第12話
次の休日。空は快晴。深い青空の中を純白の雲が泳いでいた。
午前九時を過ぎたばかり。結喜は世知原に向けて車を走らせていた。気持ちの良い空を見上げて、これから向かう先にある光景を夢想して、結喜はひっそりと笑った。
「あっと」
その途中、結喜が車を停める。彼女の視線の先には、一本のトンネルがこちらを迎えていた。妙観寺トンネルと呼ばれるそのトンネルを抜けると、その先に世知原があった。ある意味、そのトンネルこそがこちらとあちらを隔てる境界線であり、世知原への入口とも言えた。
あそこを抜ければ世知原だ。一体どんな景色があるのだろう? そんなことを考えた結喜は一回深呼吸をして、再びハンドルを握った。
「さあ、行こう」
その言葉を合図にして、結喜の車がトンネルへと向かって行った。
『トンネルを抜けると、雪国であった』
川端 康成の作品・『雪国』の冒頭にある一文。この一文は文学史に残る名言と言われ、この一文から読者はその情景を想像したという。
もし結喜に文才があれば、その瞬間の情景を。その瞬間の感動を言葉にしていただろう。だが残念ながら、その想いを伝えることのできる言葉を彼女は生み出すことができずにいた。
「うわあ……」
結喜が感嘆の声を上げる。それだけが、この時の気持ちを表せる言葉だった。
悔しいけれど、ここはかの文豪に学ぶことにした。
彼女がトンネルを抜けると、そこは日本の原風景があった。
目の前には青々と広がる山。その下を流れる清流のきらめき。その横を走る一筋の道。
溜息が結喜の口から漏れ出した。目の前に広がる光景。手を伸ばせば届きそうな輝きに、結喜の視線は右へ左へと、とにかくその場に広がる光景を見逃すまいと見回した。
結喜たちが世知原と呼ぶ地域は世知原町の他、吉井町などの地域もあり、ここ一帯は大きなビルもネオン街といったものもない。まさに田園風景とでも言うような光景だった。
その光景を前に胸を躍らせる結喜は、世知原の主要道路と思われる道に車を走らせた。
「うわあ……いいな、いいなあ」
運転しながらそんな声を上げる結喜。結喜にとって初めて走る世知原は、たくさんの魅力が詰まった世界だった。
山は青く雄大で、空の青と溶け合うようにその姿を見せつけてくる。その下ではどこから流れてきたのか、清流が一筋流れていた。太陽に照らされて流れる川は、どこもかしこも光り、きらめき、輝いていた。まるでたくさんの宝石が流れているように見えた。
その光景の中を走る結喜。まるで物語の中を走っているような、そんな昂揚感を抱いた。
「……ここいいかも」
結喜が叫ぶように声を上げると、彼女はその場に停車して車を降りた。それから少しその周りを歩いた後、スマホを取り出した。
「ここ!」
彼女はそう呟くと、スマホを構えて写真を撮り始めた。そこには山に向かって伸びる一本の道路と、その先にある雄大な世知原の山が見えていた。
それだけではない。少し横を見れば田園風景があり、さらに先を見れば、遠く向こうに見える山まで視界に収めることができた。
「そういえば世知原って、市民マラソンやってたっけ」
世知原は年に一度、市民が参加するマラソン大会が開催されていた。大会当日は道路を走るランナーたちを、住民たちが沿道に立って応援する姿が見られるという。多くの人が訪れる大会は、住民たちにとっても楽しみの一つのようだった。
結喜はその光景を想像する。これまで走ってきた道をその身一つで走る。この光景を見ながら走るのは、きっと気持ちのいいことなのだろう。
ここを走ったであろうランナーの気持ちを想像して、結喜はシャッターを押し続けるのだった。
それからも結喜は世知原を走り、時々停車してはその場で写真を撮って回った。どれも撮り逃すことのないように行きたいところ、目に付いたところ、全ての道を走っていった。
「……あ、コンビニ」
ドライブする中、結喜の視界にコンビニが飛び込んできた。そういえばもうすぐお昼であることを思い出すと、結喜のお腹が空腹を訴えてきた。それにこの日は晴れていたこともあり、喉も渇きも感じていた。
