第7話

 翌日、私は朱里の墓地に向かった。墓石の前に立ち、昨日渡せなかった花を手向ける。

「朱里……昨日、来れなくてごめんね」

 返事はない。

「…………」

 じんわりと視界が滲み出す。

 奥歯を噛み、涙をこらえて私は朱里に話しかける。

「ずっと私のこと見ててくれたんだよね。お母さんとお父さんのぶんも、ずっと……」

 制服の袖で涙を拭う。

「これからは、私がお母さんとお父さんのこと守っていくから。もう、心配しないでね」

 もう、あの頃のようには戻れないかもしれないけれど。それでも、家族だから。

 その瞬間、強い風が吹いた。

 秋の少し冷たい風が髪をさらい、落ち葉が舞う。

 前に垂れた髪を耳にかけながら、私は茜色の空を見上げた。

 空に向かって、はっきりと告げる。

「私はもう、大丈夫だよ」

 爽がいるから。爽が私の存在を見つけてくれたから。

 運命なんて言葉、だいきらいだった。

 だけど今は、この出会いが運命であってほしいと願っている。

 幸せってこういうことなんだって信じたい。もっと、知りたい。

 今はもう家族はばらばら。あなたがいなくなってしまった事実も変わらないけれど……。

 ……だけど、もう怖くない。寂しくもない。私がいつまでも泣いてたら、あなたが安心して眠れないもんね。

 金木犀の香りがする空気を胸いっぱいに吸い込み、墓石を見る。

「また来るね、朱里」


 これは、過去に背を向けたわけではない。ただ、今と向き合い始めたのだ。

 ――だけど。

 神様は、そう簡単には私を許してはくれなかった。


 爽と付き合い始めて数週間したある日、授業中に爽が倒れた。

 体育の時間、マラソンで校庭を走っていたときに突然昏倒したらしい。

 爽が倒れたと聞き、保健室に向かっていると、慌てた様子の先生に止められた。先生の表情は切羽詰まっていた。

 授業は中断され、私たちクラスメイトは教室で一時待機するよう告げられた。

 自習なんて言われても、勉強が手につくわけもない。もやもやと考え込んでいると、窓の外から救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

 ハッと顔を上げる。

「爽……」

 いやな予感が胸中に広がっていく。

 自習が終わると、先生が教室に入ってきた。簡単に爽の容体が伝えられる。

 案の定、私のいやな予感は的中していた。救急車で病院に運ばれたのは、やはり爽だった。

 先生によると軽い熱中症で倒れたという話だったが、念の為病院で検査を受けるために救急車で運ばれたのだという。

 先生は、それ以上はなにも言わなかった。爽が運ばれた病院先も、いつから爽が学校に来るのかも。かといって爽に連絡したところで、彼から返信があるわけもない。

 私は、やきもきしながら数日を過ごした。


 爽が倒れて五日が経った朝、学校に登校すると、当たり前のように爽がとなりの席に座っていた。

「あっ! おはよ、陽毬」

「え……?」

 戸惑いを隠せないまま、私は爽に駆け寄る。

「爽!? どうして……?」

「どうしてって、なにが?」

 爽はきょとんとした顔で私を見上げた。

「なにがじゃないよ! ぜんぜん連絡ないから、すごく心配したんだよ!」

「ごめんって! てか先生もお母さんたちも大袈裟過ぎるんだよ。ただの熱中症だし、ぜんぜん心配ないから安心して。ごめんね、連絡できなくて! 退院の手続きとかでいろいろドタバタしててさ」

「それはいいけど……本当に大丈夫なの? もう普通に学校通えるの?」

「うん、もちろん! ぜんぜん平気だよ」

 その笑顔は、いつもの爽の弾けた笑顔とどこか違って見えて。口調も、いつもの爽らしくないように聞こえて。

「……本当に?」

「陽毬まで心配し過ぎだよ」

 じゃあ、顔色が悪いのはどうして?

 青白くて、今にも倒れてしまいそうだよ。唇も血色がないし、少しかさついているように見える。

「……ねぇ、爽。今日、一緒に帰れる?」

「おう」

 放課後、公園に立ち寄った私は、爽にまっすぐに訊ねた。

 うそはいや。私たちは恋人同士なんでしょ。なら、教えてよ。本当のこと、言ってよ。

 爽の目をまっすぐに見て訴えると、爽は困ったように俯いた。

「参ったなぁ……陽毬には黙ってたかったんだけど」

「話してくれないなら、もう口聞かない」

 不機嫌な声で言うと、爽はやれやれと苦笑した。 

「それはやだな」

「じゃあ話して」

 強気の口調で言うと、爽は少しの間沈黙した。

 そして、真剣な顔で言った。

「……治らない持病を持ってる。余命宣告も、受けてる」

「え……」

 爽の告白はとても信じられなかったけれど、その表情は冗談を言っているようには思えない。だからといって、簡単に受け入れることはできない内容だった。

「うそ……だよね?」

「残念ながら本当。たぶん俺、来年まで生きられないと思う」 

「なにそれ……」

 信じられない。だって、来年まであと二ヶ月もない。二ヶ月後には、爽はもう……?

