第25話 地獄

郁未いくみ。アンタん、寄付金収めてないんだって?」


 萌美の父親の飛知和一俊は、青祥学院高等部父母会の会長だ。寄付金の取りまとめ役も兼任している。つまりどの家庭が学校への寄付金(繰り返すが、任意である)をいくら収めているのか、あるいは収めていないのかを知っているということになる。


 この日から、郁未の机にも靴箱にも、「貧乏女」「下流家庭」といった落書きがされるようになった。ある日投稿すると、ペットボトルを切って作った募金箱が置かれていたこともあった。


 棗田なつめだ郁未の家庭は貧しいわけではない。かといって余裕があるわけでもない。棗田家は共働きだ。父親の英幸は仕事人間で、よき父親であるが家にはほとんどいない。飲食店経営であるため朝はランチの仕込みのために普通のサラリーマンと同じかちょっとゆっくりくらいの時間に出かかるが、帰ってくるのは深夜12時や1時ということもざらである。母親の由紀子は売れない漫画家をしている。漫画家を含む作家業・文筆業で生計を立てている人間の数は、昔と比べて何倍にも増えた。その分収入分布のすそ野は非常に広いものになった。有名誌に作品が掲載され、単行本も売れて印税が入ってくるような作家は、一握りどころではない。泥の中にある砂金程度の割合であろう。大多数の作家の収入は平均的なサラリーマン以下、あるはそれに遠く及ばないのが実情である。


 郁未の両親は、郁未に対してよき父・よき母ではあるものの、二人とも仕事人間で学校関係の催し物にはほとんど顔を出さない。出す暇がないのである。棗田家は父親の英幸ひでゆきが飲食店経営、母親の由紀子が漫画家で、二人とも食事時以外はほとんど一日中仕事場にこもって出てこない。したがって人づきあいが極めて悪く映る。父母会や授業参観は、クラスの皆の場合だいたい母親が参加しているが、郁未の母親の由紀子は「〆切が近いから」といっていつも欠席である。二人とも決して人と交流するのが嫌いなわけではないが、どこか超然としているところがある。仕事柄なのかもともとの性情なのか、あるいはプロの料理人・プロの作家業をしているうちにその性情が助長されたのか、他人や世間の評価などに左右されない生き方をしている。だからお金が爆発的には儲けられないのかもしれない。父親の英幸も、どこの店でも真似ができないような素材で料理を出して、お客さんに喜んでもらうのが生きがいらしい。お金の話をしているのは、郁未は聞いたことがない。


 変わった食材の料理を何と言ったか… そうだ、「ジビエ」だ。郁未の父は、新宿のジビエ料理レストラン、『カルメン』のオーナーをしている。新型感染症の蔓延により売り上げがほぼゼロ、それどころか家賃だけが出ていくマイナス収支状態が1年以上続き、破産寸前までいった。感染症のパンデミックも落ち着き、最近サラリーマン向けに手軽なランチメニューを始めたところ好評で、不思議と売り上げが上がってきていると言って父は喜んでいた。よくランチに来る若い男性サラリーマンが、たまにものすごい美人を連れてくるそうだ。初めて連れてきたときは、その美人が頓狂な叫び声を上げたんだという。きっととんでもない料理を出したんだろう。



 こうした「我が道をゆく」両親の気質は、郁未と弟の直輝にも多分に受け継がれた。棗田家の家訓は「何でも、自分の頭でしっかりと考えること」だ。郁未はこの家訓に忠実に生きている。「皆がやってるから」とか「人から言われたから」というのは、郁未の行動の理由ではない。自分で情報を集める。人に相談もするし、意見やアドバイスも求める。しかしそのうえで、ちゃんと自分で考えて選択するというのが郁未のポリシーだった。だからこそ部活にも入らず、放課後は学校の予習復習ではなく将来のために必要な勉強を模索しながら進めるという道を選んだ。そういう超然としたところが、ひとたびいじめの標的になってからはマイナスに働いてしまった。クラスメートたちから、郁未は「異質である」とみなされたのだ。


 一昔前は「学校裏サイト」というのが、いじめの温床として非常に問題視されていた。文部科学省が調査をして報告書を発表したこともある。同名の小説や映画もある。現在は、ネットいじめの主戦場はSNSに移行した。いわゆる○INEいじめと呼ばれるものだ。

 棗田家が寄付金を収めていないという事実は、その日のうちにRINEのグループチャットでクラス中に拡散された。最初は同情してくれる友人たちもたくさんいた。しかし「閉ざされた均質な集団」とは本当に恐ろしいものである。一度火がつくとその勢いが止まらない。だからこそ、ネットいじめによる自殺というのが全国で後を絶たないのだ。

 高1の夏ごろには、もう郁未の味方はいなかった。クラスのグループRINEには最初から加入していなかったが、自分がだんだんと孤立していくのは肌で感じることができた。辛かったが、もともと一人でしっかり生きていけるように、放課後もちゃんと勉強しているんだ。ベタベした人間関係も好きではないし、平気平気。そう思っていた。


