第5話

 それから、立花くんは今まで以上に私に絡んでくるようになった。

 私のどこを気に入ったのか分からないけれど、彼の態度は、明らかに好きな異性に対するもので。

 鈍い私ですら、彼が私に恋愛感情を抱いていることに気付いてしまった。

 そして、その純粋な好意に私も惹かれつつあった。だれかに愛されるという感覚があまりにも心地よくて、私は自分の罪も忘れて……浮かれていた。


 ――立花くんに告白されたのは、朱里が死んだ日だった。

 なんだかんだ立花くんの押しに負けて、放課後は一緒に過ごすようになっていた私たち。

 周りには既に、私たちは付き合っているのだと誤解されるくらいの距離感になっていた。

「宝生〜、そろそろ帰ろ!」

 その日も放課後になると、立花くんはいつものように私に声をかけてきた。けれど、今日だけは一緒に帰ることはできない。

「今日はごめん。寄るところがあるから」

 今日は、朱里の命日。お墓参りにいかないといけないのだ。

「どこか行くの?」

「うん。ごめんね」

 詳しいことは言わずに、私は曖昧に微笑みを作る。すると、立花くんはそれ以上はなにも聞かず、笑顔になった。

「……分かった! じゃ、また明日な!」

「うん。またね」

 何気なく手を振り返す。立花くんが教室から出ていくと、途端にその手がずっしりと重くなったような気がした。

『また明日』

 ――なんて、絶望的な響きなんだろう。


 放課後、私は朱里が眠る墓地に来ていた。仏花を買い、墓石へ向かうと、先客がいた。

 見覚えのある横顔。母だ。母は墓石に縋り付くようにして、まるで子どものように声を上げて泣いていた。

「朱里……ごめんね……痛かったよね、苦しかったよね……守ってあげられなくて、ごめんね……」

 母の中で朱里の死は、まだ受け入れられていない。消化されていないのだ。

 私は手に持っていた花を手向けることなく、静かに墓地を出た。

 家に帰る気にならず、私は近くの公園に入ると、小さなゾウの遊具に座り込んだ。

 母の泣き顔によって、浮かれていた心が地の底に落ちたようだった。

「……そうだった……私、人殺しなんだった」

 ぽつりと呟くと、どこか遠くでカラスが同意するかのように一度鳴いた。

 なにを浮かれていたんだろう。なに、当たり前のような生活をしようとしていたんだろう。

 犯した罪を忘れて、私だけのうのうと人生を楽しむなんて……そんなの、絶対に許されないのに。

 ぽろっと涙が落ちる。両手で拭っても、ぜんぜん涙はおさまらない。

 声を殺して泣いていた、そのときだった。

「……あれ、宝生?」

 ふと、声が聞こえた。

 よりにもよって、一番聞きたくなかった声――立花くんだ。

「なにしてんだよ、こんなとこで。今日はなにか用事があるって……」

 振り向かずにいると、ぽんと軽く肩を叩かれた。

「もう、無視すんなって……」

 後ろから顔を覗き込まれて、目が合った。私が泣いていることに気付くと、立花くんは一瞬驚いたような顔をして、口を噤む。

「宝生……なんで、泣いて……」

「っ……」

 立花くんの顔を見た瞬間、さらに涙があふれて、視界が滲んだ。

「えっ? ちょっ、宝生? えぇ……っと、よしよし、泣くなよもう、大丈夫だから」

 立花くんはおろおろとしながらも、私が泣き止むまで静かに背中をさすり続けてくれた。


「――それってさ、仏花……だよな?」

 泣き止んだものの、遊具に座ったまま黙り込んでいる私に、立花くんが控えめに訊いた。

「……うん」

 小さく返事をしてから、「さっきはいきなり泣いてごめん。もう大丈夫だから」と謝る。

「……ねぇ。泣いてた理由、聞いてもいい?」

「……どうして?」

「宝生のこと、もっと知りたいから」

 立花くんは控えめだけど、まっすぐに目を見て言う。その純粋な眼差しから、私は目を逸らして答える。

「……聞いたって、楽しい話じゃないよ」

「それでもいいから話してよ」

「…………」

 少し黙り込んでから、私は口を開いた。

「……今日は朱里の……姉の命日だったんだ」

「え……」

 予想外の内容だったのか、立花くんは驚いた顔のまま、固まった。

「東京に住んでた頃、ふたつ上の姉がいたの。朱里って言うんだけど……朱里は優しくてきれいで……大学も、有名な国立大を狙えちゃうくらい頭良くて。……でも、二年前事故でね……。長野に引っ越してきたのは、朱里のお墓があるからっていうのと、母方の実家があるから。朱里が死んで、うち離婚したんだ」

「……そうだったんだ」

 立花くんは目を伏せた。

「……辛かったね」

 ぶんぶんと首を振る。

「辛かったのは、両親と朱里。だって朱里は――私が殺したんだもの」

「え……」

 となりで、ひゅっと息を呑む音がした。

「私、朱里がいた頃はちょっとやさぐれてたっていうか……とにかくいい子じゃなかったんだ。優秀な朱里といつも比べられてたから、両親にも反抗的で。朱里にもいやな態度ばかりとってたと思う。それでも朱里は、昔から私のことをよくかまってくれてたんだ」