「ここで買っていくか」
結喜はそのままコンビニに入り、お昼ご飯を買うと、再び車に乗って走り出した。
しばらく走ると、結喜はちょっとした高台に車を停めた。そこからは世知原の町がきれいにみることができた。
その光景をしばらく見つめると、結喜は満足して頷いて見せた。
「……ここにしよう」
彼女は邪魔にならないように車を停めると、車を降りてその場で食事を始めることにした。結喜がコンビニ袋の中から冷たいコーラを一本。それとスパイスを効かせたフライドチキンと大きなフランクフルトを取り出した。
結喜がフライドチキンを口に運んだ。サクサクの衣と肉汁たっぷりの鶏肉が口の中で溶けると、ピリッとしたスパイスが口の中で気持ちよく弾けた。
「~~~~!」
口の中に幸せが広がるの感じた結喜は、キンキンに冷えたコーラを口に含んだ。脂まみれになっていた口の中をさわやかな炭酸が洗い流し、さらなる食欲を刺激してくれる。今度は横に置いてあったフランクフルトを手に取り、ケチャップとマスタードをかけた。その見た目だけでおいしそうになったフランクフルトに彼女は勢いよくがぶりつく。
フライドチキンとは一味違う刺激に、結喜はまたも口の中に広がる幸せに悶絶した。
空には誰にも邪魔されずに太陽が輝いており、太陽の光がこちらへ降り注ぐ。痛いくらいに熱い空気が肌に突き刺さる。いつもの結喜なら、耐えることのできない状況のはずだ。
だが、むしろその空気が結喜には楽しかった。その熱気の中で食べるフライドチキンとフランクフルト。さらに喉を潤してくれる冷たいコーラ。
そして、目の前には世知原の光景。
ここに来るまで数時間。お昼ご飯は五百円にも満たないもの。レジャー施設でもなければ観光名所でもない。
でも、今ここにいることに結喜は幸せを感じていた。ここに来て、ここで食事をして、この光景を目にできて、彼女は大きく笑った。
ああ、今自分は幸せなのだと。
この光景を、太陽の熱気を、数百円のグルメを独り占めできることに、彼女は最高だと感じていた。
彼女はもう一度フライドチキンを口に運んだ。
口の中に広がる幸せを何度も何度も彼女は噛み締めるのだった。
「……あ、あそこいいかも」
結喜がそのままドライブを続けていると、唐突にそんなことを呟いた。彼女の視線の先には、山に向かって伸びる道路があった。
結喜の中で直感があった。あの道を登った山の上から、何か見えるかもしれないという予感があった。
「……行くか」
もう止まる理由はなかった。彼女は車を走らせ、山の上まで上っていった。
車を上まで走らせる。山と言ってもちょっとした高台であり、頂上まですぐだった。
そうして頂上まで辿り着いた結喜は車を降りて、今来た道を見下ろすように振り向いた。
「…………」
言葉を失うとは、このことかもしれない。人は本気で感動すると、言葉も発することができないと彼女は思い知った。
眼下に広がるのは広い田園風景と、その先にはどこまでも続く世知原の山。それを見守るように青い空が広がっていた。それらが一つとなって、その光景を作り出していた。
日本の原風景という言葉があるが、それがどのようなものかを結喜は知らない。
だけど、もし原風景というものがあるとするなら、今彼女の目の前に広がる光景こそ、その原風景ではないかと結喜は思った。
「……最高だ」
そんな言葉が口から零れた。それは彼女の心から触れ出た感情の塊で、抑えきれない心の震えであった。
ああ、そうだ。最高だ。ここは私の故郷なんだと、彼女の心が叫んでいた。
結喜の視線が世知原に注がれる。遠くまで広がる田園と、世界の向こうまで続く青空。その光景を眺めながら、彼女がニイっと笑う。
やっと辿り着いた自分の故郷を前に、彼女はいつまでも笑うのだった。
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