第9話 これは見事だな




 

 凍る池に掛かる太鼓橋を渡り、透廊すきろうを抜けて椿木つばき家が待つという広間へと向かう。

 柱越しに見えた広大な日本庭園に志季しきは感嘆の声を漏らす。やはりおよそ人が住む家とは思えない。御伽噺おとぎばなしの御殿に迷い込んだ気分だ。

 知らないうちに上京したての田舎者のようにきょろきょろと首を回していたようで、見かねたとばりに渋面とともに背中をつつかれた。

 いよいよ広間の扉かというところで、脇の廊下からこちらへと向かってくる女性の影があった。

 純白の足袋たびが軽やかに着物の裾から覗いている――雪乃ゆきのだ。

 志季は思わず足を止める。全員揃って中で待っているのだと思っていたが、違ったようだ。昨日の軽蔑に満ちた彼女の視線が頭によぎる。今日も何か言われるのではないかと思いかけて――。


「志季さま」


 目の前まで来た彼女にふわりと両手を取られる。


「この度はおめでとうございますっ」


 ――あれ?

 雪乃は志季とは対照的な白地に赤椿の着物を見事に着こなしている。弾むような高い声に、敵意など微塵も感じさせない愛らしい笑顔。

 なんだか昨日会ったときと雰囲気が違うような。

 呆気にとられていると、雪乃の視線がすいと志季の背後へ移動する。


「まあ帳さま、お久しぶりでございます」


 すると彼女の視線は帳に釘付けになる。その熱を帯びた瞳を見て――さすがの志季も意味を理解する。

 雪乃の邪魔になってはいけないと横に避けようとしたのだが、帳に肩を掴まれて叶わなかった。


「ええ、雪乃さん。お久しぶりですね。お変わりございませんか?」


 ――いや誰ですか?

 志季は背後から聞こえてきた甘ったるい声に振り返る。そこには見たことのない耽美な笑顔を浮かべた帳がいた。

 言動にさえ気をつけていれば、帳はただの見目のいい優男だ。『本家の人間への態度は完璧』などと言っていたが、やりすぎだろう。外面がいいにも程がある。

 

「もちろんですわ。椿木家に来られるのは数ヶ月ぶりでお忙しかったのですか?」

「はい。こよみ家での仕事が多く、顔を出す機会がとれませんでした。申し訳ございません」

「謝らないでください。仕方ないですわ」


 一体何を見せられているのだろう。

 志季は帳に肩を掴まれたま、二人に挟まれる形で立ち尽くす。いい加減、離して欲しい。

 

「よくやるよナァ」


 小さな獣の呟きが聞こえた気がした。

 帳は端正な笑みを浮かべる。


「雪乃さんは中へ入られないのですか?」

「志季さま達が来られるのをお待ちしていたのです。ご一緒に入りましょう」


 雪乃の視線がようやく志季へと返ってきた。一瞬だけ、志季の肩に乗ったままの帳の手へと目を向けていた気がした。

 

 昨夜の顔が本当の顔ならば、今は帳の手前本音を隠しているのだろうか。

 志季は生い立ち故に悪意には敏感だと自負している。

 喉が締め付けられるような気分だ――端々に滲む雪乃の本音から意識を逸らそうと、志季は深く息を吸う。


「さあ行きましょう、志季さま」


 志季の心中を知ってか知らずか、雪乃が腕を取ってくる。

 

 先触れの女中が広間の扉手前で声を張る。

 いよいよだ、鳩尾がキリキリする。覚悟を決めて扉をくぐった。

 

「まあ、そちらが山代やましろ志季さん?」


 入るやいなや、声が飛んできた。

 二十畳はありそうな座敷だ。上座に座る男性――氷雨から左右にずらりと並んだ年齢も服装もバラバラな男女十数名。彼らの視線が一斉に志季へと突き刺さる。


「酷い穢れだこと。何をしたらそんなに汚れるのかしら」


 氷雨から向かって右側の列に座る女性が着物の袖を口に当ててこちらを睨んでいた。歳は三十代後半か。細面の美人であるが、その顔はあからさまに歪められている。

 昨日の雪乃と同じく軽蔑の色を隠そうとはしない様子に、足が自然と止まる。


「これ、千鶴さん。そんなに脅かすものじゃない」


 上座に座る氷雨が手招きする。


「どうぞ志季さん、こちらへ」


 恰幅のいい男性だ。中年に入るかどうかくらいの歳だが、雰囲気が若い。和装ではなく三つ揃いの濃茶の背広を着込み、前髪を全て上げた髪形をしている。目鼻立ちが整っていることもあり、貫禄を醸し出している。

 

