第10話 色欲

 ハワイ出張から帰ってきた七海と凛太郎は、いつもの業務に戻っていた。


 ある日の終業後、七海の部屋。ギャラクティカでの業務が終わっても、七海は自分の部屋で副業のwebデザイン業務、退勤と同時に九頭龍に戻った凛太郎も、自分と梅ケ谷で立ち上げた仮想通貨事業の仕事がある。それぞれ、七海は自室のデスク、九頭龍凛太郎はリビングのテーブルでPCを広げて真面目に仕事に打ち込んでいるのだが。


「カタカタカタ…」


「カチ…カチ…」


ひたすら、キーボードとマウスを操作する音が、無音の部屋に響いている。


…と。

突然、テーブルを両手で「バン!」と叩いたかと思うと、九頭龍凛太郎はやおら立ち上がって絶叫した。


「オナゴー!!女子おなご!女子を抱かせろ!!」


「うっるさいわね、もー!!」

七海は顔を赤らめて叫び返す。


「龍神といえば色欲、これ常識。目覚めてから、何かを忘れておると思っとったわい…!

 女子おなごじゃ。女子を忘れておったのじゃ。現代いま風に言えば超絶イケメン龍であるこの儂が、女子を何か月も抱いておらんとかあり得んぞ!」


「知りませんッ!!!」



 10年前―。


 勇 千沙都いさむ ちさとは、13歳の時に父親を事故で亡くした。母親の京香と千沙都は、近所でも評判の美人母娘ははこだった。シングルマザーとしての生活の厳しさは、予想した程ではなかった。家賃は公営住宅に引っ越したおかげで月2万円以下に押さえられた。自治体からの補助金は全ての母子家庭がもらえるわけではないし、全額ではなく一部支給となる場合もあるらしいのだが、京香は運よく全額給付の対象となった。また、児童育成手当も月1万5千円。自治体からは月6万円程度もらえていた計算になる。それに父親の死亡保険金が2千万円入ってきた。それまでは主婦だった京香は、ファストフード店のパートの仕事に就いたが、仕事をしなくともこのまま慎ましく幸せな生活を送ることは、十二分にできたはずだった。


 京香は美人であった。結婚した年齢も若かったので、千里が15歳になった年でも36歳、まだまだ女ざかりはこれから、という歳だった。自然、新しい男ができた。水内秀樹みずうち ひできという京子の新しい恋人は、当時33歳だった。京香のパート先のファストフード店の客だったらしい。人材派遣の会社で、役職のある地位にいるらしく、真面目で優秀な人物のようであった。少なくとも、京香が水内と再婚するまで、そして再婚してしばらくは、千里にはそう見えていた。しかし、化けの皮はすぐに剥がれた。


 水内の目当ては京香ではなく、娘の千沙都だった。(いや、両方を欲していたのかも知れない。)最初は、毎晩のように学校の勉強のことや将来のことで、親身に相談に乗ってくれているのだと思っていた。そのうちに、「娘としてではなく、女として君を愛している」ということが言われるようになった。初めて千沙都の体に牙がかれたのは、たまたま京香が家におらず、千里と水内が2人だけのときだった。もちろん、であった。「お母さんに心配をかけないように、内緒にしようね」と念を押された。しかし後から考えると、この時にスパッと京香に気づかれれば良かったのだ。


 水内はそれからもしばらくは、京香が家にいない時間を狙って千沙都に襲いかかった。しかし、そんな機会は限られている。夜に水内が千沙都の部屋に通うようになるまで、そう長くはかからなかった。行為中、万が一にも母を起こしてはならないと、千沙都は必死に声を殺した。だが、そんなことを毎晩のように続けていて、母親が気づかない方がおかしいのである。いつの時点で京香が気づいたのか、それは今となっては知る由もない。