 今思えば、私のことを本当に理解してくれていたのは、朱里だけだった。それなのに、私は……いちばん大切なひとを、自分のせいで失った。

「二年前の今日、私は学校に行かないで街をふらふらしてた。そうしたら、朱里がわざわざ学校を早退して迎えに来て……。信号待ちしてた私は、朱里に気付いて咄嗟に逃げようとしたの。そうしたら、朱里が慌てて追いかけてきて……」

 赤信号にも関わらず、横断歩道に飛び出してしまったのだ。

 その事故は一瞬で、私の大切なひとを奪っていった。

 あの日から、耳の奥ではずっとトラックの急ブレーキの音とクラクションが鳴り続けている。 

 トラックに撥ねられた朱里は、即死だった。朱里は血溜まりの中で目を開けたまま、私がいくら呼びかけてもぴくりとも動かなかった。

「あのとき私は……朱里の小言を聞くのがいやで逃げた。優秀な朱里に私の気持ちなんて分からない。毎日比べられる私の気持ちなんて分からないんだから、放っておいて……って。今なら、何時間説教されたってかまわないのに……」

 今さら願ったところで、朱里の声を聞くことはもう二度と叶わない。

「お母さんとお父さんは、私と違ってできのいい朱里のことをすごく可愛がってたんだ。朱里は頭がいいだけじゃなくて、器量が良くて、きれいで、優しかったから。ふたりにとって朱里は、自慢の娘だったんだと思う」

 けれど、その自慢の娘は死に、代わりに残ったのは欠陥品の私だけ。

 あの日から、家の中で会話がなくなった。ため息とか、喧嘩の声ばかり響くようになって、いつしかお父さんは、家に帰ってこなくなった。

「あの日死んだのが私なら、こんなことにはならなかった。事故で死んだのが陽毬のほうだったら、家族はばらばらにならずに済んだの。……だから、私は朱里になるの。たくさん勉強していい大学に行って、いつか私が自慢できるような娘になったら、ふたりはきっと笑ってくれる……またあの頃みたいに」

「ちょっと待てよ、なんでそーなるんだよ? お母さんとお父さんが宝生に姉の代わりになれって言ったのか? そうしたらまた戻ってきてやるって、お父さんが言ったのか?」

 私は小さく首を振った。

「……でも、ふたりは朱里のことをすごく可愛がってたから。朱里が死んじゃったから、家族はバラバラになっちゃったの。朱里さえ戻ってくれば」

「それは、宝生の勝手な思い込みだろ? ふたりは、宝生のことだってきっと……」

「勝手なこと言わないで! なにも知らないくせに……お母さんもお父さんも口にしないだけで、死んだのが朱里じゃなくて私だったらって思ってるに決まってる! ……私が死んでれば……ふたりが別れるなんてことにもならなかったはずなの」

 立花くんは思い切り私を抱き締めた。立花くんの胸に顔を押し付けられて、言葉が途切れる。

「もういい! ……宝生、もう話さなくていいから」

「…………」

 私は立花くんにしがみつくようにして、声を噛み殺しながら泣いた。

「俺は、宝生に会えて本当に良かったと思ってる。だからさ、頼むから私が死んだらなんて……そんな悲しいこと言わないでよ」

 しゃくり上げる私を抱き締めたまま、立花くんは悲しそうな声で言った。

 しばらくして泣き止んだ私に、立花くんは言った。

「俺、宝生のことが好き。宝生が転校してきた日からずっと、好きだった」

 立花くんのそのひとことは、からからになっていた私の心の奥深くに染みていった。

「俺と、付き合ってください」

 思考回路がショートしたようになにも考えられなくなる。

「……ダ、ダメ……かな?」

 呆然としたまま返事をしない私に、立花くんが不安そうに訊ねてくる。その顔を見てようやく、ハッとした。

「な、なによいきなり。そもそもどうして私なんか……可愛い子は、ほかにいくらでも」

「俺は、宝生がいいんだ。宝生の代わりはいないんだよ」

「私は……」

 どこまでもまっすぐな瞳に、言葉が出てこない。

「きっとお姉さんは、とても宝生のことを愛してたんだね」

「そんなこと、どうして分かるの?」

「だって、お姉さんはいつも宝生をかまってたんだろ? きっと、宝生が寂しいって思ってたこと、お姉さんだけは気付いてたんだ。だから、だれより宝生のことをいちばんに考えてた。そんな優しいお姉さんが、宝生にじぶんの代わりになって生きてほしいなんて願うはずないじゃん」

「……っ」

 あの頃私は……私に背を向ける両親になんとか振り向いてほしくて、わざと気を引くようなことをして悪ぶってた。ずっと、朱里だけは見ていてくれたのに。それなのに、私は朱里に背を向けて……。

 今さら気が付くなんて……。

 返事なんてものを返す余裕もなく、私はまた泣き出した。

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