プロローグ②

小蝿のような音がして、小さな、本当に小さな飛行機械が飛び出してきた。そのフォルムは至極ずんぐりとしている。甕を想像してもらえるといいかもしれない。人が一人か二人、ようやく入っているのがやっとな大きさの飛行甕だ。

それが150〜200ノットくらいの速度で飛び回っている。“穴“の連中の誰かが持っていたものだろう。もしかすると共同で管理していたのかもしれない。ともかく、それが4、5機、やってきたのだ。僕を目の前の地獄に、叩き落とすために。


僕達の上官はすぐに機銃掃射を命令した。

巨大な鯨の幾つもの鼻腔から、塩水の代わりにたくさんの鉛玉が噴き出される。

飛行船全体が、機銃のリズムに合わせて小刻みに震えていた。


      ◯


一機、船の機銃掃射を掻い潜って僕の目の前まできたものがある。

鉄のカーテンに阻まれてそれはすぐに遠くへと行くってしまったが、一瞬、しかしはっきりと、中に乗っている人物の様相まで見ることができた。


僕は恐怖した。彼らの向ける銃口の、その延長線上には自分があったから。というわけではない。


命の危機。


それは最も原始的な恐怖の感情を喚起するものであって、決して人間の理性によって払拭されるものではないと、僕はこの一瞬まで信じ込んでいた。

けれど、その甕が去った後、ふと背後を振り返ってみると、そこには、先ほどと寸分違わぬ動きで黙々と作業を続ける戦友の、同胞の姿があった。

その光景に、僕は恐怖したのだ。

もはや戦友は戦友という一個の人間ではなく、「兵士」という一様な概念として、機構としてそこに存在していた。

僕にはそれが、人間の「本能」という温かい部分を削り取る、冷酷なマシーンのように感じられた。


そう思っていた時点で、僕はその「兵士」という一様な概念から少し、離れていたんだと思う。


僕は異常者だろうか?


今まで、そんなことを考えたことはなかったし、他人からも言われたことはなかった、そんな疑問が湧き起こった。

冷酷なマシーンの歯車になれない、そんな自分に嫌悪感を感じた。

つまり、僕はひどく、孤独だった。


      ◯


甕には二人の男が乗っていた。一人は小柄でずんぐりした男で、青い服を着ている。

この街に住む坑夫だろう。ひどく、薄汚れていた。

顔はよく見えなかったけれど、ひどく怯えきった眼をしていた。いや、怯えきった眼をしていたのは彼ではなく、僕の方だったのかもしれない。僕の深層心理が彼の怯えた表情を願っていたのか。僕は、怯えていて欲しかったのかもしれない。きっと、これから死ぬ彼に恐怖の感情を見ることで、自分は孤独ではないと、そう思いたかったのだろう。彼の本当の顔はわからない。

もう一人、男がいた。痩身で、長身の男だ。

彼に特筆すべき点は何もない。驚くべきことに。

彼は、異様なはずだった。

この煙臭い戦場に似合わない、理知性のようなものがあって、学者然とした立居をしている。黒い、コートのようなものを着ていた。軍人、それどころか肉体労働をする人間のようにも見えない。

なぜ、このような身なりの良い男が戦火の中にある中央アジアにいるのか。なぜ、このような男がボロボロの飛行甕に乗って巨大な飛行船と機関銃で戦おうとしているのか。

この男に関する疑問点は山ほどあって、語られるべき事情は海のように深いはずだ。

なのに、異様なはずなのに、何一つとして語るべきことがない。そんな男だ。

人のたくさんいる場所で、一度眼を離して仕舞えばもう二度と見つけることができないだろう。例え名前を聞いたとしても、別れて三日もすれば名前も顔も思い出せないだろう、そんな男だった。

えぇと、つまり、僕が言いたいのは、そんな何でもない、市井の人たちが僕らの殺すべき「敵」だったってことだ。


彼らは、一度僕達に近づいて銃口を向けた後、弾幕に阻まれて距離を取らざるを得ずに僕達から離れ、そのまま地平線へと消えていった。

彼らの甕__近くで見てわかったことだが甕には「郵便局」と書かれていた。__に無理やり固定されていた機関銃は一度も火を噴くことはなかった。火を噴く素振りすら見せなかった。もしかしたらあの機関銃は壊れていて威嚇のためにつけていただけなのかもしれない、とも思ったが、仮にそれが真であるならばわざわざ弾幕を掻い潜って僕達の目の前に現れる必要性もなく、そもそも出てくる必要がない。

銃弾が発射されなかったのはやはり偶然だったのだろう。

理由なんてない。

例のロシア人劇作家は怒るだろうか?


