第2話 この子はバケモンよ




 

 板の間に身体をしたたかに打ちつけた。


「ほんとに何もやってないんでしょうね!?」


 殴られた頬が熱を持って痛む。拳を震わせたフサが倒れ伏す志季しきを見下ろしていた。真っ赤な唇がわなないている。

 

「フサさん!」


 更に殴ろうと拳を振りかざすフサを静止するように、禿かむろが腕へすがる――トシとともにいた娘だ。

 

「離して伊代いよ! この子と揉めた後に敏子としこが階段から落ちて足折ったって。そんな偶然ある!?」

「きっと、きっと呪いが」

「事故を呪いで片付けるなんて、そんなことがありますか!」


 板間を踏み鳴らし、フサが近づいてくる。思い切り胸ぐらを掴まれ、こほとせた。働く女にしては長い爪が喉元に食い込む。


「本当に納屋にいたんでしょうね? アンタが敏子を突き落としたんじゃないの!?」

「私は……誓って、何も……!」

「……はあっ、これだから引き取るがイヤだったのよっ!」


 フサが志季を突き飛ばす。


「恩義ある上客の佐々木様にどうしてもって言われたから期限付きであんたの身を引き受けたけど、こんなことになるなら受けるんじゃなかった!」


 そう吐き捨てると、フサは顔を覆った。


「もう置いておけない。この子はバケモンよ」


 バケモン――慣れたはずの罵倒に心が軋む。


「伊代、この子を牢に運んで」

「そんな、本当に……」

「いいの。年季開けが来るまで、そこに入れておいて。これで事故が起きたら……それこそ呪いってことよ」


 牢とは座敷牢のことか。置屋おきやから逃げ出した女の罰のための折檻牢があるらしいとは聞いていたが、本当にあったのか。

 愕然とする志季に伊代が近づいてくる。


「ほら、立ちな」


 伊代は気味悪そうに距離をとって、しゃがみ込む志季を足先で小突いてくる。よたよたと立ち上がると、ぶたれた頬に鈍痛が走った。このまま牢へ連れて行かれてしまうのか。

 志季は一縷の望みを抱いてフサの方を見やるが、彼女は背を向けたままこちらを見ようとはしなかった。


「行くよ、ついてきな」

 

 部屋を出て廊下を進む。伊代は一度も振り返ることなく足早に先を進む。後に続く志季は、顔に差し込む外光に俯いていた顔を上げる。

 廊下に続く面格子めんごうしから望む空は、今にも雪が降り出しそうな重たい雲が広がっていた。きっと今晩も雪だ。遠くに見えた煉瓦レンガづくりの中央通りは帰宅の人と青バスで賑々しく、日暮れを待つアーク灯が高々と道脇に並んでいた。

 

 世が明治から大正へと移り変わること早十数年、西欧文化の波は古き文化を押し流さんとばかりに広がりをみせている。花街の外通りにもようやく瓦斯ガス灯が引かれ、夜でも昼のように明るいのだと張見世はりみせの姉様方が言っていた。


「着いた。入んな」


 先を行く伊代が離れを過ぎたあたりで立ち止まる。分厚い扉を押し開け、志季を振り返る。


 真っ暗で湿っぽい場所だ。もう何十年も使われていないようなかびた空気が鼻腔を犯す。なにより、物音一つしない静寂が中へ入ることを躊躇わせた。

 ――本当に、こんなところで。

 志季は無意識に一歩後ろへ下がる。そんな志季の腕を伊代が掴んで中に押し込む。


「牢へは自分で入って。あたしが入れ込めたみたいになって、呪われてもイヤだから」


 こちらと目を合わせないよう伊代が顔を背けて呟く。

 志季は牢の扉に目を向ける。扉から漏れる明かりと天井近くの小さな明り取りが唯一の光源だ。鉄でできた格子に、大きなかんぬきがぶら下がっているのが見えた。

 牢内の床は畳だが、腐っていて足を乗せるのも躊躇われるほど歪んでいる。足元には萎びた鼠が死んでいて。

 あまりにも劣悪な環境に、じわじわと恐怖が足元から這い上がってくる。


「わ、私は」

「そういうのいいから。あんたが全部悪いんでしょ。被害者ぶらないでよ」


 頬を張られたような衝撃。

 ――そうだ、全部、全部自分が悪い。何をしたわけでもないが、存在しているだけで周りが不幸になるのだ。

 志季は何も言えなかった。


「ご迷惑をおかけして申し訳ございません」


 自分から牢へ入る。

 伊代が手を差し伸べてくる。何かと思うと。


「着物脱いで。足袋もよ」

「え……」

「フサさんの命令よ」


 この寒さの中、襦袢じゅばんひとつで過ごせと。それはつまり。

 

 死ねといっているようなものだ。


 本当に自分は必要とされない疫病神なのだと自嘲する。

 背後で閉まる錠の音を聞いて、志季は顔を覆った。




 

 牢の中の生活は過酷だった。

 かじかむ手をこすり、足先を握る。暖をとるものが何もないので、夜は襦袢じゅばんの中に手を入れて小さく丸くなった。

 水と一日一回の握り飯が生命線。当番で食事を運んでくる女達は、みな一様に気まずそうな顔をしていた。

 このまま放っておけば、弱った志季しきが冬を越せないことを知っているからだ。

 みながみな、殺したいほど志季を憎んでいるわけではないのだろう。ただ日々の苛々いらいらけ口が欲しかっただけ。槍玉に手頃な志季を使っていただけ。

 口を揃えて「フサさんがやれって言ってるから」と言い、申し訳なさそうな顔をして立ち去っていく女達を見るにつけ、志季はお可哀想にとあわれまずにはいられなかった。

 

 牢へ入れられてからどれほど経ったのか、少しずつ|時間の感覚がなくなっていた。

 ――毎日ただ目を開けているだけなんて、本当に死んでしまったみたい。

 声も立てずに涙をこぼす。

 生きることはこんなにも苦しい。苦しくて、つらい。疫病神に居場所はないと突きつけられるたびに、心が折れそうになる。

 それでも――やっぱり諦めたくなかった。

 生きたかった。

 遠い昔になってしまった母とのあたたかい日々を思い出し、またあんな風に笑える生活が送りたいと。

 志季と名前を呼ばれて、誰かに笑いかけて、笑いかけられて、ぬくもりを分かち合って。

 そんな当たり前がほしかった。 


「私はまだがんばれるよ、おかあさん……」


 何度も何度も呟いて自分を奮い立たせて、諦めてはだめだと言い聞かせる。

 飛びそうな意識を繋いでうとうとしていたとき、声が聞こえた。


「見つけた」と。



 

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