第17話
「………………」
そこには疲れ切った結喜の姿があった。もはや彼女は椅子に座るだけのオブジェになっており、パソコンを前に呼吸するだけの有機物になっていた。周りもそんな状態の彼女を注意することもできず、遠巻きに眺めるしかできなかった。
「海さん海さん。大丈夫?」
そんな彼女に宮島だけが声をかけてくれた。その声に結喜の意識が引き揚げられた。
「……あ、すいません。今私、何してました?」
「そろそろ心が死にそうになっていたよ。自分の名前言える? 何歳?」
救急現場で使う質問を投げかけられて、自分がどんな顔をしていたかを思い知る結喜。そんな彼女に宮島が苦笑いを向けてくる。
「なかなか大変みたいだね。蛯沢さんの相手は」
そんな風に同情するような笑みを浮かべる宮島。そんな宮島に結喜が顔を向けた。
「今日で四日目、四日連続ですよ。蛯沢さんが私を連れ出したのは」
僅かに怒りを滲ませた声を出す結喜。声を張り上げそうになるのを彼女は必死で抑えていた。
紬が結喜を昼ごはんに連れ出した翌日。いつものように仕事をしていた結喜の下に、またしても紬が昼ごはんのお誘いにやって来たのだ。
まさか二日連続でお誘いに来るとは思っていなかった結喜は戸惑うしかなかった。今日は一人でゆっくりするつもりだったので、紬の誘いは正直イレギュラーなことでしかなく、心臓に悪い驚きでさえあった。
とは言えここでお誘いを断るのも気が引ける結喜は、宮島に許可をもらって一緒にお昼ご飯に行くのだった。
そして、そんな紬と一緒に過ごす昼休憩が四日連続で続いた。それは結喜にとっては疲れる以外の何物でもなかった。
それが四日も続いたことが、彼女から生命の息吹を奪い取ることになっていた。
人見知りである彼女が、ほぼ初対面である紬と食事を共にするのは、心が疲弊してしまう出来事だ。
そんな時間がこの日まで四日間続いたのだ。グイグイ来る紬を前に、結喜は自分が何を話していたのか忘れていた。もはや紬の言葉に返事をするだけのおもちゃになっているような状態だった。
そうでもしなければ、結喜の中で何かが壊れていたかもしれなかった。
そうして結喜は、パソコンの前で呼吸する屍になっていた。その結喜の姿に宮島が慰めるように微笑みかけてくれた。
「その様子だと大変だったみたいだねえ。やっぱり蛯沢さんみたいなタイプは、海さんには大変だったかな?」
結喜の性質をよく知る宮島は、少し楽しそうでさえあった。
「まあ、やっぱり苦手ですね。あそこまでグイグイ来られるのは、あまり好きではないですし。ああいう若い人特有のテンションの高さは、自分にはきついですね」
「海さん海さん。君も若いっていうか、二人は同じ歳だからね」
そんなツッコミを入れて笑い出す宮島。
「でも、いい子でしょ? 少なくとも悪い子ではないと思うけど。海さんは嫌いかな?」
「いえ……嫌いとかそういうのはないですけど」
とはいえ宮島の言う通り、確かに紬が悪い人間ということはなかった。テンションが高く押しが強いだけで、問題行為を起こしているわけではないのだ。
むしろ礼儀正しいしよく笑うし。魅力的な人間だとは思っていた。
「あの人……蛯沢さんはいつもあんな感じなんですか?」
「そうだねえ……他のデスクで働いているんだけど、いろんな所に顔を出してるから、みんなとは仲良くやっているよ。あの見た目だから他の女の子たちの間でも人気だしね」
なんとなく結喜にもそれはわかる。見た目にも美人だし、Tシャツにジーパンという簡単な装いだが、それが逆に似合っているし。それに女性にしては身長も高かった。
美人ではあるがそれ以上にカッコいいという方が似合う顔立ちは、確かに女の子からモテるに違いなかった。
その話を聞いてしまうと、結喜の中でさらに疑問が強くなっていった。
「それはなんとなくわかりますけど、そんな人がどうして私に構うんですかね?」
この日まで四日間。紬は毎日、は結喜のところまでやって来て、お昼ご飯に連れ出していた。彼女なら一緒に過ごす相手には困らないと思うのだが、わざわざ自分を誘いに来るのが理解できなかった。
そんな結喜の疑問に宮島が考え込む素振りを見せた。
「んー……それって、もしかしたら恋、かな?」
「……はい?」
意地悪っぽく笑う宮島の呟きに思わず結喜は口をあんぐり開けてしまう。そんな彼女の反応に宮島が大笑いした。
「あはは。ごめんごめん。海さんには悪いけど、最近の海さんを見てると楽しくて。へどろおどろになっている海さん、見ていて面白いからさ」
「へどろ……」
変な言い間違いをされて閉口してしまう結喜。まさかへどろと言われるとは思わなかった。