 ある日千沙都が帰宅すると、京香は自室で首を吊っていた。遺書には、水内が夜な夜な千沙都に手を出していたことに気づいていながら、言い出す勇気がなくてごめんなさい、という趣旨のことが書いてあった。遺書の内容が決め手となって、水内は裁判で罪を認めざるを得ず、刑務所に収監されることになった。千沙都は施設に入ることになったが、そこでの暮らしも千沙都にとって大変に辛いものだった。私物がどんどん盗まれるなど、あからさまなイジメに遭う。千沙都のルックスがいいからだろう。早々に、高校を中退して一日でも早く施設を出て自活することに決めた。実の父親の保険金の残りを頼ることは考えなかった。水内と相談しなければいけなくなるだろうから。「どうせ、汚れた体なんだ―」18歳から、千里は路上とマッチングアプリで体を売り始めた。違う男と体を重ねる度に、水内に汚された体が浄化されるような感覚さえ感じた。


 客の一人に、正代しょうだいと名乗るスカウトマンがいた。「君なら最上級の待遇で働けるから」と熱心に説得され、紹介されるがまま、「PEARL(パール)」という高級風俗店で働きはじめた。源氏名は「樹里じゅり」にした。入店してすぐに人気が爆発し、No.1キャストとなった。


 まもなく―

 千沙都は妊娠していることがわかった。双子だった。どちらか分からない。客との子なのか、あの汚らわしい男との子なのか。どっちにしても全くもっていい気はしない。が、お腹に宿る2つの新しい命に対しては、不思議と愛おしい気持ちしか湧いてこなかった。2人とも強く生きてほしいという願いをこめて、龍ノ介・虎ノ介と名づけることにした。孤児院に預けるという選択肢もあったが、千沙都は2人の命に向き合うことに決めた。


 身寄りのない状態での双子の出産と育児は苛烈なものであろうが、女は母親になると心底強い生き物である。PEARLの店長に事情を話し、店を裏切るようなことはしない、必ず戻るという約束をして、お腹が出てくる妊娠6か月から、保育所に入れられる最低年齢の生後2ヵ月がくるまで、育児休暇をもらえないかと相談した。店長の槌田という男は理解ある人物で、千沙都に同情してくれた。売り上げトップのキャストだからという贔屓目ひいきめも多分にあったのだろう。「お腹の子が心配だから今すぐ休暇を取れ、お金が必要ならお店から貸してやる」と言ってくれた。それから、仲良くなった朋美という店で一番若手の風俗嬢に事情を話し、育児の手伝いを頼んだ。なんと店長ふくめ男性店員までが「手伝うよ」と申し出てくれた。千沙都

 千沙都は、店との約束を守り、出産から2か月で店に復帰した。もちろん保育園の時間が終わるまでの出勤である。同僚の朋美とと梶谷かじたにという男性店員は、約束通りたまに手伝いに来てくれた。決して日の当たる生き方だとは言えないのかもしれないが、自分は恵まれていると実感した。


 5年後。龍ノ介・虎ノ介兄弟は5歳、そろそろ小学校のことも考えなければ… 土日はPEARLの仕事は入れていないが、保育園もないので一日中双子たちの面倒を見なければならない。まったく休む暇もない日々であるが、この子たちのためだと思うと、千沙都はどんなことでも平気だった。自分を支えてくれる仲間もいる。心配はないはずだ。




 ある日。千沙都は、体力的に一日の客数を4人までにしてくれと店側にお願いしてある。今日も4枠完売だ。今日はスタートから3人つづけて馴染みの客。最後の4人目は、新規の客らしい。


(よしラスト一人、頑張ったら、龍と虎に会える)


 いつになっても新規客との初対面は緊張するものである。PEARLにはエレベーターがない。嬢が待機している部屋から受付と客の待合室のある1階まで、階段を降りて迎えに行くスタイルである。新規客の場合は、そこで嬢と初対面となる。


 梶谷が客を案内する。

樹里じゅりさんのご指名、ありがとうございます。お時間までごゆっくり、お楽しみくださいませ」


「…!!」


千沙都は絶句した。





そこに立っていたのは、水内秀樹。自分の体を汚し、母親を自殺に追いやった張本人であった。


(つづく)


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