第2章 薄氷

第11話 あるじの特訓です


 

 一

 


 

 障子から漏れる光は、朝日というには明るすぎた。

 ――まずい、寝過ごしてしまった。

 志季しきは慌てて布団を剥ぐと、上半身を起こした。


「おはようございます、志季さま」

「へあっ!?」


 ――人がいる!?

 枕元に腰を下ろす人影にやっと気がついた。飛び上がって座り込むと、淡色の着物が愛らしい見知らぬ少女が畳に額を擦りつけた。


「わたくしは冬郷とうごう家は三女、南天なんてんと申します。本日より志季さまのお世話を仰せつかりました」


 南天は一度顔を上げたが志季と目が合うと、再び「どうぞよろしくお願いします」と仰々しく頭を下げた。三つ編みにされた柔らかそうな髪束が畳に落ちる。

 三つ指をついて挨拶をされるだなんて思ってもいなかった。志季も寝間着のまま布団の上で頭を下げる。

  

「よ、よろしくお願いします……?」

「そんな、頭をお上げください。お支度整えます」


 南天は揃えた洗面道具を取り出し、素早く志季ににじり寄る。志季よりいくつか若い。素朴な雰囲気に少し幼い目が印象的な子だ。が、おっとりした雰囲気に反して動作が全て早い。手慣れている。


「ええと、南天さんは――」

「志季さま。南天、と」

「南天はこの屋敷の方なのですか?」


 南天の身につけている着物は、どう見ても椿木家女中のお仕着せに比べ仕立てがいい。手指も白く、下働きというには綺麗すぎるように感じる。


「わたくしは椿木家分家である冬郷家からこちらへ奉公に出ている身です。この度はとばりさまにお引き立ていただきまして、志季さま付きの使用人となりました」


 分家というからには南天も祓い師なのか。

 いやそれよりも――志季は目を丸くする。分家が本家へ奉公するだなんて、それほど当主の血を引く本家は強いのか。端々で見えるしきたりに、ここが巷間こうかんの常識が通用しない場なのだと思い知らされる。

 志季がぽかんとしていると、南天がやんわりと微笑んだ。敵意の欠片もない、柔和な笑みだ。帳が選んだというなら、きっといい人だ――漠然とそう思えた。


 まだ帳はいないのか、とも思う。 

 顔合わせから五日経ったが、あの日以降帳は志季のもとへ顔を出していない。用があると言ったきりどこかへ行ってしまったのだ。志季にとって現状頼れる人間が帳くらいしかいないせいか、姿が見えないと妙に不安になる。……クロは狐で人ではないのだし。


「椿木家には分家もあるのですね」

「もちろんです」


 ぬるま湯に浸した手ぬぐいで手と顔を拭われた。


「わたくしも全ての家は把握できていませんが、知る限りでは二十以上はございます」

「すごい……ここは歴史あるお家ですものね」

「これから志季さまへご挨拶に伺う家がたくさん出てくると思いますし、顔を合わせる機会は多いですよ」


 用意された着物に袖を通したあたりで襖から小さな鼻先が覗いた。


「あるじィ」

「クロ、おはよう」


 ひょこと顔を出した喋る狐を前にして、南天に驚いた様子はない。

 この屋敷に来てから、皆が当然のように喋る狐を受け入れている。陰陽師や祓い師の間では獣は話すもので、クロも当たり前な存在なのだろうか。

 そういえば帳とクロは暦家の人間らしいし、どれほど昔から椿木屋敷の人間と交流があるのだろう――などと疑問も生まれた。


「オ? 新しい女中カ?」


 クロが南天に鼻先を向ける。

 

「冬郷南天です。よろしくお願いします」

「フーン」


 律儀に頭を下げる南天を尻目に、狐は返事もそこそこに奥の布団へと飛び乗った。


「クロったら」


 たしなめるもどこ吹く風。ゴロゴロと転がっている。 

 思えばクロは志季や帳以外にはそっけない。三人だけでいると饒舌だが、外へ出るとスンと大人しくなる。内弁慶なのかもしれない。そう思うと可愛らしくみえた。


「あの。クロは帳はどこにいるか知ってる?」


 クロが来たのなら帳もいるかもと思ったのだが、狐は首を振る。


「知らナイ。外に出てんじゃないのカ?」 

「そう……今の居場所がわかったりはしないの?」

「シナイ。なんでオイラがイチイチあいつの場所を把握してるんだヨ」


 クロは彼に使役されているのに術師のことがわからないのか。想像していた陰陽師とあやかしの関係と違う。


「本物はお話の中のあやかしとは違うのね」


 志季が思わずそう漏らすと、クロではなく南天が反応した。


「あやかし、ですか?」

「はい、クロは――」

「ぶえいっくしゅん!!」


 被せるように狐が盛大にくしゃみをしたことで注意が逸れた。見ると鼻先を前脚で擦っている。羽毛布団にむせたらしい。


「うえぇ……ムズムズするゥ」

「ああ、気が利かず申し訳ありません! すぐに上げてしまいます!」


 すかさず南天が立ち上がり、布団を片付けにかかる。こういう場面でつい手を出しそうになるが、出してはいけないのだと先日帳に滾滾こんこんと説明されたばかりだ。

 今まで下っ端も下っ端の生活しかしてこなかった身からしてみればすぐには腑に落ちなかったが、意味は理解した。そういうものなのだと受け入れるしかないのだろう。

 

 落ち着かない気持ちのまま、じっと見つめていると、襖の外から声がかかった。

 ようやく聞き慣れた声の登場に、志季は腰を浮かす。


「あるじ、おはようございます」


 今日も今日とて黒尽くめの帳に妙に安心する。ぱっと見、昨日と服装がほとんど変わりない。唯一の違いといえば室内なのに黒の二重廻しの外套がいとうを着ているくらいか。

 帳は奥の南天に目を留め、畳に転がるクロへと目線を移す。


「朝餉が終わりましたら外へ出ますよ。南天とクロもです」


 帳の腕にはこぶりな女物の上着が掛かっていた。

 外とは、と志季が首を傾げると帳はニコリと音がつきそうな笑顔を見せた。

 

「あるじの特訓です。がんばってくださいね」




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