第16話
「海鳥 結喜さん、ですよね!?」
そんな風に問いかける女性を前に、結喜が戸惑いの顔を見せる。結喜が何も答えずにいると、相手はお構いなしに話しかけてきた。
「はじめまして! 私、蛯沢 紬(えびさわ つむぎ)って言います! 海鳥さんとお話がしたくて来ました!」
……待ってくれ。私の知り合いのこんなヤンキーはいないぞ。一体このヤンキーは誰だ。やばいやばいやばいやばい。怖い怖い怖い怖い。誰か助けてくれ。
結喜の中でホラー映画さながらの心情が渦巻いていた。そんな結喜に紬はさらに詰め寄るように語り掛けてくる。そんな紬に結喜は戸惑いしかなかった。
少し染められた長い髪。耳で光を放つピアス。結喜より背の高い身長。そして好奇心の強そうな輝く瞳。何もかもが結喜とは相容れない在り方であり、結喜にとっては恐怖でしかなかった。
……いや、別に言うほど紬がヤンキーというわけではなく、別にどこにでもいる普通の女子と大差はなかった。ただ、人付き合いが苦手な結喜にとって、髪を染めてピアスを付けているというだけで、それは彼女の中でヤンキーになってしまうだけだった。
そうなると、結喜にとっては恐怖の対象でしかなくなり、もう何も言えなくなるのだ。
「あれ? 海鳥さん、ですよね? 何か間違えましたかね?」
「えっと、その、えっと…………」
何を言うべきか迷い、まごまごする結喜。何を話せばいいのかわからなかった。だけどこのまま黙ってばかりいるわけにもいかない。とにかく何か話そうと結喜は力を振り絞った。
「ア、ハイ。ウミドリデス」
「海鳥さん?」
結喜の感情のない言葉に紬が首を傾げた。結喜自身も、自分がこんな声を出せることに驚いていた。
いや違う違う。驚いていないで何とかしないと。
「A SUIMASEN KINISINAIDEKUDASAI」
「海鳥さん?」
今度は感情どころか国語すら失っていた。あまりのことに結喜は絶句し、紬は困惑していた。
「えっと、大丈夫ですか? どこか具合が悪かったりします?」
「あ、あのあの、えっと」
そんな風に心配そうに覗き込んでくる紬。対して結喜は過呼吸寸前だった。
すいません、何でもないんです。そう言いたかったが、もはや息も絶え絶え、自分が呼吸しているのかさせ疑わしかった。
どうしようと、彼女の中で苦悶の声が渦巻いていた。
その時、横で見ていた宮島が二人の間に割って入ると、諭すように紬に微笑みかけた。
「ごめんなさい。蛯沢さん。海さんいきなり話しかけられてびっくりしたみたい。ごめんだけど時間を改めてもらえるかな? もうすぐ始業時間だし、またあとで来てくれる?」
助け舟を出す宮島。時計を見ると、確かに始業時間が近づいていた。
「あ、すいません。そうですよね、失礼しました」
意外と聞き分けが良いのか、紬が申し訳なさそうに笑いかけてきた。彼女はその笑みを結喜にも向けてきた。
「ごめんなさい。いきなりお邪魔して。またあとで来るから、その時お話してください。それじゃあ、またあとで!」
そう言って手を振って走り出す紬。その紬を無言で見送る結喜。
「…………はあ~……」
大きく息を吐いて椅子に座り込む結喜。すでに疲労困憊のようで、汗で体が冷えているのがわかった。そんな彼女を見て宮島が面白そうに笑い出した。
「ははは。海さんも大変だったね。びっくりしたでしょう?」
「ええ、まあ……ていうか今の誰ですか? 蛯沢さん……でしたっけ?」
「そうだよ。別のデスクで働いている子で、蛯沢 紬さんて言うんだ。けっこう有名な子だけど、海さんは知らないのかな?」
「知りませんよ。私にヤンキーの知り合いはいませんよ」
「別にあの子はヤンキーじゃないよ。優しくて面白くて、いい子だよ」
結喜の言葉に笑い出す宮島。その宮島がいい人と言うのだ。少なくとも悪人ではないのだろうと結喜は思っていた。
「いや、でも本当にどうして私に話しかけてきたんですか? 一度も会ったこともないし、廊下ですれ違ったこともないですよ」
