帝都あやしの花祓い 疫病神と疎まれた冬の乙女は、黒の従者とともに花開く

高里まつり

帝都あやしの花祓い

プロローグ




 ぽた、ぽた、と。

 氷柱つららから不規則に落ちる雫が、座敷牢の湿気しけた畳に水溜まりをつくる。

 ――もう朝か。

 志季しき戦慄わななく腕をかき抱いて目を閉じる。歳の割に女の匂いの乏しい身体は、すっかり外気と同じ温度をしていた。

 さむい、と呟くと吐いた息が白いもやとなって立ち上った。足先の感覚はとうの昔に失われていた。


 牢に入れられてからどれほどの日が経ったろう。空腹で頭がぼんやりとして、感覚が鈍くなっていた。

 頭上の明かり取りは黎明れいめいの空をまあるく切り取っているのに、牢内は未だ夜のようにくらくて。寒くて、冷たくて、寂しくて、悲しくて。擦り切れた心が凍てつきそうだった。

  

 ――見つけた。

 

 ぽつり、と。

 水滴に混じり、低く落ち着いた声が鼓膜を揺らした気がした。


 鉄格子てつごうしもたれて膝を抱えていた志季は、声に反応してゆっくりと目を開けた。 

 人影を探すも鉄格子の向こうは変わらず無人で、埃っぽい空虚な黒が広がっている。

 

「だれかいるの?」


 久方ぶりに出した己の声が酷くかすれていることに顔を顰めた。


「こんな寒々しい場所にいらっしゃったとは」


 今度ははっきりと声が聞こえた。若い男の声だ。


 声の主を探して目を凝らしていると、入口付近の暗がりからぬらりと人影が現れた。

 歩みに合わせて徐々に男の身体の輪郭が浮かび上がる。全身が見え、出で立ちに思わず息を呑む。

 

 男は頭の先から足先まで全身黒尽くめだった。足袋たびや手にはめた手袋までもが黒く、まるでからすのよう。唯一の色は、顔だけだ。

 男は着物の裾を揺らし鷹揚おうような歩みで近づいてくると、牢の前で膝をついた。


「ああ、なんてむごいことを」


 顔立ちからして歳は二十代半ばくらいか。暗闇でもよくわかる冴え冴えとした美丈夫だ。しかし、服装のせいかどこか得体の知れない不気味さがあった。

 長い睫毛に囲まれた瞳は吸い込まれる程に深く、くろく、静かで。肩口に僅かにつく艶やかな黒髪がほっそりとした顔の輪郭を際立たせていた。

 

「頬はまだ痛みますか?」


 格子こうしの隙間から差し入れられた男の手がそっと左頬に触れてくる。見た目とは裏腹に口調と手つきは穏やかで、志季の警戒心がわずかに緩む。


「もう痛みはありませんから」

 

 おずおずと志季が返答すると、男は労るように頬を撫でてきた。 

 牢に入る前に遣手婆やりてばばに殴られた頬のことを言っているのだろうか。

 痛みは随分前に引いている。長らく手鏡を見ていないので頬がどうなっているのか理解していないのだが、男の反応を見るに良い状態ではなさそうだ。打撲痕にでもなっているのだろうか。

 

「ずっとお探ししておりました。もっと早くに見つけて差し上げるべきでした」


 何度も繰り返される、見つけるという表現。

 この人に探される理由がわからない。戸惑いからじっと見つめ返すと、男が悠然と微笑んだ。


「さあ行きましょう、志季さま」


 男は自分の名前を知っている。更に戸惑いが募る。


「どこへ行くのですか?」

「牢の外へ。花街の外へですよ」


 男の薄い唇の端が持ち上がる。


「私の名はとばり。あるじをお迎えに上がりました」

 

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