第35話 ディナー

 朝礼の後、一俊はすぐに社長室に飛んでいき、部屋の中央・奥の高価な革張りの椅子に座る杉野に食ってかかった。


「社長!どういうことですか…?役員の我々だって何も聞かされていませんよ!」


「いやね飛知和ひちわ君、昨日突然、私の携帯に梅ケ谷さんから電話がかかってきてね…」

(杉野は心の中で、『友人でも何でもないのにどうやって番号調べたのかな~』と付け加えた。やっぱり国家権力はこわい。)


杉野はチラッと横目で見る。杉野の横には先ほど挨拶したから来たという梅ケ谷と名乗る若造の役人が立っていて、さてこれから杉野と話を、といった雰囲気の中、一俊が割って入ったのだ。


「私も梅ケ谷さんとは今日が初対面なんだよ。政府の方でも突然決まったみたいでね」


「そんなムチャクチャな… 政府系の企業の傘下って、買収されるということですか?」


「大変に急なお話で、こちらとしても大変申し訳なく思っております」


困り顔の杉野に代わって、梅ケ谷がペコリと頭を下げながら答える。顔を上げた梅ケ谷は、右側のフレームを指先でつまんで眼鏡の位置を直す仕草をした。


「先だっての東京オリンピックの際の談合が疑われている件が直接の原因です。今回の疑惑は国の信頼に関わる問題ということで政府は重く見ておりまして。電信グループ解体の行政命令を出す案も出ました」


「…!!」


「しかしながら、電信は日本を代表する優秀なビジネスマンを数多く抱える大切な企業ですから。何とかグループは存続させる方向で話はまとまりました。その代わり、少なくとも一定期間は行政の監視下で公正な業務を行っていただくために、ギャラクティカという政府系の企業の子会社になっていただくという形式を取らせていただきます。経営陣の中にアドバイザーや監査役として、私を含む政府の人間やギャラクティカの人間が出向してきますので、よろしくお願いします」


(けっ。なーにが『よろしくお願いします』だ、バカヤロウ。俺たちの電信を監視するだと。できるもんならやってみやがれってんだ。)


「そういえば、あなたが飛知和一俊専務ですね。ちょうどよかった」


「…は?」


「メディア関係各社に対した通達について、お話ししなければと思っていたところだったんです」


「…ッ!!!」



 まずい。まずい。まずいまずいまずい。

 あれから、梅ケ谷の鶴の一声で、メディアに対する緘口令かんこうれいは撤回され、今やまたたく間に情報が拡散された。各種週刊誌もネットニュースも、大手新聞ですらも『青祥学園・性的いじめ動画撮影事件』のニュースで持ちきりである。しかもその黒幕と噂される女生徒の父親が電信の役員で、母親が超有名女優の寒川さんがわゆきということで、かなりセンセーショナルな話題となってしまった。


これでは学園側は記者会見を開かざるを得なくなる。証人として自分や萌が呼ばれることはまず無いと思うが… だとしても、これから自分や家族が行く先々さきざきで色んな記者が突撃インタビューに押しかけてくることだろう。想像するだけで憂鬱である。萌は… そうだ、留学ということにして、海外の高校に行かせよう。いかにしつこい記者でも、海外まではそう簡単にやって来れまい。



そんなことよりも…


「ハァ…」

一俊は悲哀のこもったため息をついた。


何よりも恐ろしいのは… 



そう、妻の幸だ。



 寒川幸は、今日は朝からドラマのロケの後、同ドラマの番宣(宣伝)を兼ねたバラエティ番組の収録をこなした。全部終わった時にはとっぷりと日が暮れていた。司会者、共演者、テレビ局のプロデューサー級の立場の職員たちに頭を下げ、「お疲れさまでした、失礼します」とにこやかに挨拶した幸が顔を上げて、人通りの比較的少ない廊下に出る――と、その眼はぞっとするほど冷たい。まさしく氷のような瞳をしている。以前、娘の萌が父親の一俊に抱き着き、顔が一俊からは見えなくなった瞬間に冷たい無表情へと変わったが、それと同じような、いやその何倍も凄みのある冷たさである。


楽屋で荷物をまとめてから通路に出ると、専属マネージャーの河野かわのが控えていて、きわめて自然な流れで荷物を幸から受け取ると、そのまま無言で幸の前を歩いてエスコートする。通用口へ向かう途中、新人らしい女性のテレビ局クルーとすれ違った。当然、クルーはビタッと足を止めて「お疲れさまでした!」と深々と頭を下げて挨拶した。相手は天下の大女優・寒川幸である。当然だろう。テレビでも、優しげな笑顔のイメージが強い。ここで優しく「お疲れさまでした」という返事を、その大女優からもらうことができれば、この新人はどれほど幸せな思いをしただろうか。


だが、期待した優しい言葉が大女優から帰ってくることはなかった。寒川幸は、そこに誰もいなかったかのように無言でクルーの横を通り過ぎていった。河野マネージャーだけが、申し訳なさそうに「お疲れ様です、ありがとうございました」と、やや小声で返した。


