、終わりました? サイズとかは大丈夫ですか?」

「あ、はい。大丈夫です。ちょっと大きいけど、問題ないです」

 おそらく紬が着ているであろうジャージは、結喜の身体にはサイズが大きかった。しかもいい匂いもするので、それもある意味結喜を困らせるのだった。

「濡れた服は洗濯機にかけてきますので、ちょっとここで待っていてください」

「あ、はい。わかりまし……」

 紬が脱衣所に向かおうとする中、結喜がある物を見つけた。

「……ギター?」

 部屋の片隅には、何本かのギターが置かれていた。黒いものや真っ赤なものなど、いろんなデザインのギターが置かれていた。

 音楽に詳しくない結喜は、当然ギターについての知識は皆無だ。目の前に置かれているものが、どんなデザインのものかなんて、全くわからなかった。

 だが、それでも彼女にもわかることがある。目の前のギターは、とてつもなくかっこいいということだ。

 しばらくギターを眺める結喜。何かに引き寄せられるように見ていると、紬が部屋に戻ってきた。

「海さん。今洗濯機回しました。それとお風呂もできたので、入ってもらって大丈夫ですから」

「あ……はい。わかりました」

 そう言ってお風呂に向かおうと部屋を出る結喜。出ようとする直前、結喜は一瞬だけ、部屋に置かれているギターに視線を向けるのだった。



「お風呂……上がりました。ありがとうございます」

 お風呂から戻って来た結喜。ホッコリと温まった顔の結喜を見て、紬が笑みを返した。

「あ、熱くなかったですか? 服はまだ乾燥機にかけてる途中なんで、もう少し待っていてください。とりあえずそちらに座ってください」

 紬が机にある座席に座るよう促してくる。結喜もそれに従うようにちょこんと座った。

 その時、結喜は部屋に置かれているギターにもう一度顔を向けた。見れば見るほど、やはりかっこいいと感じていた。

「海さん、コーヒーでいいですか?」

「あ……はい。ありがとうございます」

 紬が二人分のコーヒーを机に置く。お互い向かい合う形でコーヒーを呑む二人。すると、紬から声をかけてきた。

「今日は本当にすいません。気を付けていたんですけど、予想以上に水がはねてしまって。スマホとか大丈夫ですか?」

「あ、大丈夫です。買った商品も特に濡れていなかったので」

「そっか。それならよかったです」

 そう言ってホッと笑う紬。それからしばしの間、黙ってコーヒーを飲む二人。

 その時、どうしてもギターのことが気になる結喜は質問を投げかけた。

「あの、そこにあるのって、ギターですよね?」

「ええ。そうですよ。言ってませんでしたっけ? 私、バンドでギターをやってるんですよ」

 なんでもないことのように答える紬だが、結喜はその答えに驚きを隠せなかった。

「バンド……ですか?」

「はい。高校の頃からやっていて、今も地元の友人たちとバンド活動をしているんですよ。この前の飲み会に行かなかったのも、その日はライブがあって行けなかったんですよ」

 そんなことを話してくれる紬。そういえばあの日の飲み会に紬の姿はなかったはずだ。ライブと重なったというのであれば、飲み会にいなかったのも納得できた。

 その時、紬がギターを一本手に取った。彼女が弦を弾くと、鋭い音色が響いた。

「このギター、初めて自分で買ったギターなんです。バイトをして、お金を貯めて、それで初めて楽器屋に行って自分で選んだんです。当時、自分が好きなアーティストが使っていたのと同じデザインで、一目惚れしちゃったんですよ。ギターの仕様とかクセとかはよくわからなかったけど、手に入った時は本当に嬉しかったのを覚えてます」

 うっとりした顔で語る紬。それはいつも見せる無邪気な顔ではなく、感慨深い、大人びた深い笑みだった。初めて見る紬の微笑みに結喜はドキッとしてしまった。結喜はそれを誤魔化すように質問を重ねた。

「こ、高校生の時に始めたんですよね? 何かきっかけがあったんですか?」

 そんな結喜の問いかけに紬の口が静かに開いた。

「そうですね……私って、高校生までは部活も趣味も何もなくて、毎日何もやることもなくて、適当に過ごしていたんです。家にいてもテレビを見るくらいしかないし、放課後には友達と遊びに行くだけで、何もすることがなかったんです。でも、ある日学校でバンド活動をしている先輩の練習を見つけてしまったんです」

 そう語る紬の顔は、特別な宝物を見るような、綺麗な目をしていた。おそらく、その時のことを思い出しているのだろう。宝箱のように輝く、その時の思い出を。

「その時、先輩がギターを演奏するのを見て、そこから目を離すことができなくなったんです。まるで自分の中で何かが熱くなるような感覚になって、その感覚を抑えることができず、もう暴れ出しそうになるほどに強くなって。その瞬間に思ったんです。私もギターをやりたいって」

