薔薇の残骸

夜市川 鞠

忘却のグラジオラス


 何かを忘れることは、思い出すより随分簡単に、脳内に組み込まれている。

 例えば、昨日食べた夜ご飯のこととか、先生に出された宿題の内容とか。死んだおばあちゃんの好きだった食べ物や、従兄弟のお姉ちゃんの誕生日だって、大切なことのようでいまや全く覚えていない。

 きりぎりすとの待ち合わせまであと10分。私は、ついこの間忘れられたみさきちゃんのことを考えている。

 みさきちゃんは私の親友で、きりぎりすの恋人だった。そして、たまに私の恋人と寝たりする女だった。ある時、恋人はみさきちゃんのことがどうでも良くなってしまって、連絡先を消した。つながりが途絶えて安心したけれど、今も恋人の秘蔵フォルダには、みさきちゃんの動画が残っているのを知っている。たまに、ふと思い出したみたいに、夜な夜なデータを引っ張り出して、ひとり果てている。私なんかいないみたいに、馬鹿みたいに。

 私も、要らなくなったら忘れられちゃうんだろうか。たぶん、忘れられちゃうんだろうな。今というこの瞬間だって、忘れられているのだから。

 あれから、みさきちゃんとは一度も会っていない。合わせる顔がないのはお互い様だった。

 先に頼んでいたアイスコーヒーが氷を吸って水っぽくなっている。グラスの下には水溜まりができていた。暑い夏の日なのに、その様はちっとも涼しくない。

 白い漆喰の壁に、古びた木製のテーブル。オルゴールの流れる落ち着いた空間は、恋人のお気に入りの場所だ。

 私のすぐそばで恋人はコーヒーを忘れて、「モテるためのなんちゃら」とかいう本を公共の場で読み耽っている。そういう変に抜けているところが、女の気を引くことがあるのを本人はわかっていない。

 入口のベルが鳴って、きりぎりすがやってきた。カウンター席にいる恋人を横目に、私たちはテーブル席で向かい合って座る。


「久しぶり。まだ忘れられてなかったんだ」

「なんとか…ね」


 こうして確かめ合うことが、私たちの日課になっている。きりぎりすはメニューを広げ、かつてみさきちゃんが好きだったボロネーゼを注文した。

 私は、恋人が好きなショートケーキを頼んだ。


「みさきちゃん、消えちゃったね」

「消えたな。綺麗さっぱりと。たぶん、もう会えない」


 それは、私が恋人の要望によって、きりぎりすと関係を持ったからだろうか。運ばれてきた真っ赤なボロネーゼは、湯気を上げて、きりぎりすの眼鏡を曇らせた。けれど、私のせいかな、なんて言うのは違うし、そもそもきりぎりすと関係を持ったのは恋人の意向であって、私の意思ではなかった。

 私の前へショートケーキが運ばれてくる。韓国風とかいう流行りのショートケーキは、きれいな形を保っておらず、小さい子どもが作ったかのように、乱雑にクリームで覆われていた。


「……寂しくないの?会えなくて」


 いちごにフォークを挿しながら、恋人が見ていた動画を思い浮かべる。

 みさきちゃんは、私の知らないところで、あんなふうにに鳴いて、恋人に縋りついていたんだな、と。きりぎりすの前でも、みさきちゃんはあんな、愛おしく歪んだ顔をしていたんだろうか。考えれば考えるほどいらいらして、私は大好きないちごだけを先に全部食べてしまおうという気持ちになる。

 サクッと新鮮な音と、甘酸っぱい果実の味が口の中に広がった。


「寂しいとか、そういう感情はもともと持ち合わせてないよ。君もそうだろ?」


 きりぎりすに言われて、本当にそうだと思った。君もそうだろ、には、だから僕と寝たんだろ、と言う意味が込められていた。

 私がきりぎりすと体を重ねたのは、恋人が望んだからだった。私が、他の人に組み敷かれているのを、恋人が見たいと熱望したからだった。私は、それに答えるしかなく、きりぎりすも、それに応じるしかなかった。

 きりぎりすは、私と寝ないとみさきちゃんの動画が世にばら撒かれる危険性があったし、私は恋人に忘れらたくなくて、ずっと見ていて欲しくて身体を許した。たったそれだけのことだった。

 たったそれだけのことなのに、私は悲しかった。恋人はいつまで経っても抱いてくれないのに、他の男に身体を売らせようとする。私は今までに何百回も、他の男に抱かれてきた。けれど私は、恋人のことが好きで好きでたまらない。彼の望むことなら、なんだってしたいと思ってしまう。

 私の頭は半分が私で、もう半分は恋人のものだった。私は彼の意識の奴隷なのだ。


「でも、自分にちゃんと意思があるって、思いたいんだよね。わかるよ。僕もそうだったから」


 僕もそうだったから、とは、みさきちゃんを好きだと思い込んでいたことを指しているんだろうか。


「君は、今はその恋人のことが好きなのかもしれないけど、もしかすると、いずれ僕のことを好きになってしまうかもしれないね」

「きりぎりすのことは、好きじゃない」


 これは本当のことだから、はっきり言った。私は好きで、きりぎりすを受け入れたわけではない。今までも、これからもずっと。身体は汚されても、私の心までは汚れないはずだ。


「君が僕を好きになることに、君の意思は関係ないと思うんだけど」


 甘ったるい生クリームが口の中に残っている。べたべたして、気持ちが悪い。流し込んだ水っぽいコーヒーはものすごく苦くて、まずかった。

 私は数時間後、恋人が眠りにつく直前、きりぎりすと身体を重ねないといけないだろう。恋人は、それを楽しみにしているから。

 きりぎりすは一定の速度でフォークで弧を描き、綺麗にスパゲティを纏めては口に運ぶ。私の恋人は、背中の裏側で、他の女の子を落とすことばかり考えている。

 この世は際限のない地獄だ。私の恋は実らないまま、飢えた身体ばかり貪られて。手のひらにすら触れることが許されないのに、他の人に抱かれるなんて馬鹿みたいだ。

 1時間が経って、私の恋人は席を立った。







  

 

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