エルフの森に火を放て

鍵崎佐吉

劫火

 満天の輝きを誇る星々も朝陽に追いやられ、薄明の空は徐々に色彩を取り戻しつつある。小鳥たちは木々の梢を飛び交い、慎ましやかに新たな朝を告げようとしていた。しかしその静寂を引き裂くように澄んだ大気の中を絶叫が駆け抜けた。


「火事だ! 森が燃えているぞ!」


 遠い夢の世界に安住していた人々はその声に飛び起き、微睡を振り払ってとりあえずコートだけを羽織り恐る恐る外に出てみる。そんな彼ら彼女らが目にしたのは信じ難い光景だった。

 数千年をかけて培われてきた偉大なる自然、まさに神秘と永遠の象徴であったエルフの森が、紅蓮の劫火に包まれ激しく炎上していたのである。恐れ戸惑い右往左往する者、踊り狂うようにうねる火柱をただ呆然と見つめる者、そんなやじ馬たちの最前列に若く美しい女エルフが一人たたずんでいた。彼女はよろめくように火の方へと数歩近づいて、そこで力尽きたように崩れ落ちた。しゃがみこんだまま彼女は肩を震わせ、その外見に相応しいハープのような美しい声を怒りと憎悪で歪ませて、紅く染まる空に向かって絞り出すように叫んだ。


「許さん……許さんぞ、人間どもめ……! たとえ何百年、何千年かかろうとも、必ず自らの犯した罪に相応しい罰を与えてやる!」


 それを側で聞いていた人間たちはぎょっとして互いの顔を見合わせ、そそくさとその場から逃げ去っていった。このままここに居座っていたらとんでもないとばっちりをくう羽目になってしまうかもしれない。その恐怖に屈することなく「いや、まだ放火と決まったわけではないですよね」という正論を吐ける者はいなかった。彼らはただエルフの森の美しい自然を楽しみに来た観光客であり、せっかくの休暇を面倒ごとに巻き込まれて浪費したくないと考えるのは当然であった。

 そもそもエルフと人間が対立していたのも百年以上昔の話だ。確かに人間はエルフに対する差別と迫害を行っていたが、両者の間に通商条約が結ばれてからは活発な交流がなされている。今日に至っては多くの人間たちが癒しと休息を求めてエルフの森に足を運び、エルフたちもまた広い世界や新たな刺激を求めて人間の町へ出稼ぎに出ていた。懐古的な差別主義者は根絶されたわけではなかったが、公の場でそのような態度を表に出せば激しい批判を受けることになるだろう。人間がエルフの森に火を放つというのはいかにもそれらしく聞こえるが、いささか時代錯誤の趣を感じさせる推測でもあった。

 しかしエルフからすれば百年というのは人間が思うほど長い時間ではない。未だに過去の遺恨を引きずっている者がいたとしてもおかしなことではないし、故郷が危険に晒されたとあっては感情的になるのも道理だ。人間たちは真相はどうあれ今はエルフを刺激しない方がいいだろうという共通の見解にいたり、火の手が収まると荷物をまとめて人間の町へと帰っていった。


 すっかり人のいなくなった森の中、焦げ臭い匂いに混じって誰かの話し声が聞こえてくる。その声には悲嘆や絶望の色はなく、むしろかすかな喜びが滲んでいた。


「どうやらうまくいったようだな」


「気を抜かないで。ここからが大事なんだから」


「それにしても迫真の演技だったな。あの人間たちの慌てよう、なかなか見ものだったぞ」


「当然でしょ。私を誰だと思ってるの?」


 そう言ったのは先ほどまで炎の前で泣き崩れていた女エルフだった。彼女は昨年まで王都の歌劇団に所属しており、彼女の演じる悲劇は目の肥えた王都の人々にも好評だった。


「それより私をわざわざ呼び戻したからには、失敗なんて許さないわよ」


「まあそう慌てるな。あれだけ派手にやればすぐに話は広まるだろう。直に向こうから話を持ち掛けてくるさ」


 そう言って壮年の男エルフは整えられた顎髭を撫でる。その表情には故郷を脅かされた恐怖や怒りは微塵もない。それもそのはず、この男エルフこそ森に火をつけた張本人だからであった。

 彼は別に環境破壊に対して快感を覚えるような異常者ではなかったので、この行為にはちゃんとした理由があった。この観光地化された森の整備や運営はエルフと人間の共同事業であり、両者の友和を望む王国もその活動を支援していた。その森が人間の手によって燃やされたという噂が立てば当然国も動かざるを得ない。真偽のほどはどうあれエルフたちの不信と疑念を解消するための懐柔策としてなんらかの手立てを打つことだろう。つまりこれは賠償金なり補助金なりを目的としたエルフによる自作自演なのである。森を神聖なものとして崇め尊ぶような考え方は、人間社会に触れた若いエルフたちの間ではとっくに廃れてしまっていた。


「それにしてもここまで派手にやっちゃってよかったの? これじゃしばらく観光客も来ないでしょ」


「燃えたと言ってもせいぜい全体の十分の一程度だし、来月からはオフシーズンで客足も遠のく。交渉次第ではあるがあんな日銭稼ぎどうでもよくなるくらいの大金が貰えるはずだ。それに最近は観光客の質も下がり始めててな。このあたりで一度立場をわきまえさせておいた方がいいだろう」


「ふーん、まあ私は報酬さえ貰えればそれでいいけど」


 そう言って二人のエルフは焼け落ちた森の中を弾むように軽やかな足取りで歩き去っていった。


 結局その後の捜査でも犯人は明らかにならなかったが、彼らの目論見通り多額の援助を国から受けることができた。事故とするにはいくつか不可解な点もあったが人間たちは清廉で古風なエルフが自分たちの森に火を放ったなどとは思いもしなかったのである。


「いつまでもくだらない偏見に囚われて、古風なのはいったいどちらかしらね」


 エルフの集落の地下にある広々とした一室で、高級ワインを飲みながら誰かがそう呟いた。

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エルフの森に火を放て 鍵崎佐吉 @gizagiza

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