第30話 IT
青祥学園高等部で新たに始まった『ITリテラシー講座』は、最初のうちは各クラスで七海か凛太郎か梅ケ谷の3人のうち誰かが教壇に立って『必修コース』として理論的な講義を行う。それが終わり次第、希望者のみを対象に『選択コース』と称して、七海・凛太郎の二人が同時に講師を務めながら実践的なIT技術の訓練を行う予定になっている。
今日は1年7組に対して、梅ケ谷が授業をしている。
「…この学校の皆さんのほとんどは大学に進学すると思いますが、大学での課題にしても、それから社会に出た後の仕事においても、ITに関する何らかのスキルと全く無縁のままで済むというケースは、ほぼ皆無と言っていいと思います。
例えば、何か製品を作る仕事をするとします。作るだけではお金が入ってきませんから、売りに行かなくてはいけない。当然、この商品の良さを説明したい。ではどうやって説明しますか。パソコンでパワーポイントなどで資料を作りますね。そのスキルがないと資料が作れません。
それから、今はインスタグラムやツイッターなどで情報を発信して顧客を獲得するという方法が営業の常識になってきています。SNSアカウント運用の知識も、広い意味でのITリテラシーに含まれます。SNSアカウントは当然星の数ほどありますので、放置していれば埋もれるだけです。知名度を上げるための適切な努力は必要になってきます。
このように、ITは『仕事の一分野』ではありません。現在世の中の「仕事」と呼ばれるものの中心にITがあると言って全く差支えがないような時代になりました。ですから、随分と前から『情報』という科目が高校生から導入されて、今では小学校から学校で勉強するようになったわけです。高校の中にも『情報科』『情報コース』などの名前で、かなり専門的なITスキルの習得が可能なところも随分と増えています。皆さんご存じのように、センター試験やその後継である大学入学共通テストにも『情報』の科目が組み込まれました。
ところが、こういった学校側の努力にもかかわらず、新社会人のITスキルの格差が、収入の差につながったり、職場での自己実現度の格差につながるというケースが非常に多いのが現実です。企業側からしても、ITスキルを持った人材が圧倒的に不足している状況が、改善するどころか加速している現状です。
現在、例えば大学入試では、英語が必須科目になっているケースが一番多いかと思いますが、先ほども言いましたように、現代の仕事の中心にあるのは英語ではなくてITです。極論を言えば、現実的に考えれば、学校で英語教育に力を入れるよりもIT教育に力を注いだほうが、皆さんの幸福な人生を送っていただくためにも、日本の国力を上げて皆さんに豊かな生活を送ってもらうためにも、よほどプラスになる可能性が高いということができます。
…今回でこの講座の必修コースは終わりになりますが、皆さんの将来のために、少しでも本格的なITの技術に触れておきたいという方は、来月からの全クラス合同での選択コースを履修されることを強くお勧めします。申込みの〆切が迫っていますのでお早めに…」
聞いている生徒の顔つきは十人十色である。ただ、初めから真面目な態度で梅ケ谷の講義を聞いている生徒はおそらく五分の一に満たなかったが、授業が終わる頃にはクラス全体の三分の一くらいは真剣に話に聞き入っていた。程度の差はあれ、「ITやんなきゃヤベーんだな」と感じた生徒の割合は、ほぼ100%に近かった。
ITリテラシー講座の担当クラス分けは、1年1~3組が凛太郎、4~6組が七海、7~10組が梅ケ谷である。梅ケ谷がしたのと同じようなITに関する説明は、凛太郎も七海も同様に行った。七海の担当クラスはともかく、凛太郎から説明を受けた組の生徒たちが、どれだけITスキルの必要性を感じ取ったかははなはだ疑問であるが、1組の
対して
「…葛原先生。」
1年1組に対する授業が終わった後、健康的な体つきにスポーティーな髪型の美少女が凛太郎に話しかける。
「は、はい?」
凛太郎はドキリとした。『先生』と呼ばれることには慣れていないのだ(これからも慣れそうもない)。
「棗田郁未です。選択コース、受けたかったんですけど。ちょっと事情があって難しくなってしまって…
ITを独学したいんですけど、どう勉強したらいいか相談に乗ってもらうことって、できませんか?」
そうだ、本来、この子を救うのがメインの目的でこの学校に潜入したのだった。初心忘るべからず… もっとも、この「ITリテラシー講座」の開設にあたっては、九頭龍と梅ケ谷はもっとスケールの大きなことを
「そうですか、残念だね… 他の授業とは時間は
「…えっと、実は… 急に転校することになっちゃって。」
(転校か。なるほど)
凛太郎は目を一瞬つむって、再び開けた。
「…フフン。
凛太郎の口調が急に変わったので郁未は驚いた。瞳の色も変わっている。『いじめの参加者には、地獄を見せる』と宣言した時と同じだ。
「気を悪くしたらすまんがな。実はこのITリテラシー講座には裏の目的があっての」
「…はぁ…」
「『新しい教育のやり方の実験的取り組み』というのは、ついででな。儂らは、もともとはおぬしを助けにきたのじゃ。棗田の郁未とやら。」
「…!」
「おぬしの選択肢は2つしかない。今すぐここで決めよ。
…戦うか、逃げるかじゃ。」
「私は…」
郁未の脳裏には、ここひと月の出来事が走馬灯のように浮かぶ。
一番強烈によみがえってきたのは、理事長との会話と、それに対する、いや大人の汚いやり方に対する煮えたぎるような怒りだった。
『このことを他言せずに穏便に済ませてくれれば、飛知和さんのお父さんが転校の費用と大学の費用をすべて出してくださって、就職先の紹介までしてくださるそうだ。自主退学という形にはなってしまうが、すごくいい条件だと思う。納得してもらえるかな?』
「私は… 戦います…!」
「そう言うと、思うとったぞ」
郁未の目の前にいる、二重人格としか思えない社会人講師は、不敵な笑みを浮かべた。口元からは、とても人間のものとは思えないほど鋭くとがった牙がのぞいていた。
(つづく)
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