「それはわかんないけど、何か話をしたかったみたいだね」
宮島はそう言うと、結喜に微笑みかけてきた。
「たぶん紬さん、また来ると思うよ。大変だと思うけど、相手をしてあげてね」
「……ええ……」
宮島の言葉に明らかな嫌そうな顔を見せる結喜だった。
「海鳥さん! 今からお昼? 一緒に食べませんか?」
その日のお昼時間。結喜のところへ本当に紬がやって来た。
本当にやってきたよ、この子……。紬を見た瞬間、結喜は呆れにも似た感情を抱いた。見れば紬の手にはパンが握られていて、もう一緒に食べるのが既定路線になっていることが伺えた。
「えっと……」
結喜が助けを求めるように宮島を見た。それに対して宮島は申し訳なさそうに微笑みを返すしかなかった。仕方ないから行ってあげなさいと、顔が語っていた。
こうなっては結喜も諦めるしかなかった。彼女は意を決して紬に向き直った。
「わかりました。ちょっと待っててください」
結喜がカバンから弁当箱を取り出すと、そのまま席を立った。
「すいません、食事に行ってきます」
結喜が宮島にそう言うと、宮島はごめんねと笑みだけで伝えてきた。
それに気付いているかどうかわからないが、紬はニコニコ顔で結喜の隣に並ぶのだった。
結喜と紬は少し離れた休憩室までやって来た。人はほとんどおらず、静かに食事できる場所だった。そこで向かい合って座る結喜と紬。結喜が弁当を広げると、紬が驚いたように見つめてきた。
「おおー。海鳥さん弁当なんだ。もしかして自分で作ってるんですか?」
「あ、いや……家族と一緒に住んでいて、自分で作ったり母さんが作ったり、色々です」
「へー。すごいですねー」
紬が結喜の弁当をじっと眺める。珍しいものを見るような反応を前に、結喜はどうしていいかわからず、戸惑うしかなかった。その場の空気に耐えられず、結喜の方から言葉を投げかけた。
「あ、あの……それで、私に何かお話があるんですよね?」
「あ、そうでした。ごめんなさい」
素直に謝る紬。それから彼女は姿勢を正して、真っ直ぐに結喜に視線を向けた。
「改めて私、蛯沢 紬って言います。そちらは海鳥 結喜さん、でいいですよね?」
「あ、はい……海鳥 結喜と言います。はじめまして」
そんな間抜けな自己紹介を交わし、お互いに頭を下げる二人。真っ直ぐに見つめてくる紬に対し、射抜かれるようなその視線に思わず顔を背ける結喜だった。
「あの、それで、私に何の用ですか?」
「ああ、そうですね。何から話せばいいか……色々言いたいことがあって悩むな……」
そんな風に呟いてから黙り込む紬。少しして、彼女はもう一度結喜に顔を向けた。
「海鳥さん。よかったら海鳥さんのドライブに私も連れて行ってくれませんか?」
「……え?」
何を言われたのか、結喜は一瞬理解できなかった。どうして彼女が結喜のドライブのことを知っているのか。あまりに謎すぎて混乱してしまった。
「えっと、ドライブって、どういう……?」
「ああ、すいません。いきなり言われてもそうなりますよね。実はサヤちゃんから海鳥さんのフォトネのことを教えてもらったんです」
サヤちゃんなる知らない名前を出されて結喜が首を傾げた。
「あの、サヤちゃんて?」
「ああ、杉本さんのことですよ。杉本 沙也。この前の飲み会で海鳥さんとお話した。私と同じデスクで働いているんですよ」
結喜の記憶が刺激される。この前の飲み会で話しかけてきた杉本。初めて彼女の名前が沙也だと知ることになった。
「サヤちゃんから海鳥さんのフォトネットのことを教えてもらって、海鳥さんがドライブをしているってことも教えてもらったんです。それで海鳥さんの写真を見て、私も一緒にドライブに連れて行ってほしいって思ったんです」
「あ、あ~……なる、ほどですね~」
答えに困る結喜はそれだけ口にした。なるほどとは呟くが、理解できる話ではなかった。
フォトネのことを知られるのも、写真を見てもらえるのも別にいい。
問題は、どうしてそこから自分のドライブについて行きたいという話になるのか、よくわからなかった。