    ◯


全てが、落ちた。

小さな、本当に小さな飛行機械達は、一つ、また一つと落ちていって、最後にはただぽっかりと空いた空虚だけが残った。そこに乗っていた人間の命も、弾が命中するたび、一つ、また一つと落ちていって、やはり、空虚が残った。

巨大な鯨が抱えていた大量の火薬も、一つ、また一つと落ちていって、これもやはり、空虚が残った。

落ちた時、仲間達は、一個の意思として一度だけ

「おぉ」

と、歓声とも呻き声とも取れる声を発した。

その声の後にも、空虚が残った。

下を覗くと、草原に空いた多量の“穴“はその全てから煙が立ち上っている。煙で良く見えないけれど、“穴“を満たしていた生活や人間という物はおそらく、全て炎に焼かれて灰になり、空虚が残っているのだろう。

僕の任務は終わった。

全てが空虚になって、終わったのだ。

そしてやはり、僕の心も、空虚の指す意味に著しく近似していた。

何もなかった。

出撃前に感じていた、虐殺される人たちに向けた悲しみも、自らの罪に対する重みも、「戦場」という言葉とそれに付随するイメージによって作られた高揚感も。

何も無いことに対する寂寥感だけがあった。


      ◯


上官が帰還命令を出した。

僕は操縦桿を握って回頭する。

曙光が夜空を白く染め上げているのが見えた。


その巨大なスクリーンの中に、小さな点が映写されている。

目に入ったゴミかと思ったけれど、

<敵影確認>

という声が響き渡ったことで、僕はそれが敵の船__それも戦艦__であるという事実を知った。

警報が鳴って兵士たちが一斉に動き出す。

艦内に、警報と軍靴のハーモニーが生まれた。

暫くその調べを聴いていると、今まで調和していたメロディーの中に

 “ズン“

という音が割り込んできた。

その直後、足元が震えた。


     ◯


いくらこの船が爆撃機だといっても、全く戦闘ができないというわけではない。

空中での会敵はいかなる種類の船でも起こりうることであり、この船が軍用艦である以上、その胎の中には何門もの大砲が積み込まれている。

けれどもやはり、攻撃力、機動力など様々な面から考えて、制空権を確保するための、戦闘に特化した戦闘艦には劣る。

つまり、今、僕たちは劣勢だった。


断続的に、火薬の炸裂する音、砲弾がある一定以上の速度で射出された時に起きる音が、艦内に響き渡る。

少し遠くでもまた、断続的に同じような音が鳴る。

<損害報告_______>

その音と弾の応酬が一息つくと、今度はオペレーターや観測手による「言葉」の応酬が始まる。そして、それが終わるか終わらないかほどの頃合いに、また、砲弾の応酬が行われる。戦闘とは、究極的にその繰り返しだ。


現代、つまり20世紀初頭においての空戦はひと昔前に海で流行った大艦巨砲主義時代的とも言えるべきもので、一度すれ違いざまに大砲を向け合って砲弾を浴びせあえば、もう一度大砲を向け合うまでに暫くのインターバルを要す。

なぜこんな古臭い戦い方をしなければならないのかというと、端的に言って船が大きいからだ。

さっき空戦を大艦巨砲主義時代的だと言ったけれど、昔の海との最も大きな違いは、その順序にある。海をゆく戦艦は、現実の戦い方に即して、それに対応するように巨大な船が作られていったのに対して、飛行戦艦は元々から大きいので、巨砲主義的になり、故にこのような戦い方になった。という順序の違いだ。

飛行船は、推力などの動力系は“超球“に依っているが肝心の浮力は袋に詰められたヘリウムガスに頼っている。そして、軍用艦を浮かすことのできるだけのヘリウムの量となると、それはもう膨大になり、そのためヘリウムを入れる袋も大きくならざるを得ない。