 目の前が真っ白になる。

「心臓に爆弾を持ってるんだ。この間倒れたのはそのせいで……次、発作を起こしたら助からないって主治医から言われてる」

「手術とかは……」

 爽は静かに首を振る。

「もう身体が持たないんだって」

「でも、じゃあ薬で」

「もう試せるものがないんだって」

「そんな……うそ。絶対うそだよ、そんなの。だって爽、今、こんなに元気なんだよ? ぜんぜん、病気なんて」

 こんなの、受け入れられない。なんで? せっかく前を向き始めたのに。なんで神様は、私の大切なものばかり奪っていくの……。

「生まれつき心臓が弱くてね……。陽毬と出会うずっと前から、もう長くないって言われてたんだ。むしろここまで生きてたことが奇跡って言われてたくらいなんだよ。だから家族で話し合って……もう治療はせずに残された人生を楽しもうってことで高校に入ったんだ」

 意外だろ? と、爽はなんでもないことのように笑っている。私は信じられないものを見るように爽を見つめた。

 なんでこの人は笑っているのだろう。ぜんぜん、笑えないのに。

「でも、高校に入って本当に良かったと思ってる。こうやって陽毬に出会えたからさ」

「……どうして」

 爽は私の頭に手を置くと、優しく撫でた。その大きな手のひらは、悲しいくらいにあたたかい。

「俺、いろいろ制限された中で生きてきたからさ。恋なんて、俺にはまるっきり関係のないできごとだと思ってたんだけど。一目惚れって、マジでするもんなんだな」

「…………」

「友達と放課後買い食いとか、可愛い女の子が都会から転校してくるとか。しかも自分がその子と恋人同士になるなんて、夢にも思わなかった。なんだか、ドラマの主人公になった気分だったよ」

 私なんかの、どこが。

 容姿は人並み。特別目立つ個性もない。

「……私なんて、ただの一クラスメイトだよ」

「そんなことないよ。陽毬は、俺が今まで出会ってきた女の子の中でいちばん可愛いよ」

「……大袈裟」

「そんなことないよ。可愛くて、話しかけずにはいられなかったんだよ。それで、陽毬のことを知れば知るほど、陽毬っていつも泣きそうな顔してるなぁって気付いて」

「…………」

 見上げると、爽はほんの少し寂しそうな顔をして私を見下ろしていた。

「どうにかこの子を笑わせられないかなって、ずっと思ってたんだ。初めて笑ってくれたときはめちゃくちゃ嬉しかったなぁ」

 心底嬉しそうに表情を緩ませる爽から、私はふいっと視線を逸らした。 

「……変な趣味」

 ぼそりと言うと、爽は声を出さずに笑う。

「ひどいなぁ。陽毬だって俺のこと大好きなくせに」

 じろっと爽を睨んでから、私はその手を取った。爽はなにも言わず、私の手を優しく握り返してくる。胸がぎゅっと締め付けられた。

「……あと一ヶ月って、本当なの?」

「……うん」

「なんとかならないの?」

「……なったらいいんだけどな」

 それなら爽は、自分がもう長くないって分かってたのに、私と付き合ったの? なんのために?

 身勝手にもほどがある。

「……ぜんぶ分かってたなら、どうして付き合ったりなんかしたの」

 責めるように言う私を、爽は悲しそうに見つめている。

「……ごめん」

「勝手過ぎるよ! 自分はさっさといなくなるくせに! 残された私のことは考えてくれなかったの!?」

「……ごめん」

 違う。こんなことを言いたいわけじゃないのに……。

「爽のバカ! バカ!」

「ごめん。でも……」

 爽が私の手を強く引く。

「離して!」

 私はそれを、力の限り振り払った。ぱちん、と乾いた音がふたりの間に響く。

「陽毬……」

 爽の体から、力が抜けていくのが見てわかった。 

「……こんなことなら、会わなきゃよかった」

「陽毬」

「爽に会わなければ、こんな気持ちにならずに済んだのに! 爽なんて好きになるんじゃなかった!!」

 これ以上爽の顔を見る勇気がなかった私は、その場から逃げ出した。

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