「えっと……ドライブ、好きなんですか?」
何気なく結喜は問いかけてみた。すると紬は一瞬だけキョトンとすると、すぐに悪戯っぽく笑ってきた。
「うーん……これから好きになるかもしれませんね」
結喜の問いかけにそんな風に答える紬。よくわからない返しに結喜が怪訝に思っていると、紬は自分のスマホを取り出して、フォトネットで結喜のアカウントを表示させた。そこに結喜が撮った写真が映し出されていた。
「本当にいい写真だって思ったんです……海鳥さんが目にした世界。切り取った光景が本当に綺麗で、かっこよくて……そんな写真を見てると、自分も海鳥さんが見ている世界を見てみたいって思ったんです」
うっとりとした目で写真を見つめる紬。一枚一枚をじっくり眺める紬の顔を見てると、結喜は思わず顔を赤くした。自分の目の前で自分の写真を見られるということに、今さらながら変な感覚を覚えた。
恥ずかしいとも言えるし、嬉しいとも言えるし。顔がにやけるのを止めることができずにいた。
「私、有田が出身でして、佐世保のことはよく知らないんです。それもあって佐世保のことをもっと知りたいし、この町のいろんな場所にも行ってみたいんです」
有田は佐賀県にある町で、佐世保に程近い場所にある町だった。佐世保は長崎県ではあるが、長崎市とは距離的にも心理的にも遠い位置にある。むしろ佐世保は長崎市より佐賀県の方が近く、佐賀から佐世保に働きに来る人も少なくなかった。
「だから、海鳥さんのドライブに私も連れて行ってほしいんです。一緒に海鳥さんと佐世保を見て回りたいんです」
「あ~……そうなんですね……」
紬の真っ直ぐな視線に、結喜は思わず目を背けてしまった。
はっきり言って、誰かと行動を一緒にするなんて、体質的に無理だった。元々結喜は人付き合いが苦手なのだ。そんな彼女が誰かと行動を共にするなんて、もっと苦手だ。
ドライブも一人で行くのが好きなのだ。自分で自由に、気楽に行動できるから楽しいのであって、誰かと共有することを結喜は望んでいなかった。
かと言って、紬のお願いを断ることができるほど、結喜は人間的に強くなかった。初対面の人間のお願いを断るのは、後味が悪い気がした。
人付き合いが苦手なくせに、強く突っぱねることもできない。自分の中途半端さを呪う結喜だった。
「次のドライブの予定とかありますか? 私、海鳥さんに合わせますから!」
前のめりになるほどに詰め寄ってくる紬。その勢いに気圧される結喜は、息も絶え絶えに口を開いた。
「あ~……特に次の予定とかは決めてないんです。ほら、梅雨で雨が続いているから、ドライブできる日があまりなくて」
結喜の視線が外に向けられる。今も外は雨が降っており、世界が薄暗くなっているのが見えた。
だが紬はその言葉に諦めることなく、さらに鼻息を荒くしてきた。
「それじゃあ、もし次の予定が決まったら教えてくれますか! 私のデスク、有休とかはけっこう自由に取れるし、教えてくれたら休みを合わせますから!」
ますます興奮気味に話しかけてくる紬から、どうしても行きたいという気持ちが伝わってきた。そんな彼女の熱意に押されるように、結喜が静かに口を開いた。
「あ、はい……わかりました。もし決まったら……」
それだけ答える結喜。そんな受け答えしかできない自分の優柔不断な性格が嫌になった。
そんな彼女の言葉を聞いて、紬が嬉しそうに笑った。
「わかりました。待ってますね!」
疑うことを知らない、本当に嬉しそうな笑みだった。そんな笑みを向けられて、結喜はますます自己嫌悪に陥るのだった。
「疲れた……」
昼休みが終わってデスクに戻ると、結喜は疲労困憊で机に突っ伏した。
あれから結喜と紬は、昼休憩が終わるまで話を続けた。しかし、それは会話になっておらず、紬が一方的に話しかけて、結喜が言葉を発するだけの問答になっていた。当たり障りのない世間話だったり、お互いの趣味などを話したのだが、人と会話することに慣れていない結喜にとってはストレスになる時間だった。
