第33話 電話
「…
「え、私ですか…?」
郁未は体育の時間のソフトボール以外、野球は未経験である。女子サッカーはいまでもクラブチームで続けており、運動神経には自信がある方ではあるが、あんな球は流石に…
「じゃあ、ピッチャーも私が変わるわ」
「…出しゃばってくんなよ。そもそも、オメーはそっちのチームのピッチャーだろが」
「あんたは手加減できないでしょ、金田一さん。可愛い生徒さんにケガでもさせたらどうするつもり?」
「チッ…」
「決まりのようじゃの。」
「あの…さすがにちょっと…」
郁未は、先ほどまでの金田一用務員ほどではないにしろ、星子事務員の球でも全く打ち返せないことは分かり切っていた。
「なに、大丈夫じゃ。」
そういうと九頭龍凛太郎は、小声で郁未に耳打ちした。
「儂の力をちっとばかし分けてやる。大丈夫、心配いらん」
凛太郎は、郁未の額に手をかざした。ポウッ、と光る凛太郎の指が郁未の額に触れると…
「…熱い…」
「儂の
体が燃えるように熱い。だが、苦しい暑さではない。校長室で味わった腹の底から燃え上がる憎悪の炎とは全く逆の、非常に心地よい熱さ。自信と力が漲ってきて、何でもできそうな気になってくる。
「さぁ、一発カマしてこい」
九頭龍凛太郎は、ポン、と郁未の背中を叩いてバッターボックスに送り出した。
「…何かしたわね。卑怯者」
星子こと星熊童子が目ざとく気づく。
「ハンデくらいやっても文句はないじゃろう。相手は普通の人間じゃぞ」
「…じゃあ、こっちも遠慮はしないわよ。」
郁未は足を肩幅より少し広めにとって、バットを大きく構えた。不思議な集中力で感覚が研ぎ澄まされている。時間の流れがゆっくりに感じる。
キャッチャーの亀井は、対戦した強豪校の(もちろん男子の)選手を含めて、これほど雰囲気のあるバッターに出会った記憶は今までになかった。
「…後で文句、言わないでよね」
星熊童子はそうつぶやくと、豪快な金熊童子とは一味違う、優雅な投球フォームをとった。金熊が剛なら星熊は柔というところか。滑らかに、空気の中を滑るような動きからの初球、ど真ん中に鋭いストレートを投げ込んだ。
だが、140km/hは超えていたであろうボールは、郁未の目には止まって見えた。
キン。
凛太郎が打ったときの爆発したような音とは違う、清らかに澄んだ音をたてて、高く左中間に舞い上がった打球は、そのままフェンスを越えてバックネットに突き刺さった。
♦
翌日から、「天才女子高生スラッガー現る」というタイトルの短い動画が、各SNSでバズりにバズり散らかした。不思議と、その前の凛太郎の打席の動画を収めた者は誰一人いなかった。郁未は、今までいじめられていたのが嘘のように、クラス内外で人気者になった。
「これ… ネットリテラシー講座の教材に使えるわね。成功例として。」
さすが仕事の鬼・氷の女王こと阿賀川七海である。
「九ちゃんの力無しで、再現性ありますかね…?」
凛太郎が自分の人格のまま、七海と一緒にスマホを覗いていた。
♦
数日後。
星子万優は一本の電話を事務室で受けた。よく知る人物からの電話だったので、今回はいつものように舌戦でやり込めるというようなことはせず、そのまま理事長室に繋いだ。
理事長の
「…はい。理事長の乳井です」
「週刊
ここまで淀みなくスラスラと言われてしまい、川崎には口を挟む猶予が与えられなかった。
「そんな事実は、把握しておりません」
「あれ、おかしいですね。退学の勧告に関する発言は、同席していた校長ではなくて理事長の口からあったと聞いているのですが。」
「…!」
そんな情報を知りえるのは、あの場にいた者だけだ。担任の教諭が裏切ったか。あるいはやはり、
「それでは取材にご都合の良い日取りの候補をお教えくださいますか。これから
またも“立て板に水”といった感じで、有無を言わさず話を進められてしまう。この記者は相当交渉ごとに慣れているのだろうか。
「…分かりました。取材を受けるかどうかも含めて、検討してお返事します。
週刊文秋さんでしたね。あなたのお名前は?」
「
珍しい苗字である。もっとも、『乳井』もなかなか珍しい苗字だが。
「それと。」
イハラと名乗った女の記者は、念を押すように付け加えた。
「記者会見のご準備をしておくことを、強くお勧めいたします」
(つづく)
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