筆貸します~水都の冷酷筆匠と神魚の少年
天柳李海
第1話 師匠と弟子
「
「はあい師匠。ここにおります」
「ぐずぐずしおって。呼んだらすぐに飛んでこいと言っておるだろうが」
「ふぎゃ!」
師匠の振り上げた拳が俺の脳天をしたたかに打ち据えた。
長い銀髪を首の後ろに束ね、頭巾を被った師匠の目が三角になって俺を睨みつけている。
「はい! すみません師匠」
「お前の仕事はどうなっている?」
「仕事……?」
俺は右手を上げて顎に添えると小首を傾げた。
「なんでしたっけ? 今日はまだ何も命じられていなかったような――」
ぶうぅん!
俺は振り上げられた師匠の手を辛うじて躱した。
やったぜ。
空振りに終わった師匠は勢い余って前のめりによろめいた。
と思った瞬間、師匠の腕がぐいと伸びて俺の着物の袂を掴んだ。
ちきしょう。油断した。問答無用で引き寄せられる。
わ、わ。顔が近い近い。師匠の頬に手を置いたらチクチクするぞ。
不精ひげ生えてるな? ちょっと離れて欲しいんだけど。
しかし俺の願いを無視して師匠が耳元で叫ぶ。
「
「は……はい! ええと……今回はどの筆を回収すればいいんですか?」
「『
師匠が着物のたもとを持つ力を緩めてくれたので、俺はそそくさと離れて壁際の棚に近づいた。引き戸のない棚には貸出台帳の
「『翠星』ですね」
俺は棚から古びた竹簡を一つ手にして止めていた紐を解いた。
「ありました。貸している術者の名前は『
「色命数士のことは『
「ええっ~!」
「私の作った『
腕組みをして、はあぁと深く師匠が溜息をついた。
ずきん、と。胸が深く疼いた。
そんな目で見ないでくれ。師匠の言いたいことはよくわかっているから。
「はい。じゃ『翠星』の回収に行ってきます。貸してから五年も経ってますし、居場所を突き止めるため時間がかかりそうだから、しばらく店に帰れないかも……」
「当然だ。筆と貸し賃を回収するまで、店への出入りを禁ずる。ではな、
師匠は筆を作るために奥の作業場へと立ち去っていった。
俺はその背中を黙ったまま見送った。
◇
「すみませんね~。役に立たなくて。ふんっだ!」
俺は筆屋から表の通りへと出た。わかっている。師匠が言う通り、俺は本当にモノづくりができないのだ。細かい作業が苦手というか。
手先がおっそろしく不器用で、作業場を筆づくりのための羽毛や獣の毛で散らかし、筆軸用の細竹を干してみたら、ひび割れさせて売り物にならないものばかり作ってしまう。だから俺に、ただ飯を食わせる気がない師匠が思いついた。
「せめてそのまぶしすぎる美貌を振りまいて、私の筆屋『
美貌って――。
まあ、男の師匠がそう思うのなら、世の女性達も俺の事をそういう風にみているのだろう。お使いで町を歩くと老若男女問わず声をかけられる。
時間があるなら『
かわいい髪の毛だね~触ってもいい? ――とか。
俺の髪は珍しい桃色がかった艶のある銀髪だ。腰まで伸びた髪はそれは雨露で編んだ絹糸の如く、あるいは天女の纏う羽衣の様だと言われたことがある。
目の色は故郷【
師匠はどうも美しい「色」というのが好きなのだ。心惹かれる「色」に出会うと、花や反物は勿論、おそらく俺が師匠に拾われたのも、俺の目の色が気に入って傍に置きたくなったのでは? と今ならそう思ってしまうのだが考え過ぎだろうか。
そうそう。師匠の紹介をしておくと、名前は
ちなみに俺は十八歳。名前は
ええと、師匠の作る『命数筆』について。これは「色命数士」と呼ばれる、特定の職業の人達が使う筆なんだって。
「色命数士」について俺はあまり詳しく知らないが、この世には「九つ」の生命の色があり、『色命数士』は自らの生気を捧げることで、それらにまつわる力を使うことができる。
生命の色はそれぞれ「色命数」という名がついていて、『色命数士』はその数を、『
俺は師匠に訊ねたことがある。
「『命数筆』を使わないと、『色命数士』は自分の生気を『色符』に書けないのか?」
「そうだ。生気はいわば命の源。『色命数士』は必要以上の生気が体の外に流れ出ないよう『命数筆』でその量を調節する必要がある。粗悪な筆を使うと、まさに命を落としかねない」
「けど師匠。師匠の作る筆って、安いものでも銀貨五枚以上するよな」
「当然だ。私の作る筆は一級品だからな! 安売りは絶対にしない。だが代わりに『貸し筆』をしているんだよ。そもそも「色命数士」共は、一人前になるまで給金が出ない。けれど筆がないと修行ができない。そして筆にも術者との相性がある。『貸し筆』なら手頃な金額でいろんな筆を試せるし、気に入ったら買ってもらえればそれでいい。まあ、ひよっこどもが一人前にならないと、私の筆を買う財力はないだろうがな。ははは……!」
一見、師匠がいい人に見えるでしょ。
でも俺はそれに惑わされたらいけないって感じるんだよね。
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