あまりの疲労に途中から弁当の味もわからなくなっていた。
結局結喜にとっては休憩にはならない時間となったわけである。
「お疲れ様。さすがに疲れたみたいだねえ」
休憩から戻った結喜を見て、苦笑いを浮かべる宮島。結喜の性格を知っている彼女としては、こうなることは予想できていたようだ。
「その様子だとたくさんお話したみたいだね。どう? いい子でしょう?」
「いや、まあ……悪い人ではないとは思いますよ。合うかどうかは別にして」
「ははは。それで? 一体どんな話をしたの?」
結喜はそれから、紬からお願いされた内容について説明した。
「ドライブに連れて行ってほしい、か。なるほどねえ。それで海さん困ってるわけだ」
宮島が納得したように笑う。基本一人で過ごすことが好きな結喜にとって、紬のお願いがどれほど困ったものか、宮島にはよくわかっていた。
「何ていうか、すごい人ですね。普通初対面の人にドライブに同行したいってお願いしますか? ああいうのが普通なんですか?」
「あはは。まあ確かに蛯沢さんは特別だよね。そういうことができるのって蛯沢さんだけだと思うよ。彼女らしいというか。蛯沢さんてうちの職場でも有名人でね。あの見た目で性格もいいから、うちの女の子たちから人気なんだ。イケメン女子っていう感じだよ」
宮島の話に結喜も納得する。結喜から見て身長も高く、美人だがその顔はカッコいいとも言えるもので、確かに女子受けがよさそうだと思った。
それでも、やはり結喜にとって紬は異質な存在で、自分とは合わない相手だと思った。
茶色に染められた長髪。耳元で光るピアス。それだけで結喜の中では完全にヤンキーだと認定されていた。
その上でグイグイ来るあの性格は、結喜が最も苦手とするタイプだった。
「あの勢いは、自分にはきついです」
「まあ、海さんとは真逆なタイプだろうねえ」
水と油どころか、北極と南極のようなもの。決して交わることがないであろう二人だ。それがこうして繋がることになるのだから、世の中よくわからないものだ。
「それで? 断るの?」
宮島がそう問いかける。結喜にとってドライブは一人で行くものであって、誰かと一緒に行くようなものではない。正直、紬のお願いは迷惑ですらあった。
ただ、そう思っても結喜には断ることができなかった。断る理由がないからだ。
「いや、断る理由がないというか、理由がないのに断るのはできないというか……」
「つまり、海さんの優しさが出てきたわけだ」
結喜の言葉に宮島がそんなことを言ってきた。優柔不断ならともかく、優しいという言葉が出てくると思ってなかったので、結喜はつい訊き返してしまった。
「優しいって、そうですか?」
「優しいと思うよ。だからみんな、海さんのことが好きなんだと思うよ」
そんなよくわからないことを言われて、結喜はますます不思議に思った。そんな彼女に宮島が顔を向けてきた。
「断る理由がないなら、試しに一緒に出掛けてみてもいいんじゃないかな? 一人で行くのもいいけど、誰かと一緒に行くのも、もしかしたら楽しいかもしれないよ」
「そう、ですかね」
本当にそんなことがあるのだろうか? 少なくとも、自分にはないことだと結喜は思った。自分みたいに人と付き合うことに嫌悪すら抱く自分が、誰かと並ぶことを好ましく思う事なんて、あり得ないことだ。
そんな結喜の心情を知ってか知らずか、宮島がさらに口を開く。
「まあ、気が向いたら一緒に出掛けてみたらいいと思うよ。何か新しい発見があるかもしれないよ」
そんな宮島の言葉に、結喜は適当に返事を返すのだった。
紬からは色々言われたが、結喜は特に深く考えずにいた。紬の様子を見る限り、おそらくその場限りのテンションから来るものであり、すぐに熱が冷めるだろう。結喜はそんな風に思っていた。
その考えが誤りであったことを、彼女はすぐに知ることになる。
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