 熱く語るその顔を、結喜はじっと見つめていた。そこからはもう、紬の話を聞き流すことができなくなっていた。

「そうして私はその場で、先輩にギターを教えてほしいって言い出したんです。先輩たちも特に反対もせず、私のお願いを聞いてくれました。ギターを持っていない私にお古のギターを貸してくれて。練習で指が痛くなった時はケアをしてくれたし。自分で買うためにバイトしようと思ったらバイトを紹介してくれたりして。そうして少しずつ練習して、弾けるようになっていったんです」

 紬の話をじっと聞く結喜。懐かしそうに語る紬を見て、彼女がどれほどギターが好きになったかが、結喜は思い知らされていた。

 ギターの練習なんて、普通なら長続きできるものではない。弾けるようになるまでに大変な努力がいるし、練習で指の皮がぱっくり割れることだってある。すぐに飽きてしまったとしても、投げ出してしまっても仕方ないと思う。

 でも、紬は先輩に教えてもらって、練習で指が痛くなってもやめることはなく、自分でバイトをして自分のギターを買って、そうしてますますギターが好きになって、どんどん上達していったのだ。

「そうして練習してたら、ある日先輩に言われたんです。今度のライブで、一緒に演奏してみないかって」

 先輩から出てきた誘いの言葉。きっと紬にとって、心臓を射抜くような言葉だっただろう。

「確かに最初の頃より上達してたし、ある程度弾けるようにはなってました。だけど、先輩たちに混じってライブで演奏するなんて、正直とても怖かったです。自分にできるとは思えませんでした」

 それが普通だろう。練習を始めて少ししか経っていないのに、先輩に混じって演奏するなんて、普通なら怖いはずだ。

 だけど、それ以上に紬の中にはもっと大きな気持ちが膨れ上がっていた。

「でも、怖いって思う以上に、先輩たちとライブに出たいっていう気持ちの方が強くなっていました。だから私は、先輩たちとライブに出ることにしました」

「……それで、上手くできました?」

 静かに問いかける結喜。その問いに紬は苦笑いを浮かべた。

「正直、失敗したって思いました。初めてのライブで緊張したし、身体が思うように動かなかったし、上手く弾けていたかどうか、本当によくわからなかったです。正直、胃酸がこみ上げてきそうでした」

 失敗談を語るように、恥ずかしそうな顔をする紬。だけど、そこまで言い終えてから、彼女は楽しそうに笑みを零した。

「だけど演奏が終わった瞬間、お客さんから拍手をもらったんです。その時のライブは小さなイベントの一部だったから、お客さんも多くはなかったです。でも、自分の下手な演奏を聞いてもらって、拍手をもらえた時、達成感というか燃え尽きたというか、初めての感覚に身体が震えました。まるで、自分がロックスターになれたような、そんなよくわからない気持ちになれて、それでもっと上手くなりたいって思えるようになったんです」

 ライブに出たその日は、紬の中で特別な一日となったのだろう。思い出を語るその顔はずっと輝いていて、結喜にはまるで、彼女が本当のロックスターのように見えていた。

「それから私はずっとギターを続けて、大学で今のバンド仲間に出会って一緒にやるようになって、そうして今もバンドを続けてるんです。この子は私をスターにしてくれた、大切な親友なんです」

 そう言って、紬はその手に握られたギターを愛おしそうに見つめた。彼女の指が軽く弦を弾くと、心地良い音色が部屋に響いた。

「そういえば、この前はすいませんでした」

 そんなことをしていると、いきなり紬が謝ってきた。突然のことに何のことかわからず、結喜はキョトンとしてしまった。

「え……? えっと、何が?」

「ほら、この前海鳥さんに、ドライブに連れて行ってほしいって言ったじゃないですか。困らせちゃったなーって思って」

 苦笑いを浮かべながら紬が謝ってくる。一体どうしたのだろうと結喜が考えていると、紬がさらに話してくれた。

「あの後、宮島さんに言われたんです。海鳥さん、一人でいるのが好きだから、私が誘ってくるのを悩んでいるって。あまり無理言わないで上げてねって言われちゃいました」

 宮島の顔を思い浮かべる結喜。結喜のことよく知る宮島は彼女を心配して、やんわりと紬に伝えてくれたのだろう。

「だから、ごめんなさい。悩ませてしまったみたいで」

「あ、いや。自分こそ、気を使わせちゃって、すいません……」

 小さな声で呟くように話す結喜。そんな彼女を見て、紬はにっこりと笑った。

「……あの、どうして私と一緒に行きたいんですか?」

 にっこりと笑う紬に、結喜はそんな疑問を投げかけた。自分と一緒でなくても、ドライブなど一人で行けるはずだ。それなのに自分と一緒に行きたいという。何か理由があるのか、気になる結喜はその疑問を口にした。

