苦難⑦ 黒い『毛玉』の正体
「四本足、毛むくじゃら、霜、それに『叔母ちゃん』……」
玄関の床に散らばった毛や煤を掃除しながら、ドーチェはブツブツと呟く。
突如この家に飛び込んできたあの大きな『毛玉』。
その一部の特徴を除けば、彼女はあれ……否『彼』に出会ったことがあった。
忘れたくても忘れられない、【世界樹】の下層で自分を殺しかけたあの『狼』だ。
恐ろしくも美しいあの立ち姿を思い出す度、貫かれた腹がじくじくと痛む。
その度にドーチェは傷痕がある下腹部を何度も擦り、安堵の溜息をつくのだった。
(大丈夫、傷はしっかり塞がってる……)
老人の姿をしていたとはいえ、
しかしそうやってあの狼のことを思い出していると、ドーチェに一つの疑問が生まれる。
(あの『毛玉』は、本当に『彼』なの?)
彼——【狼の王】の息子、確か『ソーン』と名乗っていたか。
彼について語るとき、一番印象に残っているのはその『白い毛並み』だ。
初めて出会ったドーチェが思わず『綺麗』と言ってしまったくらいにその毛並みは美しく、下層に咲く夜光草の光によく映えていた。
彼の下品な言動と、殺されかけたという事実さえなければ、別の意味で旅のいい思い出になっていただろう。
一方で、この床の惨状を作り出した『毛玉』を一言で表わすなら『真っ黒』だ。
もしかすると、何らかの理由で黒く焼けてしまったのかもしれない。
事実あれが現れた直後には、彼女も硫黄のような匂いを感じていた。
けれども、そんなことができるモノが存在するのだろうか?
殺されかける前に見た彼が操る氷の【呪文】や【印】は、余りにも強大だった。
呪いのせいで『戦えない』とはいえ、『神』であるタイラーの頬に一筋の傷をつけたのだから。
だから、タイラーと同じ『神々』ならまだしも、【戦乙女】や【エインヘリヤル】、下層に出現する【
そんな彼を退けて、逆に返り討ちにする存在。
それが神々ならその大きな気配ですぐにわかるはずだが、今回それはなかった。
(だとすれば、一体誰が……?)
そもそも彼は【邪竜堕とし】の後、どこに潜んでいたのだろう?
それに彼が現れたということは、その叔母である『ヘル』がまた【世界樹】へと侵攻しようとしているのかもしれない。
その尖兵として放たれた彼は、誰かに戦いを挑んで敗れたのではないか?
けれども、まだその後ろには……
次々と湧いてくる悪い予感が、ドーチェの胸をざわつかせた。
(ともかく、今はタイラーさんに任せるしかないよね……)
ドーチェが汚れた両手を叩き合わせ、表面の煤を払う。
ふうと息を吐いた彼女の目が向いたのは、玄関から伸びる廊下の奥、浴室だった。
あの中では今、タイラーがあの真っ黒い毛玉と格闘している。
タイラーとドーチェに恨み節を吐いた後、『毛玉』は力尽きて大きな音と共に床へと横たわった。
タイラーは本当に意識を失っていることをその身体に触れて確認すると、ドーチェの三倍はあるその巨体をヒョイと抱きかかえてこう言った。
『こいつには色々と聞きたいことがある。だがまずは、この煤を落とさなくては』
そう言って彼はドーチェに床掃除を命じ、毛玉を抱えたまま浴室へと向かっていったのであった。
それから、おおよそ二時間が経った。
一人入ればいっぱいになるその狭い浴室からは、時々咳に混じって
『ええい、毛量が多すぎる!』
『湯に氷が張っただと!?』
『気を失っているくせに、なぜにやけているのだコイツは!』
といったタイラーの悪態が聞こえてきた。
最初はドーチェも手伝おうとしたが、彼に
『こいつが意識を取り戻したとき、あの狭さでは守ってやれん』
と言われ、仕方なく命じられた床掃除をしていた。
しかし、彼の悪態を聞くにつれてドーチェは、
(タイラーさん、楽しそう……)
と彼を羨んだ。
そうこうするうちに、床掃除も終わり、毛と煤も全て袋詰めしてしまった。
そうなると……
(様子だけでも、聞いてみようかな?)
うん、そうしよう。 別にタイラーの邪魔をするわけじゃない。
そう思ったドーチェは、そろりそろりと浴室に近づく。
そして、「こちらは終わりました」と伝えるために口を開いた、その時……
「ドーチェ! 大きなタオルをできるだけ玄関に敷き詰めてくれ!」
いきなり浴室からタイラーの声が聞こえ、ドーチェは竦み上がる。
「えっ、タ、タオルですか!?」
「そうだ! この家にあるだけ全部、お前の持ってきたものも貸してくれ!」
「わ、わかりました! えーっと……」
ドーチェはその場でキョロキョロし始める。
この家にはそれなりに長く住まわせてもらったが、把握しているのは納屋の中だけで、母屋にはどこに何があるかはまだよく知らなかった。
それを知ってか知らずか、タイラーから別の指示が飛んでくる。
「いや、やっぱりタオルは少なくていい! 納屋にある藁のムシロ、まずはそれを大至急持って来い!」
「は、はい!」
タイラーに命じられるがまま、ドーチェは納屋へと走った。
棚の上にムシロを見つけると、それを抱えてすぐに母屋に戻って来る。
するとそこには、すっかり白くなった毛玉——もとい『ソーン』を抱き抱えたタイラーが膝を曲げて立っていた。
「よし、ここへそれを一気に広げろ! そうしたらコイツをそこに落とす!」
「落とす!?」
「ああ……思った以上に重くてな。 さっきから義手が悲鳴を上げている!」
「えぇぇ!? だ、大丈夫なのですか!?」
「大丈夫じゃない! だから一気に広げろと、言っているんだ!」
「ひゃ、ひゃい! わかりましたぁ!」
歯を食いしばっている彼の形相に恐怖を感じたドーチェは、慌ててむしろの結びを解き、端を持ったまま思い切り投げ上げる。
その重さと勢いで身体が持っていかれそうになったが、何とか踏ん張った。
「落とすぞォォォ!」
掛け声とともに、限界を迎えたタイラーがソーンを投げ落とした。
それに対してドーチェも「はぁぁぁい!」と答え、ソーンの巨体がムシロを超えていかないよう、両手を広げる。
しかし……
「ぶぎゅ!?」
濡れていたせいかソーンの身体がむしろの上を滑り、ドーチェの下半身を直撃。
そのままソーンに潰された彼女は、あおむけに倒れて天井を仰いだ。
「ドーチェ!?」
タイラーが自分を心配する声がする。
けれども、その声に耳を傾ける余裕も彼女にはなかった。
意識を手放す直前、彼女が聞いたのは腹を伝って聞こえたソーンの寝言だった。
「ヘル叔母ちゃん、なんで俺じゃないんだ……」
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