「もしかして、しどろもどろって言いたいんですか? まあ確かにしどろもどろでしたけど」
「ん? ああ違う違う。『へどろ』みたいにどろって溶けているなーって」
「言い間違いじゃない!?」
言い間違いではなかったことに衝撃を受ける結喜。
「いやー。海さんに疲れてドロって溶けていたから、『へどろ汚泥』になってるなーって思って」
「待ってください! その言い方だと汚い泥って言ってませんか!?」
「そんなまさかふふふ。あるわけないじゃんくふふふふ」
「絶対思ってますよね! その笑い方!」
まさかのドロ扱いされるという珍事に思わず声を上げる結喜。その様子に宮島はさらに笑い声を上げた。
「あっはっは。ごめんごめん。だけど、やっぱり蛯沢さんは海さんのことがを好きだと思うよ。蛯沢さんがあんなに熱心になるのって、気に入った子だけだから」
「そんなもんですかねえ……」
結喜はそれだけ呟いた。気に入られるのは悪いことではないし、結喜も喜ぶべきことだとは思った。だけど、紬みたいにグイグイ来られるのは勘弁してほしかった。結喜が大きくため息を吐いた。
「悪いことでもないし、それに明日からおやすみでしょ? 今日までの我慢だと思えばいいと思うよ」
そんな風に慰めをくれる宮島。そう、明日から休日なのだ。それなら紬からも解放されるのだ。
そのことを思い出し、結喜は僅かに力を取り戻すのだった。
終業時間を迎え、車に乗り込む結喜。疲れた身体を座席に滑り込ませ、その場でぐったりしてしまった。
「疲れた……」
これが仕事で疲れたというのならまだいいが、紬のことで疲れているというのは、あまり誉められたことではない。
自分のコミュ障に呆れ、思わず自己嫌悪に陥る結喜だった。
「……あ、そうだ」
その時、結喜があることを思い出した。彼女はスマホを取り出して画面を操作した。目的の画面を確認した彼女は、そこでにっこりと笑った。
「……よし。届いてる。もう受け取れるな」
そう呟くと、彼女はアクセルを踏んで車を発進させた。いつもよりテンションが高くなっている彼女は、無意識にスピードを上げてしまうのだった。
家の近くにあるコンビニに入ると、結喜は走りこむように店内に入り、そのままレジに向かった。
「すいません。これ、お願いします」
結喜の出したレシートを受け取ると、店員は手慣れた様子で店の奥から荷物を持ってきて、結喜の前に差し出した。
結喜はそれを受け取ると、店員の挨拶を背に受けながら車に戻り、中身を取り出した。
「おお……これかあ…………」
結喜がその手に握られたものを眺め、感動で震えていた。
それは彼女がハマっているアニメ『かるドラ』で流れているBGMのサントラだった。
結喜が取り出したCDをじっくりと眺めた。ジャケットイラストを眺めたり、収録曲のリストを眺めて、やっと手に入ったという喜びを実感した。
「はあ……やっぱりいいなあ」
結喜はそう呟くと、再び車を発進させた。
早く帰って音楽を聴きたい。喜びで暴れ出しそうな心を抑えながら、結喜は家路を急ぐのだった。
夕食を終えると、結喜は手に入れたCDをさっそく聞くことにした。プレイヤーにかけてCDを起動させる。プレイヤーから心躍る音楽が鳴り出した。
「あ……これって確か、最初の場面だったっけ」
流れ出す音楽を聴くと、結喜の中の記憶が刺激される。この音楽はあの場面のもの。この歌はあのシーンで流れたもの。まるで思い出を語り合うようにBGMに耳を傾けた。これまでずっとかるドラを見てきた結喜にとって、プレイヤーから流れる音楽は、とても心地良く耳に響いていた。
「はあ…………いいなあ」
うっとりと目を閉じる結喜。結喜はジャケットを手に取ると、中に書かれているスタッフたちのコメントを読み込んだ。
かるドラで使われているのは吹奏楽を使った音楽で、吹奏楽がこのアニメに一番似合っていると考えたとコメントには書かれていた。
「へえ……吹奏楽か」
確かにアニメと吹奏楽の音楽はよくマッチしていた。今もプレイヤーから流れる吹奏楽の響きは、どれも結喜の心に刻まれていた。跳ね上がるようなフルートの音色。静かに響くオーボエ。遠くまで響かせるようなトランペットの高音。
どれも結喜の耳を癒し、喜ばせ、感動させる。結喜の中で『音』が弾んでいた。
プレイヤーから吹奏楽の音楽が流れ続ける。その音にじっと耳を傾ける結喜。
「……カッコいいなあ」
ぼんやりとした顔でそんな風に呟く結喜。彼女は何かを考えこむように黙り込んだ。
それからずっと、彼女はプレイヤーから流れる音楽に心を委ね続けるのだった。
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