 その問いかけをどう受け取ったのか、紬はただ微笑みながら答えてくれた。

「前にも言いましたけど、私って佐世保のことはあまり知らないんです。だから見て回りたいってのもありますけど、やっぱり海鳥さんの写真がきっかけですね」

「写真って、フォットネットの?」

 前に紬は言っていた。フォットネットに投稿されていた結喜の写真を見たと。その写真のことを思い出したのか、紬はさらに笑いかけてきた。

「あんな綺麗な写真を撮る人には、世界はどんな風に映っているのかな、とか。私にもその世界を見ることができるのかな、とか。そう思ったら、すぐに海鳥さんのところに行きました。自分も、海鳥さんが見る世界を一緒に見たいと思って」

 茜がもう一度ギターに触れた。

「私、ギターを始めた時に知ってしまったんです。世界にはすごいものがたくさんあるのに、私はそれに気付けないでいる。少し手を伸ばすだけでいいのに、それを知らないままでいる。そんなのは嫌だから、何か素敵なものを見つけたら、すぐに手を伸ばそうって思うようになったんです。海鳥さんのドライブに連れて行ってほしいのも、それが理由です」

 そう語る紬の言葉に、結喜も内心頷いていた。元々結喜がドライブを始めたのも、かるドラがきっかけだった。かるドラは結喜に旅の面白さを教えてくれた。そして、それはすぐそばにあることも教えてくれた。

 紬にとってそれは、その手に握られているギターが教えてくれたもので、ギターが彼女を世界に連れ出してくれたのだ。

 そう思うと、それまで抱いていた紬の印象が結喜の中で変わっていく。まるで彼女は、自分と同じなのだと。

 結喜そんな風に考えていると、紬がもう一度頭を下げた。

「でも、結局それは私のわがままだし、付き合わせたら悪いし。あの話は忘れてください」

 そう言って笑みを浮かべて謝罪する紬。

 その姿をじっと見つめる結喜。

 結喜は初めてドライブ行った日のことを思い起こす。烏帽子岳に行った日。世知原を走った日。自分で車を走らせて、目の前に広がる光景を写真に撮って、その場所に立って。

 その時、結喜は自分が物語の主人公になった気がした。かるドラに出てくる少女たちのように、自分も同じ物語を生きているように思えた。

 紬も同じだ。初めて手にしたギターでライブに出た日、彼女は自分がロックスターになった気がして、その楽しさを覚えてしまった。彼女もまた、何かの物語を生きている。

 そんな彼女が、自分と一緒にドライブに行きたいという。私と同じ世界を見に行きたいという。

 そこまで考え着いたところで、結喜の心は決まった。自分の中にある小さな悩みは、それで消え去っていた。

「あの……!」

 結喜が声を上げる。いきなりのことに驚く紬に、結喜は声を振り絞った。

「来週なんですけど……晴れる日があるんです。少しの間だけど、晴天に恵まれるって」

 結喜が何を言いたいのか、紬は意図を測りかねていた。その彼女に結喜はさらに声を振り絞った。

「その日は休日で、鹿町の方にドライブに行こうって考えているんです………だから」

 結喜が顔を上げる。目の前の紬を見つめて、真っ直ぐに言葉を投げかけた。

「よかったら、一緒に行きませんか……?」

 結喜にとってそれは、とても勇気のいることだった。今まで誰かと一緒にいること。誰かが横に並ぶことを怖がっていた彼女が誰かを誘うなんて、彼女を知る人ならびっくりすることだ。

 でも、どうしても紬を誘わないといけない気がした。そうしないと、絶対後悔すると思ったから。

 そんな結喜の言葉を聞いた紬はしばし呆けていた。それから少しずつ言葉を理解すると、彼女は満面の笑みになって詰め寄ってきた。

「本当に! いいんですか!」

「えっと、その、時間があればですけど。もしよかったら」

「大丈夫です! 私のデスク、有給が取りやすいですし、休みを合わせますから!」

 そう言って、紬が結喜の手を握った。ギターで鍛えられた指の熱さが結喜に伝わってくる。その時、紬は本当に嬉しそうに笑った。

「よろしくお願いします!」



 それから結喜と紬は、ドライブに向けて準備を始めた。いつ行こうか。どんな日程で行こうか。地図を見ながらどこに寄ろうかなど、二人であれこれ話し合った。昼休みにも二人で話し合うなど、少しずつ話を進めて行った。そんな二人の姿を偶然見つけた宮島は、その様子をにっこりと笑って見つめるだった。


 そうして、物語が始まる日を迎えた

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