第13話 非常識
凛太郎は、意識を失って公園の地面に倒れこんだ水内の手からナイフを奪うと、折り畳み式の刃をパチンと柄の中にしまって、自分のポケットに入れた。
「これにて、一件落着…」
とは、いかなかった。
ドロリ、と、水内の口から黒い液体のようなものが流れてくる。あとからあとから湧いてくるその黒い液体は、意志を持っているかのように動き、ある一つの形を成そうとしていた。銀髪で筋骨質な若い女である。並みの成人男性を凌駕する筋肉の量ではないだろうか。服装は半裸に近く、とても健全な少年少女たちには見せられないような恰好をしている。が、おかしい。それ以上にどこか違和感がある。よく見ると、頭から、2本の鋭い角が生えているではないか。
「…鬼?」
千沙都の脳内パニック経験値が、またしても更新された。
女の鬼は水内の体からやや離れたところで完全な姿を形成すると、口を開いて非常にガラの悪い台詞を吐いた。
「そこのヒョーロク玉。なに勝手にこいつの瘴気を喰ってやがる。アタシがこの男と融合できなくなるだろうが」
「口の利き方を知らん奴じゃな。おぬし…
「アタシを知ってんのかい。どこの龍だ、てめぇ」
「箱根の芦ノ湖のものじゃといえば、分かるか?」
「…!まさか… そうかい。相手にとって不足はないねぇ。久々に暴れさせてもらおうかい」
女の鬼の姿が突然消えた。かと思うと次瞬間には、凛太郎の目の前で拳を振り上げている。そのまま、十分な殺意を込めて、鬼は凛太郎の顔面に殴りかかった。
パシッ!
凛太郎は涼しい顔で、掌で鬼の拳を受け止める。
「おうおう、ケンカっ
息も継がせずブワッと蹴りが飛んでくるが、それも凛太郎は難なく受け止める。相当、力の差があるように見える。
「そんなものか?人間風情に討伐されたのじゃから、無理もないか」
「チッ…!」
女の鬼は、肉弾戦では九頭龍に勝てないと踏んだのか、一旦勢いよく後ろに飛びのき、距離を取った。片腕と両足をついて着地する。勢いのあまり、ザアッと着地地点からさらに後ろに滑ってゆく。
「…
体勢を立て直して立ち上がった鬼が、両手の10本の指をガバッと大きく開くと、全ての指の爪が、ジャキンと音を立てて禍々しく伸びた。20センチ以上はありそうな長さだ。
ダッ!と踏み込むと、再び瞬間的に凛太郎の前に移動している。
「ラァッ!!」
雄たけびとともに、右腕の爪を振り下ろす。
「む…」
九頭龍凛太郎は何事かを察する。先ほどと同じように凛太郎の体で素手で受けると、何か不味いことになりそうだ― 瞬時に判断して、九頭龍凛太郎は振り下ろされた爪の攻撃をかわす。すると―
ガキン!
と金属音がして、凛太郎の後ろにあったジャングルジムが滅茶苦茶に切り裂かれた。
「ほう…」
やや目を見開く九頭龍凛太郎。
「
九頭龍はそうつぶやくと、再び爪を振り下ろそうと襲いかかってきた鬼の体を、何かで真っ二つに切り裂いた。何を使ったのか、早すぎて千沙都の目ではとらえることができなかった。
♦
千沙都は、目の前で何が起きたのか、ほとんど分からなかった。とりあえず脅威が去ったらしいことだけは理解できた。水内の動かなくなった体を、複雑な思いで眺める。死んでしまったのだろうか。
「心配無用じゃ。死んではおらん。こやつの脳は、
「しょうき…?あの鬼のことですか?」
「いや、そうではない。瘴気というのは…まぁ…邪悪な気、とでも思っておくがよい。本来、普通の人間にはあれほど強い鬼は憑依できん。負のエネルギーが足りぬからな。あの男の脳と体内には尋常でない量の瘴気が溜まっておった。それであの鬼の
「…」
「こやつの脳内の瘴気は、儂が平らげた。もうこやつは普通の人間に戻るはずじゃ。ただし、脳と同化してしまっていた分の瘴気まで根こそぎ喰ったから、こやつの記憶の大半は失われるじゃろうな。」
「えっ…」
「そろそろ気が付くぞ。他人の振りをせよ。」
「…??」
「う~ん…」
千沙都が戸惑っているうちに、水内が意識を取り戻して起き上がろうとする。
「…大丈夫ですか。飲み過ぎたんでしょう。」
九頭龍凛太郎は、今までとは打って変わって、常識的な言葉遣いになった。
「ご自分が誰だか、分かりますか?」
「…ダメだ。何も…何も思い出せない…」
「落ち着いて。記憶が混乱してるんじゃろうと思いますですよ。財布に身分証が入っているはずです。ひとまず、そちらに書いてある住所に帰りましょうかの。あちらの方向です。」