 人間のサディズムというのは恐ろしい。誰でも、不祥事を起こした企業のトップや政治家たちが謝罪会見をするのを見たことがあるだろう。その際、報道陣からの質問に対する受け答えが「なぜこんなに横柄なのだろうか」と疑問に思ったことはないだろうか。もちろん本人たちが傲慢な人物であるケースもままあるのかもしれない。が、「悪いことをした側が、いかにも申し訳なさそうにすると、それを追求する側の人間にサディズムが働いて、どんどん意地悪な質問をされる」ことが多く、状況がますます悪化するので、それを防ぐためにわざとふてぶてしい対応をする、というマニュアルが存在する場合もあるという。


 「正義中毒」という言葉がある。人は悪事を働いた人間を、自らの正義感で裁くのが大好きな生き物らしい。また、有名な「打落水狗」という考え方がある。これらに共通しているのは、人間の奥底にあるサディズムの恐ろしさであると感じる。


(※打落水狗…水に落ちた犬を打て、の意。日本では「ドブに落ちた犬は沈めろ」というような表現をされることが多い。中国の魯迅ろじんの言葉らしいが、もともとは「水に落ちた犬はそれ以上打つな」という意味の中国の故事を皮肉って反転させたものであるそうだ。一応魯迅と中国の名誉のために補足をしておく。)


 棗田郁未はまさに「水に落ちた犬」になった。後は沈めるだけだ。飛知和ひちわもえは、水に落ちた郁未を「沈める」計画を練るのが楽しくて楽しく仕方なかった。



 ある日、最後の授業は化学の実験で移動教室だった。化学実験室は理科棟と呼ばれる、離れの建物の中にある。終業のチャイムが鳴る。実験器具の後片付けを皆で手分けして行っているとき、郁未にクラスメートの岩部いわぶ舞香まいかが話しかけてくる。


「ねぇねえ。ちょっと分からないところあったんだけど。教えてくれない?」


「?いいけど…」

郁未は「あたしと話して、大丈夫なの?」と言いかけて、やめた。


分からないポイントの解説自体は、ものの数分で終わった。さて、今日も一人で帰るか。


「郁未、ありがとう! …ちょっと、トイレ行かない?そのまま一緒に帰ろうよ」


後から振り返ってみれば、ここで怪しいと感づくことは十分にできたはずだ。しかし、郁未は「一緒に帰ろう」と誘われたことが素直に嬉しかった。それだけ、心が弱っていたとも言える。

理科棟のトイレは、いつもの教室と違って、ほとんど人が来ない。郁未と舞香の二人は、一緒に理科棟のトイレに入った。郁未は個室に入ろうと奥に進んだ。ところが、誘ってきたはずの舞香は、用も足さずに慌ただしくトイレから出ていってしまった。

 不思議に思っていると、入れ替わりに4~5人の男子生徒たちが入ってきた。


「!」


「…わりィな。静かにしてろよ。騒ぐと痛い思いするぜ」


 その日、郁未の体は、男子生徒たちに押さえつけられ、トイレの個室で代わるがわる凌辱された。




 おぞましい時間が終わり、郁未は理科棟のトイレから出た。すると一匹の黒猫がどこからともなく現れ、ニャアと鳴きながら郁未の足元にすり寄ってきた。


「…慰めてくれてるの?ありがと」


郁未は自分が泣いていることにも気づいていなかった。



いっそのこと、死んでしまおうか―


あれから毎日、何度も何度もその考えが郁未の頭をよぎるが、そのたびに、自殺というのは敗北を認める一番の形だ。それはあまりにも悔しい、と必死に自分に言い聞かせた。いじめの一環としては、あまりにも極端な手を打たれたように思うが、意外とよく考えられた犯行かも知れない。普通のいじめよりも、体を辱められた方がずっと言い出しづらくなる。両親にも、とてもじゃないが言い出せない。極めつけは―


(あいつら、私を犯してる一部始終を動画で撮っていやがった)


―今すぐネットに流出させるつもりはないだろう。被害届を出させないための抑止力だ。犯人の目星はついている。主犯格の男子は、「悪ィな」と言っていた。自分の意志ではない、弱みを握られたか金で買収されたということだろう。ほぼ間違いなく飛知和ひちわもえの仕業だろうが、証拠はどこにもない。


 水に落ちた郁未は、沈められた。もう浮かんでは来れない。

先週はどんなことがあたっけ。昨日は何をしたっけ。誰かに助けをもとめたんだっけ。思い出せない。今は、何の時間だっけ。頭が回らない。


「…えー、ですから、そのー…」


遠くの方で誰か、何か喋っているのが聞こえる。そうか、体育館での高等部全校朝礼か。校長が話してるんだ。


「…えー、幸いなことに本学ほんがくは、そのスーパーデジタルスクール構想のモデル校として国から選出されました。それに伴って、えー、本格的なITリテラシーの講座を開講します。文部科学省からの紹介をもらって、ITビジネスの第一線でご活躍中の社会人の方を、えー、特別講師としてお招きすることになりました。…では、どうぞこちらへ」


校長は掌を上に手を差し出すジェスチャーで、その人物たちに向けて壇上に上がるように促した。体育館が少しざわめく。校長の横に並んだ二人は、モデルか女優かと思うようなものすごい美人と、頼りなさそうな小柄な男のペアだった。ヒールを履いているのもあるが、女の方が背が高い。校長が二人を紹介する。


「日本を代表するIT企業の一つ、株式会社ギャラクティカにお勤めの、阿賀川あかがわ七海さんと葛原くずはら凛太郎さんです」


(つづく)

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