第1章 春待月の出会い

第1話 こいつ疫病神や言われとるんやろ?




 一




 もう、ずうっと志季しきの人生は凍てついていた。

 

「誰の許可得て、ねえさん方の食事に手ぇつけたんや!?」


 汁気とともに冷えた豆腐と菜っ葉が湿気た木綿着物のあわせに落ちる。カラコロと軽い音を立てて漆椀うるしわんが足元に落ちる様子を目で追う。

 ――汁が熱くなくてよかった。

 志季は前髪から落ちる味噌汁の雫に目を伏せる。

 目の前には新造しんぞうの姉方の残した夕膳を持つ禿かむろ。切りたてのおかっぱが瑞々しく、歳は志季よりずっと若い。


「アンタの食うもんはここにはねぇ! 昨日の残飯でも漁っとりや!」 

 

 禿は甲高い声でくりや塵溜ごみだめを指差した。

 いや、志季が歳を重ねすぎているのか。花街では十の半ばを過ぎる前には、客を取るべく座敷へと上がるのが通例。十八にもなって下働きで身を寄せているのは志季くらいだ。

 

 志季は下げる途中だった手元の膳に目を落とす。

 この二日、水以外口にできていない。厨の女達がと言って、志季の分の食事を用意しないのだ。いよいよ空腹を耐えきれず、姉方の残した夕餉の沢庵たくあんを片付ける途中で食べてしまい、それを見咎められた。


「やめなよぉ、トシ」


 トシと呼ばれた禿の隣で、別の禿が青褪あおざめた顔をしている。


「呪われっかもしれん。コイツ疫病神や言われとるんやろ?」

「呪いがなによ、どうせ全部裏でコソコソやっとるに決まっとる。この大正の世に呪いや祟りやって馬鹿馬鹿しいにも程があるわ!」


 腹の前で手を握り合わせる。冷えた汁が襦袢じゅばんにまで染みて、身体が震えた。この厳寒の睦月むつきに、他の禿らは寒さ避けにと新年の祝いで遣手婆やりてばばから綿入れを貰って着ているのに、志季には何もなかった。

 俯くと、汁で濡れ後れ毛が張り付いた志季の白く細いうなじが露わになる。

 

 ――心を波立ててはいけない。怒るのも、悲しむのも駄目だ。感情が揺さぶられた時、決まってが起こってしまうから。

 

 これまでの経験で、自身が泣いたり憤ったりすると、その後時間を置かず決まって不幸な事故が起こることを志季は知っていた。

 故に――疫病神、忌み子と。

 おそれと嫌悪をあらわに、皆が志季をそう呼ぶ。

 大抵の人間が気味悪がって志季に関わらないようにしているが、時折こうして悪意をぶつけられた。


 俯いて何も言わない志季に、トシが苛々いらいらと膳を置く。


「フサさんに言いつけっから。アンタが勝手にねえさんの飯に手ぇつけたって。ホラ、さっさと自分の部屋に戻って草でも食ってろよ」


 眉頭に何か固いものがぶつかった。


「い……っ」

 

 突然のことで小さく声を漏らしてしまう。カラカラと音を立てて足元に落ちたのは陶製の箸置きだった。


「行こ。アタシらも朝飯食べんと」

「う、うん」


 トシが先を行き、その後ろをもうひとりの禿がついていく。こちらを気にする様子ではあったが、結局何も言ってこなかった。他の女達も日和見を決め込んでいるようで、騒動が落ち着くのを見計らってそそくさと去っていく。


 志季は落ちた箸置きと椀を拾い、片付けに行く。流し場の女達が憐憫れんびんと好奇の混じった視線を寄越してくるが、なにか言う気にもなれなかった。志季は足早に厨を後にした。

  

 一度部屋へ戻らねばならない。着替えなければ汚れた服のままでは仕事に出られない。

 

 志季は厨を出て置屋おきやの裏手にまわる。茂みを抜けると、茶けて傾いた小屋が見えた。色里いろざとに身を置いているにも関わらず、志季に寝泊まりの場所として与えられたのはこの納屋だった。

 

 同じ場所で寝泊まりしたくないと他の禿達が遣手婆のフサに泣きついて、納屋へと押し込まれたのがひと月前のこと。ほとんど屋外のような場所で生活するのはさすがに身体にこたえる。

 

 志季はかじかむ指先に息を吹きかけ、入口横に置いてある桶から両手で水をすくい飲んだ。凍りかけの水でも、口に入れば甘く感じるものだ。

 

 下を向くと、水面には陰鬱な顔をした女が映っていた。薄幸が服を着て歩いている――志季は自身の顔を見るたびにそんな感想を抱く。

 痩せた顔に、目だけがまあるく大きい。美醜からいえば整った部類に入るのだろうが、笑顔がない分可愛げもへったくれもない。

 十八にしては女っ気のない薄い身体に、よれた木綿の着物が張りついている。

 自慢はこの黒髪くらいか。腰に届くほどの黒黒とした豊かな長髪は、亡き母が褒めてくれた形見のようなもので。切ると幸せな思い出まで切って捨ててしまうような気がして、ずっと切れずに伸ばし続けていた。

 

 長い黒髪に青白い顔。まるで幽霊みたいね、と誰かが揶揄やゆしているのを聞いたことがある。でも間違ってはいない。

  

 そう、自分は生きているけど死んだような人間だ。

 自由がない、家族も友もいない、祟りが怖くて怒ることも笑うこともできない。

 

 いつからこうなってしまったのだろう。

 生母と暮らしていた頃の記憶はもうおぼろげだ。


 十のときに病で母を亡くし、身寄りのなかった志季は翌年には奉公に出された。十三のときに奉公先の主人に不幸があり別の家へ移ったのだが、そこでも半年と経たず怪我や事故が起きた。


「あん子が来てから、なんやおかしいことが起きとらん?」と影で囁かれるようになってから、呪いだ疫病神だと噂されるまでになるのはあっという間だった。


 雇われた先でうとんじられ、虐められ。気づけばまた不幸な事故が起きた。そうすると追い出されて噂が噂を呼び、扱いが更に非道ひどくなる。

 負の連鎖、逃げ場のない地獄だった。

 いっそ独りになれば、逃げてしまえばと奉公先から逃げ出そうとしたが、年季明け前の逃亡は斡旋元の信用に関わる。すぐに男どもに捕まり、もとの家へ押し込まれた。今の花街も身を寄せてから半年も経っていない。

 

 何故、自分の周りでばかり不幸が起きるのか。きっと悪業あくごうでもあるだと、志季は半ば諦めていた。


 天井から雨漏りした雫がぽちゃと桶に落ち、我に返った。

 

 過去の思い出では腹は膨れない。気づけば身体も冷えていた。

 食べるものもないので納屋にいても凍えるだけだ。他の女達は握り飯でも食べている頃だろうが、早めに仕事に入ろうか――。

 そう思って腰を浮かしかけた志季の耳につんざくような悲鳴が突き刺さる。

 

 まさか、と思うのと、己の名が叫ばれるのは同時だった。



 

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