体積が大きくなればなるほど空気の抵抗は増えるので、飛行戦艦はどんどん鈍足になっていく。

したがって、鈍足な船をなんとか「戦」艦にしようとした結果行き着いたのが巨砲主義であり、一昔前の戦い方なのだ。

と、上官はいつか、僕たち学徒兵に教えてくれた。

その上官は、今、僕の目の前で頭をパックリと割って脳漿を撒き散らして、死んでいる。

一瞬の事だった。

砲弾がちょうど船首のあたりを直撃して、船が強烈に揺れた。

スックと、2本の足で床に立っていた僕らの上官は、真横__その瞬間では真下だった__に向かってすっ飛んでいって、何か計器の角に頭をぶつけて死んだ。


いい人だったのだろうと、そう思う。

戦時の軍隊というものは「人をたくさん殺す」という職務の関係上、往々にして腐っていることが多いのだけれど、彼には気品のようなものがあった。

勇気と、知性と、責任感のある、立派な人間だった。

そんな立派な人間は、家族に囲まれて大往生するわけでもなく、誰かの命を守って華々しく散るわけでもなく、どうでもいい人間であるかのように、淡々と死んだ。

これが戦争なのだ、と思う。

戦争の、殺し合いの前では誰もが平等だ。

生きるか死ぬか。Dead or alive. أن تعيش أو تموت Жиtь или умирать

是活著,還是死了 จะมีชีวิตอยู่หรือตาย 살 것인가, 아니면 죽을 것인가

どんなクズでもどんな聖人でも、それが人間である限り、この二項対立に還元される。そこには、なんの基準もない。

ただ生と死が横たわっているだけだ。


     ◯


今、指揮官を失ったこの船は極度の混乱状態にあった。

一応、指揮権は別の人が受け継いだけれど、いきなり何百人という兵隊を統率なんてできるわけもなく、ただ呆然としたまま立っている。

最低限の指示は飛ばすけれど、どこか兵士の動きもさっきより緩慢でぎこちない。

その間にも、敵から送られる砲弾は艦内を揺らす。


死の、その濃厚な匂いが、硝煙の匂いの中に混じって、とろりとした甘ったるいような空気を作っていた。

一瞬、これが現実なのか夢なのか、全く分からなくなる。

けれど、そんな時は“ズン“という音と振動が、これが紛れもない現実であることを教えてくれる。

その度に、「死にたくない」という根源的な欲求が鎌首をもたげる。

そして僕は、操縦桿を握る手に力を無理やり入れる。

“ゾン“

という、今までとはまた全く別の音がして、一際大きく船体が揺れた。

警報が鳴る。

当たってはいけないところに砲弾が当たったらしい。

もう一度大きく揺れた時、僕は操縦桿を握りしめてなんとか必死に高度を保持しようとしたけれど、その努力も虚しく、メーターに表示される数字は小さくなり続ける。

急降下による振動が、僕の三半規管を滅茶滅茶に弄ぶ。


      ◯


それは永遠に近い時間だったのだろう。けれど、実際には数秒、数十秒のことだったと、理性から作られる時計は言った。

ともかくそれは非常に長い時間だったと僕は認識しているのだから、それは実際に長い時間だった。

死の間際だ。トートロジーくらい受け入れておくれよ。


それだけの時間があったから、僕はぐるりと周りを見回した。

壁に叩きつけられるもの、床にへばりつくもの、椅子に固定されているもの、体勢は様々だが、みんな一様に「死にたくない」という顔をしていた。

そして僕はといえば、椅子の中で体を丸めながら、やはり、「死にたくない」という顔をしていた。



その生生しい恐怖が、僕に「戦争」の現実感を与えた。

「死にたくない」という思い頭がいっぱいになった。

それは僕の戦友たちも同じだった。

僕は、ようやく、戦友たちと同じになって、「兵士」という機構の一部になった。

そして、その「兵士」という一様な概念の総意の発露として、「死にたくない」と叫んでいた。

いや、違う。僕は元から、彼らと同じだったのだ。

戦争を現実感なく上から俯瞰して、感慨もなく人を殺す。機械のように。僕も「兵士」で、歯車だったのだ。

それに気づかなかった。気づきたくなかっただけだ。自分は彼らと違うとそう思い込みたくて、自分とその他大勢を分離して、勝手に孤独になっていただけなのだ。

「死」という圧倒的な現実を前にして、ようやく、僕は自分というものの本質に、気づくことができた。


地面が近づいてくる。

死が近づいてくる。

恐怖が全身を駆け巡る。

けれど、僕は心のどこかで安堵を得ていた。

僕はもう、孤独ではなかった。

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視界が、真っ暗になった。

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