「はい…どうも、ご迷惑をおかけしました」
「大丈夫ですよ。では、お気をつけての。」
気を抜くとところどころ言葉遣いが戻る。詰めが甘い龍神だ。
「はぁ… どうも。失礼します。」
水内は千沙都の方にもチラリと目をやったが、軽く目礼をしただけだった。千沙都は一瞬びくっと怯えたが、慌てて目礼を返した。
水内は、ゆっくりと自宅の方角へ向かって去っていった。
「ふぅ…今度こそ一件落着、ということでよいかの」
「あの…あの人の記憶が戻る可能性は…」
千里は心配そうに尋ねる。
「どうかのぅ。半々というとこじゃな。」
「そうですか…」
「相当あの男と因縁が深いようじゃな。安心せい。瘴気自体が完全に消えておる。もし記憶が戻っても、おぬしに害を加えるような人間には戻らんはずじゃ」
「…本当ですか!」
にわかには信じられない話である。これで、自分はとうとう過去から解放されるのか。
確かに先ほど、この若者は顔から上が龍に変わった。女の鬼とも戦って切り伏せた。あの鬼は――たしか『茨木童子』と呼ばれていた気がする――切られると消えてしまったが、死んだのだろうか… 脳のキャパシティを超えたことを、今日の一日であまりにもたくさん体験している。一旦、常識はすっかり忘れた方がいいのかもしれない。
「さて。これからどうするかは、おぬしの自由じゃ。」
「えっ…」
「店に戻ってもよいがの… おぬし、幼い子どもがおるな?」
「え!?はい… どうして分かるんですか?」
「ふふん、匂いで、だいたいのことはな。似た匂いが2人分する。兄弟かの?」
「はい、双子です。」
「尊いのぅ。最近は子どもが少ないのじゃろ?嘆かわしいことじゃ。
…どうじゃな。これを機に、子育てに専念しては。儂は花魁の仕事が悪いことだとはまったく思わんが、どんな職業よりも子育ての方が大事な仕事ではないかの」
「…」
千沙都は、言葉を絞り出すことができない。今日の一日で、一体何日分、いや何年分感情が揺さぶられただろうか。
「おぬし、夫はおるのかの?」
「…いえ、いません。実は、子どもたちの父親も、はっきりは分からないんです」
「そうかそうか、若いのに大変な人生だったの。…安心するがよい。ぬしを見ればわかる。二人とも、素晴らしい子に育つぞ。儂が保証する。
(いけない。また泣いてしまう)
千沙都は、もう枯れたと思った涙がまた出てきそうになるのをこらえるのが必死だった。
「おぬしのような母親を“しんぐるまざあ”と言うのじゃろ?今の世にはたくさんおるのか?」
「そうですね…。私みたいに夜の仕事をしている女子だと、本人がシングルマザーのケースも多いですけど… もっと問題なのは、シングルマザーに育てらた
「なるほどな。」
(この
九頭龍は感心した。
「そうじゃ… おぬし、少し時間はあるか?子供たちがお腹を空かせて待っておるかの?」
「?いえ、夕方まで保育園に預けてますので、まだ全然時間は大丈夫ですが…」
「そうか。それは良かった。ちょっと電話するでの。しばし待っておれ」
九頭龍凛太郎は、いつものように牙を見せて微笑むと、携帯電話を取り出してある人物にかけた。
「…はい、もしもし」
先方はワンコールが鳴り終わらないうちに出る。
「おう、カンちゃん。じゃなかった、梅よ。儂じゃ。ちょっと相談というか、頼みたいことがあるんじゃが。」
「何でしょうか?」
「全国の“しんぐるまざあ”たちに、助成金をだす民間の財団をつくれるかのう?なるべく早い方がいいんじゃが。」
「そうですね… 一週間もあれば、設立可能でしょう。」
「さぁすが。それで… 子育てというものをじゃな、男の仕事と同じように考えたときに、いくらぐらい支払うのが相場なのかのう?」
「常識的に考えると、年100万円から、多くても300万円というところだと思いますが… 実は、育児を仕事とみなした際の適正な
「ほぉ」
「…試算によって当然ばらつきはありますが。大体、子ども一人につき年1,000万から1,200万円。精神や肉体にハンディキャップのある子供を育てる場合は、年収1,500万から2,000万円分の仕事に相当するようです。
…どうされますか?」
「フン。聞くまでもないじゃろうが」
「…ですよね。」
梅ケ谷も自然と自分の口角が上がるのを感じた。実に珍しい。
(つづく)
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