 志季は促されるまま、雪乃に腕を取られたままずらりと左右に人が並ぶ真ん中を進む。氷雨の前まで来ると、千鶴が雪乃の袖を引いた。


「雪乃さん、あなたそんなに近づいて平気なの?」


 離れなさいと言わんばかりの仕草に雪乃は微笑む。


「大丈夫ですわ、お母さま。わたくし、この程度で倒れるほど弱くありませんもの」

「まあ流石ねぇ」


 優しい母親の顔から一転、千鶴は再び厳しい目を志季へと向ける。


「顔合わせの場に穢れを持ち込むだなんて、非常識極まりないわ。なぜ祓ってこなかったの?」

「それは……」

「帳くんから、志季さんはまだ祓う能力がないと聞いている。彼女はまだ不完全なのだよ」


 氷雨がたしなめると、千鶴がまあと声を上げる。他に列席している人間からも小さなどよめきが上がる。

 どうやらこの場にいる人間全員が志季の事情を知っているわけではないらしい。千鶴も知らなかったらしく、目を見開いていた。


「祓えない……? そんな馬鹿なことがありますか! 花祓いの当主であるのに! ねえ帳、本当にこの娘に花紋かもんがあるの?」

「もちろんでございます、千鶴さま」


 帳が口を開く。


「クロが確認しております。嘘偽りなく、志季さまは花紋を持つ正当な椿木家当主にあらせられます」


 ぐと言葉に詰まった様子の千鶴が志季の足元へと目を向ける。

 

「この獣……やっと起きたのね」

「ドウモ、千鶴サマ」


 場違いなほどに間延びしたクロの返事に、千鶴はふいと顔を背けた。

 クロが確認した――その一言で千鶴が納得ができることに志季は首を傾げた。言い方は悪いが、クロは人間ではない。あやかしの部類、ふしぎの生き物なのだ。人間よりもこの狐の言い分が通るというのは、これ如何に。

 

「ふむ。だが、穢れを留めておくのもあまり良くない。志季さん本人にも負担だろう」


 氷雨が雪乃へと目を向ける。


「雪乃さん。祓ってやりなさい」

「わかりましたわ」


 雪乃が向かい合うように立つ。そっと両手をかざし、何事か呟いた――瞬間、寒風が吹きすさぶ。ぽうと雪乃の額に椿の花が浮かび上がり、そこに吸い込まれるようにナニカが流れていく。

 おそらく今朝鏡で見た穢れだ。じっと意識を集中すると、黒い波のようなものが雪乃へと流れ込んでいるのが見えるような気がした。 

 そして、志季は今までに感じたことのない感情の奔流にのまれた。

 胸の内に流れ込んでくるこれは、穢れに憑いていた誰かの感情だろうか?

 

 憎悪、嫌悪、畏怖、気持ち悪い、こわい、どっかへ行け、しんでしまえ――。


 かつて志季に向けられたことのある感情の数々が、穢れが離れていくと少しずつ身体から剥がれ落ちていくのを感じた。


「あ……っ、く……」


 しばらくすると雪乃が呻きだした。こらえるように顔を顰め、かざした手を震わせる。よろめいた雪乃を千鶴が受け止める。 

 全ての黒い流れが移った後、雪乃は膝をついた。

 

「こんな量をどうやって――」


 雪乃が呟くのと同時に部屋中に椿の花弁が散った。冷えた室内に舞う椿の花――それはそれは幻想的な光景であった。


「わ、すごい」


 志季は感情の渦から抜け出し、見上げて歓声をあげる。

 祓い師のなかでも四季家は浄化した後にその地に花を散らせる。故に、花祓いと呼ばれるのだと――帳がそう説明した意味をやっと理解した。

 部屋に舞う椿は、畳につくとふっと消えていく。浄化の証、それがこの椿の花なのだ。


 儚い花々に見とれていると、黙って祓いの様子を見ていた氷雨が突然膝を叩いて笑い出した。


「これは見事だな!」


 その笑い声に、志季は横で千鶴とともに座り込む雪乃を思い出す。慌てて膝をついて雪乃へと手を差し伸べる。


「も、申し訳ありません。大丈夫ですか?」

「ええ……平気ですわ」


 手を取らず、雪乃はひとりで立ち上がる。しかし顔色がすこぶる悪い。心配そうに見上げている千鶴に、雪乃は気丈に微笑んでいた。

 氷雨がふむと口端を持ち上げる。

 

「志季さんは穢れを身に引き受けることまではできている。その先の祓い方はこれから学んで身につけるしかない。雪乃さん、どうぞ気にかけてやってくれ」

「……ええ、叔父おじさま」


 雪乃は静々と頭を下げた。氷雨は続けて志季へと視線を向ける。


「志季さん」


 彼の垂れた目尻にきゅうと力が入る。


「本日より椿木家当主の座はあなたのものだ。日々精進してください」

「かしこまりました」


 祓い師として何もできない無能の当主。自分はみなが当たり前に持つ能力を何ひとつ持ち合わせていないのに。

 

 ――ああ、背負わされたものが重い。

 志季は腹の前で手を握りしめた。

 

  


 

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