 テレビ局の駐車場には、送迎車のアルファードが停まっている。

 河野がリモコン式のキーでロックを解除してからドアを開けると、幸はアルファードの2列目のキャプテンシートに飛び乗らんばかりに素早く腰掛け、思い切り背もたれを倒して足の部分を跳ね上げ、座席をほぼベッドの状態にしてから目を閉じた。河野も心得たもので、ほとんど一切言葉を発することなく、飛知和家の邸宅に向かった。


 飛知和邸に到着したところで、河野は幸を起こす。

「幸さん。ご自宅に到着しました。」


「…もう着いたの…

明日の予定は?」


「明日は栃木で映画のロケです。現地に朝8時集合ですから、5時半に迎えに参ります」


「朝5時半って、もう今日は夕方の7時じゃない」


「…そうですね」


「気が休まらないわね… サラリーマンじゃあるまいし。今からスケジュールずらせない?」


「無茶言わないでくださいよ… 他の皆さんのスケジュールがありますので。何とか短時間で質の高い睡眠をお願いします。そのために事務所から最高級の安眠マットレスを送ったんですから」


「そっちこそ無茶言わないでよ。

 …仕方ないわね。明日よろしく」


「はい、一日お疲れ様でした。」



 送迎者を降りた幸が自宅のドアを開けると、遅番の家政婦が広い玄関の上がりかまちで待機していた。スケジュールが不規則な幸がいつ帰ってきてもすぐに食事や風呂の用意ができるように、ローテーションで24時間、誰かしら家政婦が常に待機している。 


「お帰りなさいませ、奥様。」


「お風呂は沸いているわね」

幸は家政婦の方を見向きもせずに、着ていた上着を脱いで放り投げるように手渡した。


「もちろんです」

幸の仕事が終わるタイミングで、おおよその帰宅時間は家政婦にRINEで秘書の河野から連絡が行くようになっている。


「今日の夕飯はなに?」


「ビーフシチューです」


「そう、美味しそうね」



 風呂から上がった幸が食事にありつくためにダイニングキッチンに向かおうとすると、地面が揺れた。小さな地震だ。それに驚いたのだろう、ニャー、と高くか細い声がして、黒猫が足元を横切った。幸と距離を保って、監視するかのようにこちらを眺めている。飛知和家で猫を飼った覚えはない。


、この猫はどうしたの?」


栗山というちゃんとした名前がある家政婦が答える。


「はぁ、それが… いつの間にかお庭でたまに見かけるようになりまして。萌お嬢様が、かわいいから飼いたいと。

 しばらく家の中をウロウロするとまた外に出ていくので、どこかの飼い猫ではないかと思うのですが。野良猫にしては毛並みが奇麗過ぎますので」


「じゃあ、他所よその家の猫ってこと?

 イヤだわ、気持ち悪い」


「そうおっしゃると思いまして、追い出すつもりだったのですが… 知らないうちに家の中にいるので、こちらもビックリするんです」


「ますます気味が悪いわね…黒猫だし。萌が勝手に家の中に上げてるのかしらね。エサをやったりはしてないんでしょう?」


「もちろん、そんなことはいたしません」

栗山家政婦は、たまに料理中に魚や肉のかけらをこの黒猫にあげていることは黙っていた。


「ならよかったわ。早めに追い出してね。

…ご飯を頂戴。」


「かしこまりました」




幸は、おいしそうなビーフシチューと上品に食べた。付け合わせはイチジクとブルーチーズの乗ったトーストと、サーモンとアボカドのサラダだった。下手なレストランよりも、よっぽど上等なディナーである。


「…家政婦さん」


「はい」


「美味しかったわ。ありがとう」


「お粗末様でした」


「…でもねぇ。」


「…」


「どう考えても、カロリーが高すぎるわ。体系維持って大変なのよ。

一日の終わりは疲れていてついつい全部食べちゃうから、それも見越してカロリーも量も少なくしてちょうだいって、以前も言わなかったかしら。」


「…はい、大変申し訳ございません」


「何度も言わないと分からないかしら。次はできます?」


「は、はい!必ず…」


「できなければ、辞めていただいて結構よ。河野かわのに次の人を探してもらいますから」



 幸が食事を終えたタイミングで、一俊が仕事を終えて帰ってきた。


「お帰りなさい、あなた。」


「幸…

こんなことになってしまって、すまない」


「しょうがないわよ。悪いのはあなたじゃなくて、萌とクラスメートたちなんでしょ?」

萌は、ニュースが世に出てから自室に引きこもって出てこない。家政婦が食事の世話をしているが、話し相手は猫だけなのだろう。


「それはそうだが…」

一俊は暗に『お前の力などあてにしていない』と言われている気がした。実際そうなのだろう。


「…それで?記者会見にはあなたも出るの?」


「いや、流石にそんなことにはならないよ」


「どうして?イヤよ、私。一度で決着をつけずに、だらだらと記者たちにつけ狙われるのは。」


「…」


「いい機会じゃない。たかってくる報道陣を一度にまとめて迎え撃ちなさいよ。私も同席するから」


「…え?」


一俊は、自分の耳が聞いたはずの幸の言葉を、にわかに信ずることができなかった。




「記者会見には、この寒川幸も出席します、って言ってるの」


(つづく)

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