第3話 これは決定事項です
二
「あるじ……?」
迎えに来たと言い切った
「あなたは何者なんですか?」
「私はあなたの
下僕だなんて、そんなものいるはずない。
あり得ない単語に気圧されて後ろに下がると、帳に腕を掴まれた。形のいい唇の片端がわずかに持ち上がる。
「志季さま、知らず人を傷つけてしまう経験は?」
どくんと心臓が跳ねる。
「身の回りで不幸が続くことはありませんでしたか?」
「なんで、それを」
「理由が知りたいのであれば一緒に来てください」
この男は一体何を知っているのか。
志季が身を固くすると、どこからか「早クしろ!」と声が飛んできた。帳の声ではない。潰れたような高い声だ。
「モタモタするナ! 急がないト見つかるゾ」
見渡すもそれらしい人影はない。
すると帳の影から四足の黒い塊がひょこと顔を出した。
「屋敷の連中ガ活動し始めたんだゾ。このままじゃ見つかっちまウ」
まさかの喋る獣である。
三角の耳がぴこんと動く。
当然のように人語を操る姿に志季の視線は釘付けだ。
ずんぐりとした体型に太い尻尾、そして黒い毛の中にこちらを見上げるビー玉のようなつぶらな瞳。色は違えど似た生き物を山で見たことがある。
「たぬき……?」
「キツネ! なんだゾ!」
思わず漏れた呟きに素早く反応があった。しかし狐にしてはやけに丸っこい見た目をしているような。
いよいよ言葉を失った志季を見かねて、取りなすように帳が狸の尾を掴んだ。
「ややこしくなる。今は引っ込んでいなさい」
「オイやめろっテ! 尻尾はヤメロ!」
黒い狐らしいソレが抗議の意で跳ねたが、帳は無言で奥へ押しやった。
仕切り直すように帳が志季の方を向く。
「少し下がっていただいても?」
帳は懐から小さな紙片を取り出した。
志季は言われるままに鉄格子から距離を取る。久しぶりに立ち上がったせいか足元がぐらついた。
「牢を破壊したら屋敷の者に気づかれると思います。
「壊すって、一体どうやって」
「こうやるんですよ」
文字の書かれた紙が帳の手からふわりと放たれる。
「ごほっ、ごほっ」
反射的に顔を覆ったが、思い切り煙を吸ってしまった。飛んできた破片が素足を
床に大穴。これでは破壊というより粉砕だ。
「ああ、ちょっと派手にやりすぎましたね」
悪びれた様子もなく、袖についた埃を悠々と払う帳。今の破壊行為で、この男が常人でないことがはっきりした。
「今のは……」
「陰陽術です」
「あなたは陰陽師なのですか?」
「一応端くれではあります」
帳は陰陽師なのか。そうすれば狐は帳の使役するあやかしの類か。
と、にわかに外が騒がしくなってきた。囲いの外でも慌ただしい声が飛び交っているので、この派手な爆発音は花街中に響き渡ったようだ。
「さ、行きましょう」
帳が格子だったものを踏み、有無を言わせぬ様子で志季を引き寄せる。
外に出たら一体どうなるのか。志季はますます身体を強張らせる。そもそもこの人についていっていいのだろうか。全てが怪しすぎるこの人に。
志季の迷いを読んだかのように、帳が目を細める。
「あなたがなんと言おうとここに残るという選択肢はありません」
柔らかな声、しかしその虹彩はどこか無機質だ。作り物めいた美が志季に迫る。
「俺はあなたを連れ去る。これは決定事項です」
ぐいと腕を取られた。身体が前に
「――恨むならその身に流れる血を恨むことですね」
膝裏に回る細い腕。黒の着物からは嗅いだことのない甘い香の匂いがした。
「そんなに固くならずとも。怖いですか?」
「すこし。それよりも――」
「お前ガ胡散臭いから警戒してんだろナァ」
否定できないのが申し訳ない。
的確な狐の呟きを帳は黙殺した。
「裏に車を用意しています。急ぎますよ」
不思議な術を使うのに移動は自動車なのか。
母以外に抱き上げられたのは初めてだ。この年になって他人に抱えあげられる浮遊感というのは、なんとも心もとなく。落とされまいと帳の服を握ると、あやすように背を撫でられた。
幼子にするようなそれは不思議と心地よかった。
帳の足は早かった。人ひとりと獣を抱えているとは思えないほど軽やかに進んでいく。この細腕のどこにそんな力があるのだろう。
帳は牢から置屋へと繋がる廊下を駆け抜け、外へと続く最短の道筋を躊躇いなく引き当てていく。動きに迷いがないところを見るに、来るときも同じ道順で来たに違いない。
板間を抜け、あっという間に裏庭へ出た。道中何回か置屋の人間に
気づけば喧騒は少し遠のいていた。
鈍色の雪雲はすっかり夕焼けに染まり、零れ落ちるようにぽつぽつと雪粒が落ちてくる。
それに気づいた彼は一瞬思案し――たいした助走もつけず平然と屋根の上に飛び乗った。
「ひ……っ」
腹がすうと冷えるような浮遊感。思わず声が出る。
「ああ、驚きましたか」
「だ、だいじょうぶです」
常人の脚力ではない。志季は更に力を込めて帳の服を握った。同じく振り落とされまいと、狐が鼻を鳴らして帳の頭にしがみついていた。
昨今は煉瓦造りの家が増えてきたとはいえ、花街は未だ木造の瓦屋根だ。雪解けの瓦から滑り落ちるのではと緊張していたが、そんなことはなかった。地面を歩くかのような安定感。帳は屋根を突っ切ると
「ここからは自動車で移動します」
廓沿いに黒塗りの自動車が停められていた。乗合バスより一回りは小さい、四角いオートモウビルだ。帳が運転席に近づくと、ハンチング帽の運転手が気怠げにレバーを引いた。
「予定通り、椿木家の屋敷まで」
「あいよ」
帳は扉を開けて志季と狐を投げ入れると、反対側の扉から乗りこんできた。
ふと屋敷を振り返る。と、屋敷の囲いからひとりの女が姿を現した。
「あいつ……っ、志季! アンタ、逃げる気やな!!」
――フサだ。車窓から覗く志季の姿を認めたのか、顔色を変える。
「急いでください」
帳がせっつくと、車体が急発進した。
「このっ、恩知らずが……っ!!」
僅かに開いた窓の隙間から飛んでくるフサの声が、志季の鼓膜に突き刺さる。
砂利を踏む音にかき消されて声が遠のく中で、帳が吐き出すように呟いた。
「恩知らずとはどの口が言うんでしょうね」
初めて聞く冷淡な物言いに驚く。
「牢に繋いでろくに食事も与えないことが恩なのでしょうか。理解できませんね」
苛烈な表現ではあるが、気持ちを汲んでもらえた――いつぶりだろうか。人のあたたかさを思い出し、ふいに目頭が熱くなった。
泣くなんて迷惑がかかる。ぐっと感情を押し込んで整った彼の横顔を見上げる。
この人はどんな人なんだろう――志季は久方ぶりに人に興味を持った自分に気づいて、瞠目した。
ふと気づけば、もうフサの声は聞こえなくなっていた。志季はこころの中でそっと別れを告げる。
――さようなら。それと、ごめんなさい。
謝りながらも、妙な高揚感と緊張で心臓が早鐘を打っているのを感じた。
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